第86話 九重の深閨、さらなる束縛
侵入があった翌日。
聖王国の朝は、いつもと変わらず始まった。
鐘の音が街に響き、人々は足を止め、短く祈りを捧げる。
通りは整然としており、混乱の気配はどこにもない。
外から見れば、何一つ問題は起きていないように見えた。
それが、この国の特徴だった。
問題は、表に出る前に処理される。
混乱は、起きる前に整えられる。
目に見えないところで、すべてが調整されている。
大聖堂の奥。
白を基調とした執務室で、大司教は報告を受けていた。
「昨夜の件ですが」
控えていた聖職者が、抑えた声で切り出す。
「警備の者が、入室の時間について混乱を起こしたようです」
「混乱、か」
大司教はわずかに眉を動かした。
「巫女様の身に影響は?」
「ございません」
「ならば結構」
即答だった。
大きな問題になっていないのであれば、それ以上の説明は不要。
余計な騒ぎは避けたい。
特に、この時期は。
「ただ」
聖職者は言葉を選んだ。
「巫女様の周囲に、外部の気配があった可能性が否定できません」
「……可能性、か」
曖昧な表現。
確証はない。
しかし、無視するには落ち着かない報告だった。
大司教は小さく息を吐いた。
面倒なことにならなければよいが。
神託は、滞りなく行われる必要がある。
象徴に問題があれば、説明を求められる。
説明は出来るだけ避けたい。
特に上に対しては。
「警備は?」
「基準通りです」
「では、基準の範囲内で調整しろ」
露骨な変更は不要。
象徴の周囲に異常を感じさせるのは得策ではない。
あくまで自然に。
あくまで手順の延長として。
管理を強める。
「祈りの時間を増やせ」
「祈り、ですか」
「精神状態の安定を優先する」
それならば、誰も疑問に思わない。
神託は、神からの言葉だ。
巫女の状態は重要とされている。
より深い祈り。
より静かな環境。
より純粋な精神。
どれも教義の範囲内だった。
「外部との接触は」
「最低限に制限します」
「理由は」
「神託前の集中維持、と説明いたします」
自然な流れ。
余計な詮索も生まれない。
「よろしい」
大司教は短く頷いた。
問題が大きくならなければ、それでいい。
神託が無事に行われれば、それでいい。
象徴が揺らがなければ、それでいい。
余計な手間が増えなければ、それでいい。
一方。
巫女の居室では、朝の準備が進んでいた。
いつもと同じ時間。
いつもと同じ手順。
違うのは、祈りの時間が少し長くなっていることだった。
「本日は、より静かな環境を整えております」
付き添いの聖職者が穏やかに説明する。
「神託に向け、十分な集中が得られるようにとの判断です」
理由としては自然だった。
ヨーコは小さく頷いた。
深く問い返すことはない。
問い返す必要がない。
求められていることは理解している。
それに従うことが役割だった。
窓は半分だけ閉じられている。
外の音が入りにくいように。
廊下の足音も、いつもより少ない。
出入りする者の数が制限されていることが分かる。
誰も説明はしない。
だが、空気が少し違う。
静けさの質が変わっている。
祈りの時間が終わる。
短い沈黙。
付き添いの聖職者が一礼する。
「本日の神託も、多くの方が待ち望んでおります」
それは事実だった。
巫女の言葉は、人々に安心を与える。
迷いを取り除く。
正しい方向を示す。
そう信じられている。
ヨーコはゆっくりと立ち上がる。
衣装の裾が静かに揺れる。
余計な装飾はない。
清潔で、無駄がない。
象徴としての姿。
それが求められている。
廊下へ出ると、護衛の位置がわずかに変わっていることに気づく。
人数は同じ。
配置だけが違う。
理由は分からない。
説明もない。
だが、何も言わない。
言う必要がない。
そういうものだと理解している。
すべては神託のため。
すべては人々のため。
そう説明されてきた。
そう信じられている。
大聖堂の奥へ向かう通路は、今日も静かだった。
白い壁。
白い床。
整えられた空間。
何も変わらない景色。
その中に、ごくわずかな違いが混ざっている。
気づかない者もいる。
気にしない者もいる。
だが、確実に存在している。
表面は変わらない。
手順も変わらない。
それでも。
見えないところで、調整は始まっていた。
秩序を保つための調整。
正しさを維持するための調整。
揺らぎを生まないための調整。
それが、この国のやり方だった。




