第85話 変わらぬこそ、心なりけれ
宿へ戻った後も、リコはしばらく言葉が出なかった。
椅子に座ったまま、指先だけを静かに組んでいる。
いつもの余裕のある笑顔は、そこには無かった。
ナーチャンが湯を注ぎ、静かにカップを差し出す。
「どうぞ」
「……ありがとう」
リコは小さく礼を言い、カップに口をつけた。
だが、ほとんど味は感じていない様子だった。
ユージは、向かいの席でその様子を眺めながら、特に急かすこともなく口を開いた。
「……やっぱり、あの巫女さん、知り合いなんだな」
リコは一瞬だけ目を伏せ、それから小さく息をついた。
「知り合い、なんて言葉で片づけられる相手じゃないわ」
しばらく沈黙が続く。
窓の外では、聖王国の夜が相変わらず整然と進んでいる。
笑い声も、酔客の騒ぎも聞こえない。
ただ静かに、人々が眠りにつくだけの街。
「……妹なの」
ようやく、リコが口を開いた。
ナーチャンの手が止まる。
ユージも、少しだけ姿勢を正した。
「やっぱりか」
驚きはしない。
むしろ納得した、という反応だった。
「昔はね、よく私の後ろをくっついて歩いてたのよ」
リコの視線が、遠くを見るように揺れる。
「怖がりだったくせに、変なところで頑固で」
「一度言い出したら聞かない子で」
小さく笑う。
だが、その笑みはすぐに消えた。
「近所の男の子にいたずらされて泣かされた時も、私が木の棒を持って追いかけ回して……」
「女の子がやることじゃないわよね」
「あとで私だけ怒られて、あの子は後ろで笑ってたわ」
懐かしそうに、しかし少し悔しそうに目を細める。
「お菓子が好きでね」
「一つしかない焼き菓子を見つけると、絶対に譲らないの」
「でも、私が拗ねると、半分に割ってくれたりして」
リコはカップを両手で包んだ。
「寒い夜は、よく一緒に寝てた」
「怖い夢を見たって言って、布団に潜り込んできて」
「そのまま、朝まで私の腕を離さないのよ」
声が、わずかに震えた。
「……あの子、本当はすごく甘えん坊だったの」
ナーチャンは何も言わない。
ただ、静かに耳を傾けている。
「でも」
リコは言葉を切った。
「ある日、急にいなくなった」
「教会の人たちが来て、“資質がある”って言って」
「それからは、もう普通に会うことも出来なくなった」
カップの中の湯気が、ゆっくりと揺れている。
「次に会った時には」
「もう、別人みたいになってた」
「言葉遣いも」
「表情も」
「立ち方も」
「全部、“正しい巫女”になってた」
しばらく沈黙が落ちた。
ユージは腕を組み、少し考えてから口を開いた。
「……まあ、会社でも似たようなことはあるけどな」
「新人が研修で妙に丁寧な喋り方になって帰ってきたりとか」
「でも、あそこまで徹底されると、さすがに違和感あるな」
リコは小さく頷いた。
「あの子、笑わなくなったのよ」
「正確には、“笑うように見える表情”はするの」
「でも、昔みたいにくしゃっと顔を崩して笑うことがなくなった」
「何を考えているのか、分からなくなった」
指先に力が入る。
「私は、連れ戻そうとした」
「無理だって分かってたけど」
「それでも、あの子はあんな場所にいる子じゃないって思ったから」
ユージは黙って聞いている。
「結果は、まあ……想像つくでしょ」
少しだけ肩をすくめた。
「それ以来、私は聖王国にいられなくなった」
ナーチャンが静かに言う。
「それでも、再び訪れた」
「ええ」
リコは迷わず答えた。
「だって、あの子がまだあそこにいるから」
短い言葉だった。
だが、それで十分だった。
ユージは椅子の背にもたれた。
「理由としては、十分だな」
「環境改善タスクフォースとしても、一人の労働環境がブラックすぎるのは見過ごせない」
「労働環境ではないと思います」
ナーチャンが冷静に訂正する。
「むしろ、存在環境です」
「それはそれで重いな」
ユージは苦笑した。
「まあ、どっちにしろ、本人が望んでないなら改善の余地はあるだろ」
リコが顔を上げる。
「……助けられると思う?」
「やってみないと分からん」
ユージはあっさり答えた。
「でも、少なくともやってみないと確率はゼロだ」
「つまり、諦めたらそこで試合終了ってことだ」
「どこの安西先生ですか」
ナーチャンが突っ込んだ。
「おい、やめろ!人の頭の中を勝手に覗くな!」
ユージの抗議を完無視して、彼女は続けた。
「情報が遮断された状態では、人は判断そのものが出来ません」
「選ぶことが出来る状況を作る」
「それが第一段階です」
リコはしばらく黙っていた。
そして、小さく笑った。
「……ユージさんらしいわね」
「何がだ?」
「大げさなこと言ってるようで、やることは地道」
「現場主義ってやつだ」
ユージが肩をすくめる。
「産廃も、結局は一つずつ分別するしかないからな」
リコの表情が、少しだけ柔らいだ。
「ありがとう」
その言葉は、誰に向けたものだったのか分からない。
だが、少なくとも。
迷いのない国の中で。
迷いながら動こうとする人間が、ここにいた。




