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【新装版】枯れたおっさん、何もしないで異世界を救う  作者: アズマユージ
第二部 聖王国編

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第84話 わずかな、しかし確かな揺らぎ

 夜が明けきる前の時間。


 聖王国は、まだ静かだった。


 通りに人影は少なく、石畳は朝露にわずかに濡れている。

 等間隔に並ぶ街灯の灯りが、順番に消えていく。


 誰かが合図をしたわけではない。


 だが、すべてが決められた手順のように整然と進んでいく。


 この国では、それが当たり前だった。


 巫女の居室もまた、同じ静けさの中にあった。


 広すぎる部屋。


 整いすぎた調度。


 高価な装飾品は並んでいるが、生活の痕跡はほとんどない。


 机の上に置かれているのは、一枚の紙。


 本日の神託の原稿だった。


 ヨーコは椅子に座り、背筋を伸ばす。


 姿勢を正すことは、半ば習慣になっていた。


 原稿を手に取り、ゆっくりと視線を落とす。


 文字を追う。


 意味ではなく、順序を確認するように。


 区切る位置。


 視線を上げる場所。


 沈黙を置く長さ。


 すべては既に覚えている。


 それでも、繰り返す。


 繰り返すことが求められているからだ。


 何も考えなくても言葉が出てくる状態になるまで。


 そこに、自分の感情が入り込む余地はない。


 入り込ませてはいけない。


 それが、この役割だった。


 紙をめくる音だけが、小さく部屋に響く。


 ヨーコの指は、わずかに止まった。


 ほんの一瞬。


 それだけのこと。


 だが、すぐに次の行へと進む。


 問題はない。


 文章は整っている。


 聞く者を安心させる言葉。


 迷いを取り除く言葉。


 正しい方向を示す言葉。


 すべて、いつも通りだった。


 ——それなのに。


 わずかに、呼吸が浅くなる。


 理由は分かっている。


 昨夜の出来事。


 想定されていなかった訪問。


 そして。


 懐かしい声。


 ヨーコは視線を紙から外し、静かに目を閉じた。


 忘れることはできない。


 忘れてはいけないわけでもない。


 ただ、思い出してはいけないことになっている。


 それだけだった。


 胸の奥に残っている感覚。


 暖かいような。


 苦しいような。


 説明できない感触。


 声。


 距離。


 呼び方。


 幼い頃と変わらない響きだった。


 変わってしまったのは、自分の方だった。


 ヨーコの指先が、わずかに震えた。


 すぐに止まる。


 誰も見ていない。


 それでも、乱れは許されない。


 整える。


 姿勢。


 呼吸。


 視線。


 すべてを元の位置へ戻す。


 それが出来るように育てられてきた。


 それが出来るように訓練されてきた。


 それが出来るように期待されている。


 机の上の紙は、何も変わらない。


 文字の形も。


 配置も。


 意味も。


 すべて同じ。


 変わったのは、


 それを読む自分の側だった。


 ほんのわずかな違和感。


 ほんのわずかな疑問。


 ほんのわずかな揺れ。


 形にはなっていない。


 言葉にもなっていない。


 ただ、


 そこにある。


 それだけだった。


 扉の外で、足音が止まる。


 護衛の交代の時間。


 毎日同じ時間。


 同じ人数。


 同じ動き。


 同じ間隔。


 変化はない。


 この部屋も。


 この役目も。


 この国も。


 すべてが同じように続いていく。


 そういう仕組みになっている。


 ヨーコは、原稿を閉じた。


 両手を膝の上に置く。


 ゆっくりと息を吐く。


 余計な力が入らないように。


 余計なことを考えないように。


 整える。


 いつも通り。


 完璧な状態。


 完璧な準備。


 完璧な巫女。


 それでも。


 胸の奥に残ったものは、


 まだ消えていなかった。


 記憶は、


 止まってくれなかった。


「……お姉ちゃん……」


 声にならないほど小さな呟き。


 それが、部屋の空気に溶けていく。


 誰にも聞かれることはない。


 聞かれてはいけない。


 残してはいけない言葉。


 それでも。


 完全に消すことは出来なかった。


 ヨーコは静かに立ち上がる。


 鏡の前に立つ。


 表情を確認する。


 いつもと同じ。


 問題ない。


 揺らぎは見えない。


 それでいい。


 それでいいはずだった。


 だが。


 心の奥に残った何かは、


 まだそのままだった。


 名前もないまま、


 消えないまま、


 そこに残っている。


 それが何なのか。


 まだ分からない。


 分からないままでいいと、


 教えられてきた。


 だが。


 ほんの少しだけ。


 そのままにしておきたいと、


 思ってしまった。


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