第81話 導く者たち
聖王国の中央聖堂、そのさらに奥。
一般の信徒はもちろん、下級聖職者ですら足を踏み入れることのない一角に、静かな執務室があった。
豪華ではない。
だが、質素とも違う。
置かれている机も椅子も、壁に掛けられた聖句の額も、すべてが上質だった。
無駄を削ぎ落とした結果としての威厳。
そんな部屋だった。
窓の外には、整然と灯る聖王国の夜景が広がっている。
街路の灯りは、遠目に見ても一定の間隔を保っていた。
迷いのない、正しい光。
それを背にして、一人の男が椅子に座っていた。
枢機卿。
細身の体躯に、無駄のない法衣。
年齢は五十を越えているはずだが、目だけは妙に若い。
人を見る目ではない。
人の動きを観察する目だった。
扉の向こうから、規則正しい足音が近づく。
ノックは二回。
「入りなさい」
落ち着いた声だった。
扉が開き、大司教が入室する。
こちらも白い法衣。
だが枢機卿のものとは違い、実務のために着ている衣だと分かる雰囲気があった。
祈るための服ではなく、運用するための服。
そんな印象だった。
「遅くに失礼いたします」
「構わないのだよ」
枢機卿は窓の外を見たまま言った。
「報告があるのだろう?」
「はい」
大司教は短く答える。
「本日、巫女の居室に侵入者があった可能性があります」
その言葉にも、枢機卿は驚かなかった。
ゆっくりと椅子に腰を深く預ける。
「可能性、か」
「断定はできないのかね」
「痕跡はわずかです」
大司教は淡々と続けた。
「しかし、護衛の証言では“私が司教を三名伴って入室した”とのこと」
「無論、その時刻、私は別行動をしていました」
「変装ですね」
「ほぼ間違いなく」
枢機卿はそこで初めて、少しだけ目を細めた。
「興味深いのだよ」
声は穏やかだった。
だが、その穏やかさが逆に冷たかった。
「この国の構造を、きちんと見ている者がいるということだ」
「正面から入ったのですね」
「はい」
「愚かというべきか、大胆というべきか」
「いえ」
枢機卿は小さく首を振る。
「合理的なのだよ」
「この国では、最も正しい侵入方法だ」
大司教は黙っていた。
反論はしない。
この男の頭の回転をよく知っているからだ。
枢機卿は机の上の書類を一枚手に取った。
そこには、ユージア国に関する簡潔な報告がまとめられていた。
食糧流通。
魔導演算機による統治支援。
多種族共存。
宗教浸透率。
すべてが、きれいに整理されている。
「ユージア国、か」
紙面を眺めながら、枢機卿は呟いた。
「実に興味深い国家なのだよ」
「神を必要としない秩序」
「それでいて、民は飢えず、争いも減り、生活は安定している」
「放置するには惜しい」
「危険視されていたのでは?」
大司教が確認するように言う。
枢機卿は軽く笑った。
「危険でもあり、興味深くもあるのだよ」
「新しい仕組みというものは、常にそういうものだ」
そして、書類を机に戻す。
「AI政治など、許す訳にはいかないのだよ」
静かな断言だった。
「人の未来を、心なきものに委ねるなど」
「健全ではない」
大司教は即座に応じる。
「ですが、彼らの演算機はあくまで補助だと聞いております」
「最終判断は人間が下している、と」
「分かっているのだよ」
枢機卿は穏やかに言った。
「問題は、そこではない」
少しだけ間を置く。
「人はね、普段目にしているものを欲するものなのだよ」
「神を必要としない秩序を見続ければ」
「やがて、人は神を必要としなくなる」
「少なくとも、そう錯覚する」
窓の外に目を向ける。
整った光の列を見ながら、静かに続けた。
「信仰とは、奇跡への期待だけではないのだよ」
「意味なのだよ」
「自分たちが、どこへ向かうのか」
「何が正しくて、何が誤りなのか」
「その基準を外部に持てることが、どれほど多くの者を安心させているか」
「……国民は導かれてこそ幸せになれるのだよ」
大司教は視線を伏せた。
この言葉を何度も聞いている。
そして、それが単なる建前ではないことも知っていた。
「選択は負担です」
大司教が言う。
「迷いは摩耗を生みます」
「その通りなのだよ」
枢機卿は満足そうに頷いた。
「多くの者は、自由そのものよりも」
「自由から生まれる責任に疲れる」
「だから導きが必要なのだよ」
「だから神託が必要なのだよ」
「だから」
そこで、少しだけ口元を緩める。
「巫女が必要なのだよ」
部屋の空気がわずかに冷えた。
大司教は表情を変えない。
「本日の巫女の様子ですが」
事務的な声で報告を続ける。
「表面上は平静でした」
「しかし、わずかに動揺の痕跡がありました」
「侵入者との接触があったものと思われます」
「そうか」
枢機卿は驚きも見せない。
「壊れそうかね」
「現時点では」
大司教は少しだけ考えて答えた。
「いえ」
「ですが、今後の刺激には注意が必要です」
「なるほど」
枢機卿は指先で机を軽く叩いた。
「では、管理を一段階強めなさい」
「接触者の制限を再確認」
「動線の見直し」
「識別手順の追加」
「原稿の管理も厳格に」
「はい」
大司教は即答する。
「それと」
枢機卿が続けた。
「巫女には、必要以上に考えさせないことだ」
「考える余地は迷いを生む」
「迷いは表情に出る」
「表情は信仰を揺るがす」
「承知しております」
大司教は深く頷く。
「感情の揺らぎは極力排除します」
「排除、か」
枢機卿は小さく笑った。
「君は本当に実務家なのだよ」
「私は運用を担っておりますので」
「結構なことだ」
枢機卿は椅子から立ち上がった。
背後の窓から、整いきった夜景が見える。
「正しさとはね」
静かな声で言う。
「自然に広がるものではないのだよ」
「与えられるものなのだよ」
「設計され、支えられ、維持されるものなのだよ」
振り返る。
その目には、信仰者の熱も、狂人の光もなかった。
ただ、確信だけがあった。
「正しさは、我々が決めればよいのだよ」
大司教は黙って頭を下げた。
反論はない。
疑問もない。
ただ、実行だけがある。
「侵入者の件は引き続き調べます」
「だが、騒ぎ立てる必要はないのだよ」
枢機卿は言った。
「静かに締めればいい」
「混乱は不要だ」
「この国は常に、正しく見えていなければならないのだから」
「は」
短い返答。
大司教は一礼し、部屋を後にした。
扉が閉まる。
枢機卿は再び窓の外を見た。
正しい光。
正しい秩序。
正しい夜。
そのどこにも、迷いはない。
「……だが」
誰に聞かせるでもなく、呟く。
「異物が入り込んだ、か」
興味深い。
そう言いたげな笑みが、ほんのわずかに浮かんだ。
それは怒りではなかった。
新しい盤面を前にした、観察者の顔だった。




