第79話 侵入者
「……お姉ちゃん」
その言葉がこぼれたあと。
しばらく、誰も話さなかった。
整いすぎた部屋の中に、
ほんのわずかだけ、人間らしい空気が入り込んでいた。
少女は、自分の口から出た言葉に気付いたのだろう。
小さく息を呑み、
視線を落とした。
「……失礼しました」
ゆっくりと姿勢を正す。
「取り乱しました」
巫女としての言葉。
だが。
もう完全には戻りきっていなかった。
リコは、何も言わなかった。
ただ、静かに微笑んだ。
「いいのよ」
それだけだった。
問い詰めない。
責めない。
ただ、そこにいる。
少女は、ほんのわずかに表情を緩めた。
だが、すぐに視線を引き締める。
役割へ戻ろうとする。
「……長くお引き止めするわけにはいきません」
言葉を選ぶように言った。
「間もなく、大司教様がいらっしゃる時間です」
ナーチャンがわずかに視線を動かす。
ハミータも、無言で状況を理解した。
想定より、少し長居している。
ここで見つかれば、
状況は一気に厄介になる。
少女は続けた。
「ここにいらっしゃるところを見られると」
そこで言葉を止める。
はっきりとは言わない。
だが、意味は十分伝わる。
リコが小さく頷いた。
「……そうね」
名残を惜しむように、
ほんの一瞬だけ視線を向ける。
「体、気をつけるのよ」
それだけ言った。
少女の指先が、ほんのわずかに動く。
何かを言いかけて。
やめた。
「……ありがとうございます」
巫女としての言葉。
だが、声は少しだけ柔らかかった。
ユージが軽く肩をすくめる。
「じゃあ、またそのうちな」
気軽な言い方だった。
まるで近所に立ち寄った帰りのような調子。
少女の視線が、わずかに揺れた。
その言葉が、想定の外だったのかもしれない。
ハミータが静かに合図を送る。
時間だ。
一行は、来た時と同じように、
自然な動作で部屋を後にした。
扉が閉まる。
足音が遠ざかる。
静寂が戻る。
部屋の中には、
整えられた空気だけが残った。
ユージたち一行が部屋を後にした、直後だった。
巫女の居室の前に、一人の男が姿を現した。
白い法衣。
年配の顔立ち。
迷いのない足取り。
本物の大司教だった。
護衛の一人が、わずかに首をかしげる。
「……大司教様?」
「どうした」
「いえ……先ほど入室されたはずでは」
一瞬だけ、沈黙が落ちた。
大司教の足が止まる。
「何を言っておる」
穏やかな声だった。
「いつもの時間だろうが」
護衛が戸惑う。
「ですが……先ほど、大司教様が司教を三名お連れになって」
「巫女様のもとへ」
その瞬間。
大司教の視線が鋭く細められた。
次の瞬間には、声の調子が一変する。
「ばかもの」
低く、鋭い声だった。
「それは私に変装した侵入者だろう」
護衛の顔色が変わる。
「でかい図体をして、変装も見破れんのか」
「この間抜けめ」
普段の穏やかな口調からは想像もつかない叱責だった。
「巫女に何かあったらどうするつもりだ」
護衛が深く頭を下げる。
「も、申し訳ございません!」
大司教はすでに扉へ向かっていた。
「確認する」
短く言い放つ。
「お前はここで警戒していろ」
扉が開く。
部屋の中は、いつもと変わらない。
整えられた空間。
整えられた家具。
整えられた空気。
巫女は机の前に座っていた。
いつもの姿勢。
いつもの表情。
いつものように紙へ視線を落としている。
「……何かあったか」
先ほどまでの怒気を抑え、
普段通りの声音に戻して尋ねる。
巫女は、ゆっくりと顔を上げた。
「いいえ」
静かな声。
「特に問題はございません」
完璧な答えだった。
大司教は部屋を見渡す。
違和感はない。
だが。
空気がわずかに乱れている。
人が複数いた時の、
微かな気配の残滓。
「……訪問者があったか」
問いというより確認だった。
巫女は一瞬だけ視線を伏せた。
「……大司教様が」
そこで言葉を止める。
それ以上は言わない。
それだけで十分だった。
大司教は机の上の紙へ視線を落とす。
並び順。
角度。
重なり方。
ほんのわずかな差。
普通なら気づかない程度。
だが。
彼は気づいた。
「……警備体制を見直そう」
感情を抑えた声だった。
「以後、大司教本人であっても識別手順を追加する」
「はっ」
護衛の返事が、緊張を帯びる。
騒ぎにはならない。
声も荒げない。
混乱もない。
すべては、
手順の修正として処理される。
それが、この国のやり方だった。
扉の向こう。
巫女は一人、椅子に座っていた。
机の上の紙を見つめる。
指先が、わずかに震えている。
やがて。
ゆっくりと紙を手に取った。
書かれている言葉を、
一行ずつ目で追っていく。
明日の神託。
用意された言葉。
覚えるべき文章。
だが。
その視線は、
文字の上を滑っているだけだった。
心は、
別の場所にあった。




