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【新装版】枯れたおっさん、何もしないで異世界を救う  作者: アズマユージ
第二部 聖王国編

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第76話 間違えてはいけない言葉

 部屋の中は、驚くほど整っていた。


 広さは十分にある。


 天井も高く、窓も大きい。


 差し込む月明かりが、白い床に静かに広がっている。


 家具はどれも上質だ。


 机も椅子も、本棚も、すべてが丁寧に作られている。


 だが――


 生活の匂いがまったくしない。


 ベッドは皺一つなく整えられ、


 机の上には余計な物が何もない。


 本棚に並ぶのも、祈りと教義に関する書物ばかり。


 装飾品はある。


 だがそれらは、誰かの趣味ではなく、


 役割を示すための記号のように並んでいた。


 誰かが暮らしている部屋ではない。


 誰かを“置いておく”ための部屋。


 そんな印象だった。


 机に向かい、一人の少女が座っている。


 白い衣装。


 長い髪。


 姿勢はまっすぐ。


 背筋はぴんと伸びている。


 まるで一枚の絵のように整った姿だった。


 だが。


 机の上に置かれた紙を見つめる目だけが、


 必死だった。


「……人は、迷いの中にあるとき、

 正しき導きを求めます」


 少女は小さく声に出した。


 ゆっくりと。


 区切りを意識しながら。


 一語一語を確かめるように。


 途中で止まる。


 紙に目を落とす。


 もう一度。


「人は、迷いの中にあるとき、

 正しき導きを求めます」


 今度は少し滑らかだった。


「迷いは不安を生み、

 不安は争いを生みます」


 声は落ち着いている。


 抑揚も指示通りだ。


 だが、指先だけがわずかに震えている。


「争いを避けるためには、

 正しい道を知ることが必要です」


 小さく息を吐く。


 視線を紙に落とす。


 紙の端には、細かい印がつけられていた。


 区切りの位置。


 間の長さ。


 視線を上げる場所。


 声の強弱。


 すべてが細かく指示されている。


 まるで楽譜だった。


 少女はその印を一つずつ確認しながら、


 言葉をなぞる。


 何度も。


 何度も。


 間違えないように。


 詰まらないように。


 感情が入りすぎないように。


 完璧に再現できるように。


 紙の余白には、小さな書き込みもあった。


 自分の字だ。


 読みやすいように書き直した言葉。


 覚えやすいように区切った印。


 努力の跡だけが、そこにあった。


 机の隅に、小さな花が飾られている。


 飾りというより、


 置く場所がそこしかなかったかのように。


 花の種類は控えめなものだった。


 華やかではない。


 だが、どこか柔らかい色をしている。


 少女が選んだのか、


 それとも用意されたものなのか、


 分からなかった。


 その時。


 廊下の足音が止まった。


 規則的な歩幅。


 迷いのない速度。


 毎日同じ時間に聞こえる音。


 少女の背筋が、わずかに伸びる。


 紙を整える。


 位置を揃える。


 呼吸を整える。


 目を閉じる。


 ゆっくりと息を吐く。


 表情を整える。


 もう鏡を見る必要はない。


 どう見えるべきかは、


 すでに体が覚えている。


 扉がノックされる。


 三回。


 一定のリズム。


「どうぞ」


 声は静かだった。


 扉が開く。


 入ってきたのは、大司教だった。


 白い衣装。


 穏やかな表情。


 ゆっくりと部屋を見渡す。


「進み具合はいかがですかな」


 柔らかい声。


 だが確認の響きが強い。


「問題ありません」


 少女は答えた。


「明日の神託も、

 滞りなくお伝えできます」


「結構」


 大司教は満足そうに頷いた。


 机の上の紙を見る。


「重要な部分です」


「言い回しは変えないように」


「はい」


 少女は頷く。


「繰り返し確認しております」


「よろしい」


 大司教は静かに言った。


「あなたの言葉は、

 多くの者を導きます」


「迷いを断ち、

 正しい道を示すのです」


 少女は小さく頷いた。


「光栄です」


 そう答えながら、


 ほんの一瞬だけ、


 視線が揺れた。


 だが大司教は気づかない。


 気づく必要がない。


 彼にとって重要なのは、


 正しく語られること。


 それだけだった。


「本日は以上です」


 大司教は踵を返す。


「十分に休みなさい」


「明日は多くの者が、

 あなたの言葉を待っています」


「はい」


 扉が閉まる。


 足音が遠ざかる。


 静寂が戻る。


 少女はしばらく動かなかった。


 机の上の紙を見つめたまま、


 何も言わない。


 やがて、


 小さく息を吐く。


 ほんの少しだけ、


 肩の力が抜けた。


 だが、


 すぐに姿勢を正す。


 紙を手に取る。


「……人は、迷いの中にあるとき」


 同じ言葉。


 同じ順序。


 同じ調子。


 間違えないように。


 迷わないように。


 正しくあるために。


 その言葉を、


 自分の言葉のように言えるまで。


 何度も繰り返す。


 ただ。


 その意味だけが、


 少女の中に落ちてこなかった。


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