第73話 あの子の面影
大聖堂の裏手を離れ、俺たちは人通りの少ない裏路地へと入り込んだ。
聖王国の首都は、どこまで歩いても「整いすぎて」いる。
路地裏の溝にすらゴミ一つ落ちていない光景は、産廃屋として現場の泥にまみれてきた俺からすれば、もはやホラーに近い。
「……なぁ、ナーチャン。ここ、不気味なくらい綺麗だな」
俺は、安全靴…のような革靴の底に伝わる石畳の感触を確かめながら呟いた。
「肯定します。この清潔感は、清掃という『日常の家事』のレベルを超えています。
都市全体が、常に一定の規律によって管理・統制されている証拠です。
情報のノイズを排除した、巨大なクリーンルームのような状態です」
ナーチャンは周囲を警戒しながらも、いつもの事務的なトーンで分析を加える。
「クリーンルームか……。確かに。
元の世界でも、精密機器の工場なんかはこんな感じだったよ。
でもさ、あそこは『モノ』を作るところだろ?
人間が普通に暮らす街がこれじゃ、息が詰まるよな」
俺たちは、広場の一角にある小さな噴水のそばに辿り着いた。
そこには数人の市民が座っていたが、彼らもまた静かに水を眺めているだけだった。
大きな声で笑う者も、立ち話に花を咲かせる主婦もいない。
ただ、そこにある「静謐」という空気に従っているかのように。
俺はベンチに腰を下ろし、横で俯いているリコに視線を向けた。
変装の術で顔立ちは変えてあるが、彼女の背中からは隠しきれない困惑と寂しさが滲み出ている。
「……リコ、大丈夫か?」
リコは噴水の水面に映る自分をじっと見つめていたが、俺の声に小さく肩を揺らした。
「……なに?」
「さっきの巫女さん……ヨーコさんのことだけどさ。
やっぱり、ただの知り合いってわけじゃなさそうだな」
リコはすぐには答えなかった。
ナーチャンがさりげなく周囲を観察し、聞き耳を立てる者がいないかを確認する。
安全を確信したナーチャンが、静かに言葉を添えた。
「リコさん。あなたがこの国に対して抱いている違和感、そして『巫女』という存在に対する感情。
それを共有していただくことは、我々の今後の行動方針を決定する上で重要な情報となります」
リコは、深く、重い溜息をついた。
長年胸の奥に溜め込んできたものを、少しだけ外へ出すような吐息だった。
「……知り合い、なんて。今のあの子を見たら、そんな風に呼ぶのも躊躇われるわ。
でも……ええ。私たちは一緒に育ったの。
まだ、彼女が『神託の巫女』なんていう重たい名前で呼ばれる前の話よ」
「……普通の子だったのか?」
「そうよ。よく笑って、たまにワガママを言って私を困らせて……。
転んで膝を擦りむけば泣くし、美味しいお菓子があれば、私の分までこっそり食べちゃうような、どこにでもいる普通の女の子。
それが、聖王国の教義において『資質がある』と判断された瞬間、あの子は連れて行かれたの」
リコの視線が、遠くの景色を追うように揺れた。
「次に会った時には、あの子の周りには常に白い服を着た大人たちがいて、
あの子自身の言葉じゃなく、『神託』という完成された原稿だけを喋るようになっていた。
さっき大聖堂で見たあの子は……まるで、精巧に作られた人形でしかなかったわ」
「人形、ねえ……」
俺は顎をさすり、昔の記憶を引っ張り出す。
「確かに、一分の隙もなかったな。
立ち振る舞いから言葉遣いまで、全部きっちり揃ってた。
分厚いマニュアルを丸暗記させられた、新人研修初日みたいだったぞ。
個性を消して、組織の『顔』になるための訓練ってやつだ」
「新人研修、ですか?」
ナーチャンが小さく首をかしげる。
「ああ。ブランドイメージを維持するために、属人的な要素……つまり『人間味』を排除する手法だ。
でも、あそこまで行くと、もはやブランディングの成功じゃなくて、人格の抹殺に近い。
あの巫女さん……ヨーコちゃんだったか。
彼女、本当に笑ったことがあるのか疑いたくなるレベルだ」
リコの手が、膝の上でぎゅっと握りしめられる。
「あんなの、あの子じゃない……。
あの子はもっと、感情豊かな子だったのに。
迷わないことが正しいなんて、そんなの……」
言葉の続きを、リコは飲み込んだ。
かつて二人で笑い合っていた時間が、記憶の中に浮かんでいるのだろう。
だが今、その少女は聖王国という巨大なシステムの「部品」として、壇上で正しさを演じさせられている。
「……味気ない、ってのはそういうことか」
俺は噴水の水音に紛れるように呟いた。
「誰も迷わないってことは、誰かが答えを決めてるってことだ。
判断のコストを国が肩代わりしてくれるなら、民衆にとっては楽だろうけどさ」
水面に揺れる光を見ながら続ける。
「それじゃあ、自分の人生を生きてるって感じがしなくないか?
決められたレールの上を走る、自動運転の電車みたいなもんだろ」
リコが顔を上げた。
少し驚いたような目でこちらを見る。
ナーチャンも手帳を閉じ、静かに言った。
「ユージさま。時折、本質に触れる発言をなさいますね」
「時折ってなんだよ」
俺は肩をすくめる。
「まあ、産廃現場でな。
『これ本当に分別して意味あるのか?』って、毎日迷いながらゴミ仕分けしてきたおっさんの独り言だよ。
でもさ、迷うからこそ、自分なりに納得できる答えを探そうとするんだろ?」
俺は立ち上がり、軽く肩を回した。
身体が少し強張っているのは、この街の空気のせいかもしれない。
「とりあえず、ここから先はマニュアル外の対応が必要になりそうだな」
尖塔の先を見上げながら続ける。
「俺たちの仕事って、元々は環境改善だろ?
一人の少女の心がシステムの犠牲になって汚染されてるなら、それも立派な『環境問題』だ」
リコの違和感は、確信へと変わりつつある。
ハミータが潜入しているはずの、その聖域の奥深く。
そこには、神の声ではなく、もっと人間臭い「管理」の意思が潜んでいる気がした。
「……行きましょう」
ナーチャンが静かに言う。
「この街の『正しさ』の正体を、確かめに」
俺たちは再び歩き出した。
整いすぎた街並みに、夜という名の「不確かな影」が、静かに忍び寄っていた。




