第65話 神の言葉
昼下がりの市場は、いつも通りの賑わいだった。
焼きたてのパンの匂い。
香草の束を抱えた獣人の少女。
値段交渉で声を張り上げる商人。
どこにでもある、平和な光景。
戦争が終わってから、この時間帯の人通りはむしろ増えた。
行き交う人々の表情も明るい。
少なくとも、表面上は。
「例の件ですが」
隣を歩きながら、ナーチャンが小声で言った。
「増えています」
「そうか」
ユージは軽く頷く。
ここ数日で、祈る人を見かける回数が明らかに増えていた。
目立つほどではない。
だが、確実に増えている。
「今日は現場の空気を確認したいと思いまして」
「視察か」
「そのようなものです」
ナーチャンは周囲をさりげなく観察している。
表情に変化はない。
だが、視線の動きが早い。
完全に仕事モードだった。
少し歩いたところで、小さな人だかりが見えた。
騒ぎではない。
むしろ静かだ。
人々が、輪になるように立っている。
「またか」
「ええ」
中央にいるのは、例の白装束の男だった。
声は大きくない。
だが、周囲の人々は足を止めて耳を傾けている。
何を話しているのかは、ここからでははっきり聞こえない。
それでも、
言葉の調子だけで、雰囲気は分かった。
穏やかで、
優しげで、
どこか安心させる響き。
しばらくすると、男がゆっくりと手を組んだ。
周囲の数人が、同じ動きをする。
昨日見た光景と同じだった。
「……増えてるな」
「はい」
ナーチャンが小さく答える。
その時だった。
「あなたも、祈りませんか?」
白装束の男が、近くにいたパン屋の主人に声をかけた。
年配の男だった。
小麦粉のついた手を軽く振る。
「いや、うちはいいよ。忙しいからな」
軽く笑って断る。
それで終わるはずだった。
だが、
男は穏やかな笑みを崩さなかった。
「正しいことは、忙しくても行う価値があります」
声は柔らかい。
だが、言葉には妙な重さがあった。
「祈りは、皆の未来を良くします」
「いや、まあ……」
パン屋の主人は少し困ったように頭をかく。
周囲の数人が、すでに手を組んでいる。
静かな視線が集まる。
責めているわけではない。
だが、
断りにくい空気が生まれていた。
「正しいことなのです」
白装束の男は、ゆっくりと言った。
「神は、人が正しくあろうとすることを望んでいます」
パン屋の主人は、しばらく黙っていたが、
やがて小さく息をついた。
「……分かったよ」
ぎこちなく手を組む。
周囲の空気が、わずかに緩んだ。
「……」
ユージは眉をひそめた。
「嫌な感じだな」
「ええ」
ナーチャンも同意する。
「強制ではありません」
「でも断りにくい」
「はい」
少し離れた場所に移動する。
「今のが?」
「典型例です」
ナーチャンは淡々と言った。
「報告にあったものと同じです」
「“正しいこと”ってやつか」
「はい」
ナーチャンは一枚の紙を取り出した。
最近集まった発言が書き写されている。
『正しい道を選びましょう』
『迷いは、誤りの始まりです』
『導きに従うことで、人は救われます』
「似た表現が繰り返し使われています」
「マニュアルだな」
「その可能性は高いです」
さらに別の紙を取り出す。
「こちらも確認されています」
そこには、短い文章が書かれていた。
『人の未来を、心なきものに委ねてはなりません』
ユージは一瞬だけ目を止めた。
「心なきもの?」
「はい」
ナーチャンは頷く。
「文脈から判断すると、魔導演算機を指している可能性があります」
「AIか」
「はい」
短い沈黙。
「……なるほど」
ユージは軽く息を吐いた。
「分かりやすいな」
「はい」
「つまり」
腕を組む。
「AIに決めさせるなってことか」
「そのように受け取れます」
「まあ」
ユージは肩をすくめた。
「AIが決めてるわけじゃないんだけどな」
「はい」
ナーチャンは即答した。
「魔導演算機は選択肢を提示しているだけです」
「最終判断は人だろ」
「はい」
「そこ勘違いしてるやつ、結構いるよな」
「分かりにくい部分ではあります」
ナーチャンは少し考えてから続けた。
「ですが、意図的に誤解を誘導している可能性もあります」
「だろうな」
ユージは人だかりの方をちらりと見た。
白装束の男は、まだ穏やかに話を続けている。
声を荒げることはない。
誰かを否定することもない。
ただ、
“正しいこと”を勧めているだけだ。
「正しいって言われると、反対しにくいんだよな」
「はい」
「しかも、良いことっぽいし」
「はい」
ナーチャンは小さく頷いた。
「だからこそ広まりやすい」
「厄介だな」
ユージは軽く頭をかいた。
「宗教ってさ」
「はい」
「答えをくれるんだよな」
「そうですね」
「でも」
少し考える。
「答えって、自分で決めるしかないだろ」
「……」
ナーチャンは黙って聞いている。
「AIも同じだよ」
ユージは続けた。
「別に決めてくれるわけじゃない」
「材料出してくれるだけだ」
「最後に選ぶのは人だろ」
「はい」
「間違えることもあるけどさ」
肩をすくめる。
「それも含めて、自分で選ばないと意味ない気がするんだよな」
しばらく沈黙が続いた。
「……」
ナーチャンはゆっくり頷いた。
「重要な点だと思います」
「だろ?」
「はい」
再び人だかりの方を見る。
祈りを終えた人々が、ゆっくりと散っていく。
表情は穏やかだ。
不安はなさそうに見える。
それが、逆に気になった。
「安心できる言葉って強いんだよな」
「はい」
「でも」
ユージは小さく息を吐いた。
「安心しすぎるのも、ちょっと怖い」
風が吹いた。
市場の布が揺れる。
いつもと同じ景色。
だが、
ほんの少しだけ。
空気が変わり始めている気がした。
「引き続き調査を進めます」
「頼む」
まだ、小さな違和感だ。
まだ、問題と呼ぶほどではない。
だが、
それは確実に、
人の判断に影響を与え始めていた。




