第175話 その日、歴史が動いた
「出るぞ!」
親方の声が製鉄所に響いた。
炉の周囲に集まっていた職人たちが、一斉に息を呑む。
誰も動かない。
いや、動けなかった。
目の前で起ころうとしていることを、ただ見守るしかなかった。
親方が大きく頷く。
「開けろ!」
「おう!」
職人たちが掛け声を合わせ、炉の下部に設けられた口を開いた。
一瞬の静寂。
次の瞬間、眩い光が溢れ出した。
「おおっ!」
真っ赤に焼けた鉄が、火花を散らしながら流れ出す。
細い筋だった流れは、すぐに勢いを増した。
橙色の光が薄暗い建物の中を照らし、職人たちの顔を赤く染める。
誰もが目を見開いていた。
失敗ではない。
途中で固まることもなく、炉が崩れることもない。
熱せられた鉄は、用意されていた溝を通り、次々と鋳型へ流れ込んでいく。
「出た……」
誰かが呟いた。
「鉄が出たぞ!」
その声をきっかけに、製鉄所の中で大歓声が上がった。
「やった!」
「成功だ!」
「俺たちが鉄を作ったぞ!」
職人たちは肩を抱き合い、互いの背中を叩いた。
煤だらけの顔で笑う者。
両手を突き上げる者。
その場に座り込み、声を上げて泣く者までいた。
長い道のりだった。
神楽耶の父が残した記録は、決して完全なものではなかった。
書かれていた通りに炉を作っても、最初はまともに火が回らなかった。
風を送り込めば炉が壊れ、火力を抑えれば鉄が溶けない。
石炭の量。
鉱石を入れる順番。
炉の形。
空気を送り込む強さ。
試しては失敗し、作っては壊した。
それを何度も繰り返した。
そして今日。
失われていた技術が、ついに蘇った。
「親父殿……」
神楽耶が小さく呟いた。
その目には、光るものが浮かんでいる。
隣に立っていたハミータが、そっと神楽耶の背中に手を添えた。
神楽耶は目元を拭うと、泣きながら笑った。
「やったのう」
その様子を少し離れた場所から見ていたユージも、静かに息を吐いた。
「よかったな」
「ああ」
隣に立つリシュンが答える。
いつもと変わらない落ち着いた声だった。
だが、口元にははっきりと笑みが浮かんでいた。
「やっと完成した」
「長かったな」
「長すぎだ。何回炉を作り直したと思ってる」
「俺に聞かれても分からないぞ」
「数えてないから、俺にも分からない」
「分からないのかよ」
リシュンは肩をすくめた。
その二人のもとへ、親方が大股で歩いてきた。
顔も服も煤だらけだ。
太い腕には、いくつもの火傷の痕が残っている。
「ユージさん!」
「おう、親方。やったな」
「ああ!」
親方はユージの両肩を掴んだ。
「お前さんのおかげだ!」
「いや、俺は何もしてないぞ」
「またそれか!」
親方が大声で笑った。
「お前さんがいなけりゃ、俺たちはこんなもんを作ろうとすら思わなかった!」
「でも、作ったのは親方たちだろ」
「最初に火をつけたのはお前さんだ!」
「炉に火をつけたのは親方だぞ」
「そういう話じゃねえ!」
周囲の職人たちがどっと笑った。
親方は呆れたように首を振る。
「まったく、どこまで行っても変わらねえな」
「何がだ?」
「自分が何をしたか、ちっとも分かっちゃいねえ」
「だから、俺は何もしてないって」
ユージがそう答えると、リシュンが横から口を挟んだ。
「諦めろ、親方」
「リーダーに何を言っても無駄だ」
「おい、リシュン」
「事実だろ」
「俺を馬鹿みたいに言うなよ」
「馬鹿とは言ってない」
「顔が言ってるぞ」
「気のせいだ」
リシュンは涼しい顔で答えた。
そこへ神楽耶がやってくる。
目はまだ少し赤かったが、表情は晴れやかだった。
「ユージ殿」
「ん?」
「ありがとう」
ユージは困ったように頭を掻いた。
「だから、俺は何もしてないぞ」
「ああ。知っておる」
「知ってるのかよ」
「おぬしならそう言うであろうことをな」
「じゃが、心より礼を言うぞ」
「親父殿もきっと喜んでおるじゃろう」
神楽耶はそう言って笑った。
その目には、光るものが浮かんでいた。
ユージもそれ以上は何も言わず、笑い返した。
その日の夜。
製鉄所の前に設けられた広場では、盛大な祝宴が開かれた。
長い机が何列も並べられ、その上には山のような料理が置かれている。
丸焼きにされた肉。
大鍋で煮込まれた野菜。
香ばしく焼かれた魚。
積み上げられたパン。
酒樽も次々と運び込まれた。
職人だけではない。
資材を運んだ者。
鉱石を掘った者。
食事を作った者。
警備を担当した兵士。
この事業に関わった多くの人々が集まっていた。
親方が酒の入った杯を掲げる。
「今日!」
ざわめきが収まり、全員が親方を見る。
「俺たちは、鉄を作った!」
大きな歓声が上がった。
「神楽耶様のお父上が残した技術を、俺たちはもう一度、この世に取り戻した!」
親方は周囲を見渡した。
「ここにいる全員の力だ!」
「誰一人欠けても、今日という日は迎えられなかった!」
職人たちが誇らしげに胸を張る。
親方は最後にユージを見た。
「そして、俺たちに夢を見せてくれた男に!」
「いや、だから俺は――」
「乾杯!」
「乾杯!」
ユージの言葉は、凄まじい歓声にかき消された。
皆が杯を打ち鳴らし、一斉に酒を飲む。
「聞けよ!」
「諦めろ、リーダー」
隣にいたリシュンが淡々と言った。
「今日は何を言っても無駄だ」
「今日だけじゃない気がするけどな」
「よく分かってるじゃないか」
「お前、少し楽しんでないか?」
「少しだけな」
宴はすぐに盛り上がった。
歌が始まり、踊りが始まる。
大声でこれまでの苦労を語る者もいれば、失敗談を肴に笑い合う者もいる。
ナーチャンは料理を抱えて走り回り、タケシトは職人たちに捕まって酒を勧められていた。
「タケシト! もっと飲め!」
「もう十分飲んだよ!」
「若いもんが何言ってやがる!」
「僕は若くねえ!」
「俺たちより若けりゃ若者だ!」
「基準が雑だな!」
少し離れた場所では、シュタインが酒樽を抱えていた。
「うまい!」
「おっさん、それ何杯目だ?」
リシュンが呆れたように尋ねる。
「覚えておらん!」
「覚えてない時点で飲みすぎだ」
「祝いの日に酒の量を数える奴があるか!」
「ここにいる」
「お前は昔から細かい!」
「おっさんが適当すぎるんだ」
「細かい男は女にモテんぞ!」
「余計なお世話だ」
シュタインは豪快に笑うと、抱えていた杯を一気に飲み干した。
そして空になった杯をリシュンの前に突き出す。
「もう一杯!」
「自分で入れろ」
「酒がない!」
「後ろに樽があるだろ」
シュタインが振り返る。
そこには空になった酒樽が転がっていた。
「ないぞ!」
「あったんだ。おっさんが全部飲んだ」
「なんと!」
「驚くな」
シュタインは腕を組み、深刻そうな顔で空の樽を見つめた。
「これは由々しき事態じゃ」
「何がだ」
「祝いの席から酒がなくなった」
「他の机にまだある」
「本当か!」
シュタインは目を輝かせた。
だが、近くの机に置かれていた酒瓶も、すでにほとんど空になっている。
「ないではないか!」
「さっきまではあった」
「誰じゃ! わしの酒を飲んだ奴は!」
「全員だよ」
「許せん!」
「自分が一番飲んでただろ」
リシュンの言葉を無視し、シュタインはふらふらと歩き始めた。
「どこへ行くんだ?」
「酒を探す!」
「もうやめとけ」
「まだあるはずじゃ!」
「どこに」
「倉庫!」
「何で倉庫に酒があるんだ」
「祝いの日じゃぞ。隠してあるに決まっておる!」
「誰が隠すんだよ」
「親方じゃ!」
「親方はそんなことしない」
しかし、シュタインは聞いていなかった。
大きな体を左右に揺らしながら、広場の端にある建物へ向かっていく。
途中で資材につまずき、前のめりになった。
「おっと!」
両手を振り回し、どうにか踏みとどまる。
「危ないな」
ユージがその様子を見て苦笑した。
「大丈夫か、シュタイン」
「大丈夫じゃ!」
シュタインは胸を張った。
「わしは酔っておらん!」
「酔ってる奴は、だいたいそう言うんだよ」
「リーダーの言う通りだ」
「お前らは心配性じゃのう!」
そう言い残し、シュタインは近くの倉庫の扉に手を掛けた。
「ここじゃ!」
「そこには酒なんてないぞ」
リシュンが声を掛ける。
「開けてみなければ分からん!」
シュタインが扉を開く。
重い扉が、軋んだ音を立てながらゆっくりと動いた。
倉庫の中は薄暗かった。
月明かりが扉から差し込み、床に細長い光を落としている。
壁際には木材や工具が並び、使われていない資材が積まれていた。
「暗いのう」
シュタインは壁に手を付きながら、奥へ進んでいく。
「酒はどこじゃ?」
もちろん、返事はない。
いくつかの箱を覗き込み、樽の蓋を叩く。
どれも酒ではなかった。
「おかしい」
何がおかしいのかは分からない。
それでもシュタインは諦めず、さらに奥へ進んだ。
そして、倉庫の最奥で足を止めた。
そこには、大きな布を被せられた何かがあった。
高さはシュタインの背丈を遥かに超えている。
横幅も広く、人が数人並んでもまだ余るほどだった。
布の下から、金属製の脚のようなものが覗いている。
「何じゃ、これは?」
シュタインが首を傾げた。
もちろん酒樽ではない。
だが、酒よりも面白そうなものを見つけてしまった。
シュタインは布の端を掴む。
「ちょっと見るだけじゃ」
勢いよく腕を振り上げた。
大きな布が宙を舞い、床へ落ちる。
その下から現れたのは、見たこともない巨大な装置だった。
複雑に組み合わされた金属の柱。
幾重にも巻かれた導線。
各所には大きな魔石が埋め込まれている。
中央には、人が立てるほどの円形の台座。
その周囲には、細かな文字と紋様が刻まれていた。
シュタインは大きく目を見開く。
「なんじゃこりゃ!」
その声が倉庫の外まで響いた。
宴会場にいた者たちが、一斉に顔を上げる。
「今の声、シュタインか?」
ユージが倉庫の方を見る。
その隣で、リシュンの表情が変わった。
「まさか……」
「どうした?」
リシュンは答えず、勢いよく立ち上がった。
「おっさん!」
その声に、周囲の者たちが驚いて振り返る。
普段のリシュンからは考えられないほどの大声だった。
リシュンは倉庫へ向かって駆け出す。
「おい、リシュン!」
ユージも後を追う。
ナーチャンとタケシト、神楽耶たちも続いた。
倉庫の中では、シュタインが装置を見上げていた。
「これはどういう仕組みじゃ?」
埋め込まれた魔石に顔を近づける。
「見たことのない回路じゃのう」
装置の側面には、小さな操作盤があった。
シュタインの目が輝く。
「ほう……」
その指が、操作盤へ伸びる。
倉庫の入口へ飛び込んだリシュンが、それを見た。
顔から血の気が引く。
「こら、おっさん!」
シュタインが振り返る。
「何じゃ?」
「そいつはダメだ!」
シュタインの指先が、操作盤に近づいていく。
「触るな!」




