第170話 耳をすませば
実習が始まってからというもの、セシルには一つだけ変わった習慣があった。
仕事が終わると、誰よりも遅くまで工場に残る。
試運転中の機械を、一台ずつ見て歩くのだ。
「セシル!」
ガイルが手を振る。
「飯行こうぜ!」
「ごめんなさい。」
「もう少し見て回りたいので。」
「またかよ。」
「機械が逃げるわけじゃないぞ。」
職人たちも笑う。
「何やってんだ、あいつ。」
「毎日毎日、仕事が終わってから機械見物か。」
「本当に好きなんだな。」
セシルは照れくさそうに笑うだけだった。
巨大な混錬機。
粉砕機。
圧延機。
送風機。
一台ずつ立ち止まり、耳を澄ませる。
ゴォォォ……
シュウゥ……
ガラガラ……
規則正しい回転音。
油の匂い。
機械から伝わる微かな振動。
それらを確かめるように、ゆっくりと歩いていく。
そして数日後。
夕暮れの工場で、セシルは混錬機の前で足を止めた。
目を閉じる。
もう一度耳を澄ませる。
――間違いない。
セシルは駆け出した。
「親方!」
「混錬機の音が変です!」
「はぁ?」
現場監督の親方は稼働中の混錬機へ耳を向けたあと、面倒そうに眉をひそめた。
「別に変な音なんかしてねぇぞ。」
「試運転中なんだ。」
「部品同士の当たりが出るまでは、多少音が変わることもある。」
「気にしすぎだ。」
「違います。」
「昨日までの音とは違います。」
「ほんの僅かですけど、回転するたびに引っ掛かるような音が混じっています。」
親方は、もう一度耳を澄ませた。
しかし、すぐに首を横に振る。
「俺には分からん。」
「それに、今こいつを止めて分解したら、今日の試運転は全部やり直しだ。」
「そんな暇はねぇよ。」
「でも、このまま動かす方が危険です。」
「大丈夫だ。」
「圧力も回転数も正常範囲に収まってる。」
「今日はもう仕事が終わったんだろ。」
「さっさと飯でも食ってこい。」
「嫌です。」
「ああ?」
セシルは混錬機を見つめたまま、一歩も引かなかった。
「異常がないと確認できるまで、ここを離れません。」
「お願いします。」
「一度だけ止めて、分解してください。」
「もし何もなければ……。」
セシルはぎゅっと拳を握り締める。
「今月のお給金はいりません!」
親方は目を剥いた。
「馬鹿野郎!」
「見習いの給料なんざ、たかが知れてる!」
「そんなもんで、この設備が直るなら安いもんだ!」
「そんなこと言う暇があったら、自分が正しいと思うことを最後まで言い切れ!」
「……はい!」
親方は乱暴に頭を掻いた。
「ったく!」
「そこまで言うなら見てやる!」
「おい!」
「混錬機を止めろ!」
「今から分解するぞ!」
整備班が集まり、慎重に混錬機を分解していく。
一枚ずつプロペラを取り外していた整備士が、不意に手を止めた。
「親方……。」
「これ。」
全員が息を呑む。
プロペラの根元に、髪の毛ほど細い一本の亀裂が走っていた。
「危ねぇ……。」
親方の顔色が変わる。
「これが割れて巻き込んだら、羽根が中で暴れ回る。」
「下手すりゃモーターまで焼き切れてたぞ。」
工場中が静まり返る。
親方はしばらく黙っていたが、やがてセシルの肩を力強く叩いた。
「今日から、お前の耳は信用する。」
「機械は嘘をつかねぇ。」
「だが、その声を聞ける職人はそう多くねぇ。」
「胸を張れ。」
「お前は今日、本物の職人への第一歩を踏み出した。」
セシルは目を潤ませながら、深く頭を下げた。
「ありがとうございます!」
その様子を少し離れた場所で、ユージとリシュンが静かに見守っていた。
ユージは嬉しそうに微笑む。
「あの子は、いい職人になるな。」
リシュンも穏やかに頷いた。
「ええ。」
「いい職人というのは、耳をすまして、機械の声を聞ける者のことです。」
ユージは満足そうに笑う。
「その通りだ。」
その日の帰り道。
試運転を再開した混錬機が、いつもの調子で回っている。
ゴォォォ……
規則正しい回転音が、夕暮れの工場に心地よく響く。
セシルは立ち止まり、そっと耳をすませた。
そして、ふわりと微笑む。
(うふふ。今日はご機嫌ですね!)
その足取りは、来た時よりも少しだけ誇らしげだった。




