第165話 市場経済 後編
『では、もう一つ、例を見てみましょう。』
今度は、大きな市場が映し出された。
倉庫には大量の小麦が積まれている。
その年、小麦の収穫量は十分だった。
誰もが食べられるだけの量がある。
それなのに。
市場では、小麦の価格が異常なほど高騰していた。
大勢の人々が空の籠を抱え、店の前へ並んでいる。
「なんでだ?」
「小麦は、こんなにあるじゃないか。」
『一人の商人が、各地の小麦を大量に買い占めました。』
『市場に出回る量を意図的に減らし、価格を吊り上げたのです。』
「そんなの、ずるいだろ!」
『その商人も、市場の仕組みを利用して利益を得ようとしただけです。』
『ですが、その結果。』
『全体では食料が足りているにもかかわらず、多くの人が小麦を買えなくなりました。』
子どもを抱いた母親が、店先で価格を聞き、俯いて立ち去っていく。
ジンは唇を噛んだ。
「物はあるのに……。」
「金がない人には、行き渡らない。」
『その通りです。』
『市場は、人々の欲求によって動きます。』
『その欲求があるからこそ、工夫が生まれ、社会は豊かになります。』
『しかし同じ欲求が、独占や買い占め、環境破壊を引き起こすこともあります。』
「じゃあ。」
「市場経済は、間違った仕組みなのか?」
『いいえ。』
愛ちゃんは、はっきりと首を横に振った。
『市場経済は、人々を豊かにするための、とても優れた仕組みです。』
『ですが、優れた道具であっても、使い方を誤れば人を傷つけます。』
『市場も同じです。』
『すべてを市場へ任せればよいわけではありません。』
「だったら、どうすればいいんだ?」
『そのために、政治があります。』
「政治……。」
『政治は、市場を支配するためにあるのではありません。』
『市場の自由と競争を守りながら。』
『独占や買い占めを防ぎ。』
『貧しい人々の生活を支え。』
『自然環境を守るための、必要最低限のルールを作る。』
『それが、政治の重要な役割です。』
ジンは考え込んだ。
「市場をなくすんじゃない。」
「市場がちゃんと働けるように、少しだけ調整するんだ。」
『その通りです。』
『ただし、一つの国だけで解決できない問題もあります。』
『空気も、水も、海も。』
『国境で区切ることはできません。』
『ある国が大量の煙を出せば、ほかの国にも影響が及びます。』
『ある国が大量の資源を独占すれば、世界中の価格が変わります。』
「だから、世界連合があるのか。」
『はい。』
『各国の利害を調整し。』
『世界全体の利益を考え。』
『市場経済へ必要最低限の修正を加える。』
『それが、世界連合に求められる役割の一つです。』
ジンは、ふと顔を上げた。
「そういえば。」
「ユージさまは、製鉄技術をほかの国へ教えてないんだよな?」
『はい。』
『ユージさまは、こうした問題を見越して、製鉄技術を秘匿することにされました。』
「市場を独占するためじゃなくて?」
『違います。』
『各国が自由に製鉄所を造れば、競争によって鉄の生産量は増えるでしょう。』
『各国も豊かになります。』
『ですが、世界全体では、資源の過剰な消費や環境破壊が起きる可能性があります。』
『そのため、ユージア国が製鉄技術を管理し。』
『人々の暮らしと自然環境の双方を守りながら、必要な量だけ鉄を生産することにしたのです。』
『そして、各国の首脳たちもその問題に気付きました。』
『だからこそ、ユージさまへ製鉄技術の管理を一任するという判断を下されたのです。』
ジンは目を見開いた。
「そうだったのか……。」
「ただ、秘密にしてたんじゃない。」
「国の利益だけじゃなくて。」
「世界中の人と、自然のことまで考えてたんだ。」
愛ちゃんは穏やかに微笑んだ。
『市場は、人々を豊かにするための道具です。』
『人々が、市場の奴隷になってはいけません。』
『技術も同じです。』
『人々を幸せにするために、正しく使われなければならないのです。』
ジンは、しばらく考え込んでいた。
やがて、感心したように息を吐く。
「ユージさまって……。」
「スゲー人なんだな。」
そして、少し気まずそうに頭を掻いた。
「俺さ。」
「仲間がすごいだけで。」
「あの人自身は、ただの冴えないおっさんかと思ってたよ。」
◇
「はっくしょん!」
ユージが盛大なくしゃみをした。
隣で図面を眺めていたリシュンが、顔を上げる。
「ん?」
「リーダー、風邪でも引いたか?」
「いや。」
「なんか突然、鼻がムズムズしただけだ。」
ユージは鼻を擦りながら、しばらく考える。
そして。
急に顔を緩ませた。
「もしかして。」
「リコちゃんが、俺のこと噂してるのかな。」
「でへへ。」
そう言って、だらしなく鼻の下を伸ばす。
その姿は。
どこからどう見ても、ただの冴えないおっさんだった。




