第164話 市場経済 中編
翌日。
ジンは自信満々の表情で、タブレットへ向かっていた。
「愛ちゃん先生!」
「昨日の話、分かったぜ!」
「市場経済って、すげぇ仕組みなんだな!」
「みんなが自由に物を売り買いすれば、足りないところへ自然に物が運ばれる。」
「値段も、需要と供給に合わせて勝手に調整される。」
「誰かが命令しなくても、みんなが自分の利益を求めて動くだけで、社会全体が豊かになっていくんだ!」
愛ちゃんは嬉しそうに微笑んだ。
『よく理解できていますね。』
「だろ?」
ジンは得意げに胸を張る。
「だったら、何でも市場に任せておけばいいんだ。」
「みんな自由に商売して、自由に競争する。」
「それが一番効率的だろ?」
『昨日のお話は、半分正解です。』
「半分?」
ジンの笑顔が固まった。
『市場経済は、とても優れた仕組みです。』
『ですが、万能ではありません。』
「万能じゃない?」
『はい。』
『続きを見てみましょう。』
タブレットの上に光が集まり、昨日と同じ二つの村が映し出された。
小麦が豊作だった村。
家畜がよく育った村。
二つの村の間では、今も盛んに交易が行われている。
小麦を積んだ荷馬車が走り。
肉や乳製品が反対の村へ運ばれる。
村人たちは以前よりも豊かな食事を楽しみ、立派な家に住むようになっていた。
「ほら!」
「やっぱり、うまくいってるじゃないか!」
『そうですね。』
『そして、二つの村の近くでは、鉄鉱石と石炭が発見されました。』
村外れの広大な土地に、巨大な建造物が姿を現す。
何本もの煙突。
真っ赤に燃える高炉。
複雑に張り巡らされた配管。
昼夜を問わず動き続ける巨大な製鉄所だった。
「おお……。」
ジンは思わず身を乗り出した。
製鉄所から、次々と鉄が生み出されていく。
丈夫な農具が作られ。
新しい橋が架けられ。
村と村を結ぶ鉄道が敷かれる。
蒸気機関車が大量の荷物と人を運び、遠く離れた町との交易も活発になった。
やがて、鉄を加工する工場が立ち並ぶ。
荷馬車に代わって自動車が道路を走り始めた。
大量の商品が、以前では考えられなかった速さで各地へ届けられていく。
小さな村は町になり。
町は、巨大な都市へと変貌していった。
「すげぇ……。」
ジンの目が輝く。
「鉄って、こんなに世界を変えちまうのか!」
『製鉄によって多くの産業が生まれました。』
『仕事も増えました。』
『物資を大量に、速く、安く運べるようになりました。』
『人々の暮らしは、急速に豊かになっていきます。』
「やっぱり、市場経済って最高じゃないか!」
『そう見えますね。』
愛ちゃんは否定しなかった。
しかし。
『では、もう少し先を見てみましょう。』
映像の中で、さらに多くの煙突が建ち始めた。
製鉄所の規模が拡大し。
工場が増え。
大量の人々が、仕事を求めて都市へ集まってくる。
「賑やかになったな!」
最初、ジンは楽しそうに眺めていた。
だが。
都市の中心部を離れるにつれ、景色が変わっていく。
住居の建設が、人口増加に追いついていなかった。
製鉄所の周囲には、廃材や粗末な板で作られた小屋が隙間なく並んでいる。
道は狭く。
排水設備もない。
汚れた水が路地を流れ、幼い子どもたちが裸足で歩いていた。
「これは……。」
『急激な人口増加によって生まれた、貧しい人々の居住地域です。』
「こんなに仕事が増えたのに?」
『仕事があることと、誰もが豊かになれることは、同じではありません。』
映像の中で、一部の商人や工場主は、大きな屋敷を建てていた。
高価な服を着て、豪華な食事を楽しんでいる。
その一方で。
低い賃金で長時間働きながら、粗末な小屋で暮らす人々がいた。
病気になっても、治療を受ける金がない。
働けなくなれば、家族全員が食べるものを失う。
夜の路地では、食料を盗む少年が捕まり。
酒に酔った男たちが争い。
警備兵が慌ただしく駆けつけていた。
「犯罪まで増えてる……。」
『市場経済では、競争が生まれます。』
『より良い物を作ろう。』
『より安く売ろう。』
『もっと便利な方法を考えよう。』
『競争は、人々の活動を活発にし、創意工夫が生まれる土台となります。』
『だからこそ、技術は進歩し、社会は豊かになっていくのです。』
ジンは黙って頷いた。
『しかし、その一方で。』
『競争には、勝つ者と負ける者が生まれます。』
繁盛する大きな商店。
その向かいで、看板を下ろす小さな店。
次々に工場を買収する大商人。
職を失い、肩を落として町を去る職人。
『負けた原因は、才能の差かもしれません。』
『努力が足りなかったのかもしれません。』
『ですが、それだけではありません。』
『災害。』
『病気。』
『時代の変化。』
『運や不運。』
『ほんの少しのタイミングの違い。』
『その理由は、多岐にわたります。』
「一生懸命やってても、負けることがあるのか……。」
『あります。』
『そして、競争が続けば、豊かな者と貧しい者との差は、少しずつ広がっていきます。』
『市場は、人々を豊かにします。』
『ですが、その豊かさが、すべての人へ同じように行き渡るとは限りません。』
ジンは腕を組み、難しい顔をした。
『さらに、問題はそれだけではありません。』
映像が都市の外へ移る。
製鉄所へ燃料を供給するため、森の木々が次々と伐採されていた。
工場を建てるために山が削られ。
鉱石を採るため、巨大な穴が大地に穿たれる。
製鉄所では大量の水が使われ、汚れた排水が川へ流されていた。
澄んでいた川は濁り。
魚の姿が消え。
下流の村では、病に苦しむ人々が増えていく。
「どうして止めないんだよ!」
『製鉄所も工場も、利益を得るために操業しています。』
『木を切るのをやめれば、生産量が落ちます。』
『汚れた水を処理するには、設備と費用が必要です。』
『自分たちだけが費用を負担すれば、ほかの工場との競争に負けるかもしれません。』
「でも、このままじゃ川が死んじまう!」
『そうですね。』
『人は、自分にとって正しいと思うことをしようとします。』
『自分の会社を守る。』
『国を豊かにする。』
『働く人たちの生活を守る。』
『それ自体は、決して間違ったことではありません。』
『ですが。』
『世界中の人々や国々が、それぞれ同じことをすれば。』
『社会全体では、かえって人々の暮らしを脅かすことがあります。』
『各国が競うように鉄を生産すれば、それぞれの国は豊かになるでしょう。』
『しかし、世界中で森を切り。』
『山を崩し。』
『大量の水と燃料を使い続ければ。』
『自然への負荷は、少しずつ積み重なっていきます。』
映像の中で、雨が降り始めた。
木々を失った山は、大量の水を蓄えることができない。
土砂が崩れ。
濁流が町を襲う。
さらに別の場所では、干ばつによって畑が枯れ、人々が水を求めて争っていた。
『その結果。』
『洪水や干ばつが増え。』
『気候が変化し。』
『多くの人々が命を失うことさえあります。』
「一つ一つの国は、豊かになろうとしただけなのに……。」
『はい。』
『一人ひとりにとっては正しい行動でも。』
『皆が同じ行動を取ることで、社会全体にとって悪い結果になることがあるのです。』
ジンは、しばらく言葉を失っていた。




