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【新装版】枯れたおっさん、何もしないで異世界を救う  作者: アズマユージ
第二部 聖王国編

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第101話 残された楔

 宿は、静かだった。


 人の気配はない。


 つい数刻前まで、確かに誰かがいたはずの場所が、最初から空であったかのように整っている。


 扉は閉じられ、鍵も壊されていない。


 窓も同様だ。


 争った形跡も、逃げた痕跡もない。


 だが。


 確実に、何かが起きた。


 床に残る、わずかな擦れ。


 壁際に倒れたままの男。


 意識はある。


 だが、動けない。


 それだけで十分だった。


 屋根の上。


 ウルフは、そこに立っていた。


 視線は、宿の内部と、空間そのものへ向けられている。


「……いないか」


 短い確認。


 配下が応じる。


「対象、すでに撤退」


「追跡は?」


「不可能です。痕跡なし」


 ウルフは、しばらく何も言わなかった。


 やがて。


「そうか」


 それだけを返す。


 驚きも、焦りもない。


 ただ、事実を受け入れる。


「……面白い」


 わずかに口元が動いた。



 その夜、何も起きなかったかのように、街は静まり返っていた。


 だが――


 翌朝、その静けさは、別の形で現れることになる。



 街は、いつも通りに見えた。


 市場は開き、人は行き交い、日常は続いている。


 だが。


 空気が違う。


 視線が違う。


 会話の質が違う。


「昨日の神託……見たか?」


「ああ」


「……なんだったんだ、あれ」


 声は小さい。


 だが、確実に交わされている。


「巫女様より先に、同じことが出てただろ?」


「偶然、じゃないよな……」


 誰も断言しない。


 だが、否定もしない。


 疑問は、消えない。


 むしろ――広がっていた。


 そして、その広がりは。


 やがて教会にも届いていた。



 中央聖堂。


 枢機卿は報告を聞いていた。


「民衆の間で、神託に関する噂が広がっております」


 短い沈黙。


「構わないのだよ」


 落ち着いた声だった。


「大衆とは、そういうものだ」


 窓の外へ視線を向ける。


「何か別の大きな出来事が起きれば」


「すぐにそちらへ関心を移す」


「噂話など、取るに足らないのだよ」


 断言。


 迷いはない。


 だが。


 現実は、静かにずれていた。


「神託は止めない」


 枢機卿は続ける。


「形式を変える」



 通達が出された。


 神託ミサの中止。


 そして。


 神託は、教会が書面にて発表する。


 秩序を保つための措置。


 揺らぎを抑えるための判断。


 だが――


 人は、見たものを忘れない。



 夜。


 街の片隅。


 灯りを落とした小さな酒場。


 扉は閉じられている。


 だが、中では人が集まっていた。


 声は抑えられている。


 笑い声はない。


「……お前、見たか?」


「ああ」


「やっぱりか……」


 木のテーブルを囲む男たち。


 杯は進んでいる。


 だが、酔ってはいない。


 誰もが、周囲を気にしている。


「巫女様の後ろに出てたやつ……」


「あの猫みたいなのか」


「そう、それだ」


 声をさらに落とす。


「先に喋ってたよな?」


 沈黙。


 誰も否定しない。


「……じゃあ、あれは何だ?」


「神託って……」


 言葉が、止まる。


 言ってはいけない。


 だが、考えてしまう。


 一度見たものは、消えない。


 疑問は、確かにそこにあった。


 そして――


 そのやり取りを。


 カウンターの端で、一人の女が聞いていた。



 旅人風の装い。


 目立たない位置。


 酒には口をつけていない。


 ハミータだった。


 視線は動かさない。


 だが、すべてを拾っている。


 言葉。


 沈黙。


 視線。


 空気。


 それらすべてが、情報だった。



 酒場を出た後。


 人気のない路地裏。


 ハミータは、短く息を吐いた。


 懐から通信具を取り出す。


 簡潔に、報告を打ち込む。



「神託作戦は奏功」


「民衆の間に、疑念の声が広がっている」



 送信。


 それだけで十分だった。



 同じ頃。


 別の場所でもまた――


 同じ“変化”を観測している者がいた。


 屋根の上。


 ウルフは、街を見下ろしていた。


 人の流れ。


 視線。


 空気。


 すべてを観察している。


「……なるほど」


 小さく呟く。


「壊したのは、構造か」


 ユージたちの姿は、もうない。


 だが。


 残したものは、大きい。


 疑問。


 比較。


 そして――選択。


 ウルフは、静かに目を細めた。


「面白い」


 その言葉に、感情はほとんどない。


 だが。


 確かな関心があった。



 その日。


 聖王国は、まだ崩れてはいない。


 だが。


 確実に、傾き始めていた。


 小さな楔は。


 静かに、深く。


 この国に食い込んでいた。

昨夜、スピンオフ短編「タケシトだけが、だいたい合ってる」をリリースしました。

実は、難しく考えないタケシトが、一番のユージの理解者だった、というお話です。

これで、一連のスピンオフ短編集は一旦終了の予定です。

お時間ある方は、お付き合いください!


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