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【新装版】枯れたおっさん、何もしないで異世界を救う  作者: アズマユージ
第二部 聖王国編

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第100話 忍び寄る影

 夜は静かだった。


 聖王国の夜は、いつも静かだ。


 だが、この夜の静けさは、少し違った。


 宿の外。


 気配が増えている。


 音はない。


 足音も、衣擦れもない。


 それでも、いる。


 複数。


 統制された動き。


 無駄のない配置。


 素人ではない。


 ユージは窓の外を見たまま言った。


「……来たな」


 ナーチャンが静かに頷く。


「包囲されています」


「侵入経路、三箇所」


「退路の一部も封鎖済みです」


 リシュンが肩をすくめた。


「分かりやすいな」


「プロだが、隠す気はないらしい」


「いいえ」


 アルノルトが低く言う。


「隠す必要がないのでしょう」


 その意味は、全員が理解した。


 確実に仕留めるつもりだ。


 宿の正面。


 闇の中に、影が立つ。


 黒装束。


 顔は見えない。


 だが、佇まいだけで分かる。


 訓練された者たち。


 失敗を前提にしていない者たち。


 タケシトが、ゆっくりと立ち上がった。


「俺が出る」


 誰も止めなかった。


 扉が開く。


 夜気が流れ込む。


 タケシトは、いつものように気の抜けた姿勢で外に出た。


 片手をポケットに突っ込み。


 もう片方で、頬を掻く。


 とても、暗殺部隊と向き合う男の姿には見えない。


「……なんだ、お前ら」


 眠そうな声だった。


「夜中に人の宿囲んで」


「迷惑だろ」


 返答はない。


 影の一人が、わずかに重心を沈めた。


 次の瞬間。


 踏み込む。


 速い。


 迷いがない。


 だが。


 その一歩が、途中で止まった。


「……っ」


 先頭の男の呼吸が乱れる。


 何もされていない。


 タケシトは、まだそこに立っているだけだ。


 だが、進めない。


 距離は、たった数歩。


 なのに、その数歩が異様に遠い。


 踏み込めば、死ぬ。


 どの角度でも。


 どの速度でも。


 どの手順でも。


 先に死ぬ。


 本能が、そう告げていた。


 別の影が横へ回り込む。


 挟撃。


 合理的な判断。


 だが、その動きもまた途中で止まる。


 タケシトは、視線すら向けていない。


 それでも、分かる。


 見られている。


 読まれている。


 入った瞬間に、終わる。


「……対象、危険度想定外」


 影の一人が、低く呟いた。


 その背後。


 宿の裏口側で、別の影が動いた。


 音もなく侵入しようとした、その瞬間。


 地面に伏していた。


 何が起きたのか、本人にも分からない。


 そこに立っていたのは、ナーチャンだった。


「侵入者、無力化」


 淡々とした声。


 結果だけを報告する声音だった。


 さらに二人。


 同時に動く。


 だが、次の瞬間には壁際に転がっていた。


 骨は折っていない。


 命も取っていない。


 ただし、動けない。


「殺傷は避けています」


 ナーチャンが言う。


「情報を持ち帰らせる方が、有効と判断しました」


「相変わらず容赦ないな」


 ユージが呟く。


「容赦はしています」


「してそれか」


 その時だった。


 タケシトの表情が、わずかに変わった。


 いつもの気の抜けた顔から、ほんの少しだけ緊張が消える。


 いや。


 逆だった。


 空気が、変わった。


 屋根の上。


 月明かりの届かない場所に、一人の男が立っていた。


 黒い外套。


 無駄のない姿勢。


 ただ、そこにいるだけ。


 それだけなのに、周囲の闇が濃く見える。


 男は動かない。


 声も出さない。


 ただ、見ている。


 タケシトが、小さく息を吐いた。


「……面倒なのが来てるな」


 ナーチャンも視線を上げる。


「感知」


「通常戦力とは異なります」


 リシュンが眉をひそめた。


「あれが親玉か?」


 アルノルトが静かに答える。


「可能性は高い」


 屋根の上の男――ウルフは、ただ一度だけ、タケシトを見た。


 視線が交わる。


 その瞬間。


 周囲の影たちが、一斉に退いた。


 命令は聞こえない。


 だが、撤退は統一されていた。


 ウルフは、戦わない。


 まだ。


 ただ、測った。


 そして、判断した。


 今ここで仕掛けるべきではない、と。


 タケシトもまた、動かなかった。


 追わない。


 挑発もしない。


 ただ、見送る。


「追撃しますか?」


 ナーチャンが問う。


「いや」


 ユージが首を振った。


「必要ない」


 ウルフの姿が、夜に溶ける。


 他の影たちも消えた。


 宿の周囲には、再び静けさが戻る。


 だが、それは先ほどまでとは違う静けさだった。


 来た。


 見られた。


 測られた。


 それだけで十分だった。


「……向こうも本気だな」


 リシュンが言う。


「ああ」


 ユージは頷いた。


「でも、遅い」


 リコが不安そうに顔を上げる。


「大丈夫なの?」


 ユージは振り返った。


 その表情は、落ち着いていた。


「楔は打った」


 静かな声だった。


「もう、この国は元には戻らない」


 誰も否定しない。


 否定できない。


「それに」


 ユージは、ウルフが消えた屋根の方を見る。


「面倒なのも出てきた」


「ここで無駄に消耗する理由はない」


 軽く肩を回す。


「一旦、退くぞ」


 ナーチャンが即座に頷く。


「撤収準備を開始します」


 ハミータが、影から姿を現す。


「退路、確保済み」


「早いな」


「仕事です」


 リシュンが笑う。


「派手にやった後は、さっさと帰る」


「いつも通りだな」


 アルノルトは資料をまとめながら言った。


「しんた君の本体と記録媒体は回収済みです」


「投影装置も?」


「痕跡は残していません」


「さすがだな」


 ユージは窓の外を見た。


 整いすぎた街。


 静かすぎる夜。


 何も変わっていないように見える。


 だが。


 もう違う。


 民衆は見た。


 神託の隣に、もう一つの言葉が並ぶ瞬間を。


 巫女より先に、同じ言葉が示される光景を。


 そして、疑問を抱いた。


 それはもう、消せない。


「よし」


 ユージが言う。


「撤収だ」


 その夜。


 ユージたちは、聖王国を後にした。


 背後に残したのは。


 破壊ではない。


 占領でもない。


 ただ一つの、小さな楔。


 だが、それは。


 正しさだけで固められた国にとって。


 あまりにも深く、食い込んでいた。

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