第14話(最終話)・新たな恋‐1万分の1の確率の恋のレシピ作りの成功法。
初めに、読者諸氏の皆様へ何時もの著者からの、お詫びを致します。。
前13話から、近日中(著者の予定では二週間くらい)に最終話をアップする予定でいましたが、最終話の加筆・訂正・削除を繰り返しているうちに、著者が当初予定していたラストのストーリーに随分と変更が生じました。
その為に、最終話の執筆中にどんどんと色んなラストストーリが膨らみ上がってしまいこうしようとか、ああしようとかの迷い迷って、最終話のアップが予定より大幅に遅れてしまうことに余儀なくされました。
しかし、どうにかこうにか、読める程度のストーリとして纏まったと思い、本作品のストーリ的には著者自身もまだまだ納得できない未完成で未熟ながらも、ここで最終話としてアップすることとしました。
何時もの著者による、身勝手な言い訳をどうぞお許しください。
さて、最終話ですが、小説としての出来映えは稚拙な出来損ないの作品かも知れませんが、どうぞご一読いただければ、幸いです。
なお、折を見ながら本作品の第1話から最終話までを加筆・訂正させていただきます。
病院を訴えるため、原告となったのは友乃の両親だ。その代理人弁護士となったのが、弁護士としての実務を取得するために司法修習を終えて、当時弁護士登録したばかりの、ほのかだった。
新米弁護士の多くは、一旦は他の法律事務所に勤務する。これは、いわゆる「イソ弁(居候弁護士の略)」と言われる。
それが、友乃の姉である「清海ほのか」だ。この裁判で争点となったのは、医師の患者に対しての最善の注意義務の過失違反と、医療水準の在り方についてだ。
医師は、その業務に従事する性質に照らして、最善の注意を払うことが求められる。患者のケースに寄っては、過失の前提となる予見可能性が推定されることもある。
つまり、友乃の場合も退院後に風邪似た兆候が現れていたにも関わらず、病院に連絡しても診察に来るようには要求されず、暫く様子を見守る様にと言うのが医師の見解であり、指示だった。
この時に、医師が友乃を診察していれば、友乃はもう少し長く生きられていた可能性が、完全に否定できなかった。そこで、医師の予見可能性の過失責任を追及したのだ。
簡単に言えば、速やかに友乃を診察さえしてくれたなら、肺に感染症を引き起こしていることを医師は、一早く把握できたはずだ。その予見可能性を怠って、診察をしなかったことは、明らかなる医師の過失に値する言う、主張を展開したのだった。
しかし、判決は第一審・第二審とも非情だった。完全なる敗訴で終わった。
弁護士としてのプライドが、ほのかを許さなかった。ほのかは最高裁に上告するつもりでいた。しかし、それを止めたのは他でもない友乃の法律上の夫である、室杜本人だった。
その、医師の過失で友乃を亡くした訴訟当事者としての夫である室杜は、この裁判の原告としては訴訟脱退をしていた。訴訟脱退とは、その裁判の判決の効力もその訴訟から脱退した者にも、及ぶと言うことだ。
こんなことをしてても、友乃が生き返る訳でもないし、喜んでもいない。
それより、僕が友乃に変わって夢を適えてあげる方が、友乃の墓前に良い報告ができる。室杜は、友乃を失ってからずっとそう考えていた。
それを聞いたほのかは、上告を断念したのだった。確かに、室杜の言う事にも一理ある。友乃は人の為になることを望んでも、人と争うことは決して望まなかった。
仮に、上告していたとしても原判決を覆せるかとなると、そこには大きな壁を乗り越える必要があった。
それが、最高裁判所の下した、過去の医療過誤訴訟の種々の判例である。
最高裁判所平成12年9月22日判決において、「医療水準に適った医療行為が行われていたならば、患者がその時点で尚も生存していたとする、相当程度の存在が証明されたときは医師は不法行為責任を負う」とされる。
これは、医師の不作為(過失)と患者の死亡という因果関係が証明されなとくとも、医師の責任を肯定しているのである。
さらに、最高裁判所平成23年2月25日判決においては、「患者が適切な医療行為を受けることができなかった場合に、医師が患者に対して適切な医療行為を受ける期待権の侵害のみを理由とする不法行為責任を負うことがあるか否かは、当該治療行為が著しく不適切なものである事案について、検討し得るにとどまる」としているのである。
友乃の死亡ケースの場合、これらに該当する事案とは言えないとされ、肺を患ったことが直接の死因であり、医療水準は医師個人の知識や技能によらず、医療機関単位で決まるとし、医師に対して医療過誤としての過失責任は、否定されているのである。
要するに、友乃の死亡当時に未だに生存していたと言う証明が足りず、肺への合併症が発症していたとしても、診察の期待権を著しく不適切に扱ったとは言えないと、裁判所は言っているのだ。
そして、何より大きい壁が医療水準を大きく超える治療を提供する義務は、患者との特約がない限り、その様な義務は医師には発生しないと、結論付けたのである。
この壁を超えることが出来ないまゝ、ほのかは、弁護士として初の敗北を喫したのだ。
義姉さん、ここまで裁判で頑張ってくれてありがとうと言う室杜の前でひたすらと、ほのかは友乃の遺影を抱きしめながら泣き崩れて、妹を失った悔しさと同時に非力で不甲斐ない自分を詫び続けた。
*
病院の面会受付窓口で、室杜の病室の部屋番号を確認してから、ナースステーションで面会時刻と、面会終了予定時間を記入した。
こんな大きな大学病院なんて、今まで沙和音は来たこともなかった。だから、その手順に煩わされた。
沙和音は、目的の病室の前まで来て、息を何度も整えて気持ちを落ち着けた。どんな顔で、室杜の前に現れていいのやら、当惑していたのだった。
新たなミッションに挑むような勇気を持って、病室に入ろうとした瞬間、「お見舞いの方ですよね」っと、看護師に声を掛けられた。その看護師の案内に従うように、沙和音は病室に足を踏み入れた。
どうやら、ナースステーションの方から、病室の前で途方に暮れて立ち尽くしている、そんな沙和音を見兼ねた看護師が、気遣ってくれたのだろう。
「こっ、今日は……」
緊張感が邪魔して、室杜の顔を見た瞬間どう挨拶して良いのかさえ、沙和音には解らなかった。
「おや?」と言う顔をして、室杜は「どうして、ここへ。仕事の方は?」と、逆に疑問を、沙和音に訊き返した。
沙和音は、俯いていた顔を上げて黙ったまま愛しい人を見る眼で、ただ室杜を見つめた。沙和音の頬うに涙が零れてくる。すっくと、室杜がベッドから立ち上がって、沙和音の傍へ寄った。束の間、そんな沙和音の眼をただ黙って、室杜も見つめた。
「大丈夫。僕はここにいる。きっと、これからもキミと一緒に歩いて行ける」
沙和音は、涙で濡れたハンカチを眼元から離して、しっかりと室杜を見つめた。
「ずっと、ずっと、どこまでも一緒に歩いてくれますか。私と一緒に……」
沙和音の言葉に、室杜は首を縦に振り、黙ったまま頷いて答えた。沙和音の顔に、室杜の顔が接近して来る。
種々の花でアレンジメントされたお見舞い用の花束が、沙和音の手から力が抜けて床に落ちた。
えっ?まさか、ここで?と思った刹那、沙和音の記憶がフラッシュバックした。あの日に見た夢は、南柯の夢なんかじゃあなかった。今は、はっきりと見える。眼も鼻も口も輪郭も。そして、大きな身体もこの人そのものだ。
大部屋の病室は静かで、他に誰かいるのかいないのかさえ分からないし、ベッドごとにカーテンで仕切られている。だから、他からは今の様子は見えないはず。
沙和音は、自然と眼を閉じていた。その意に反して沙和音の髪が、ふんわりと揺れた。
「ほぉ~らっ」
という室杜の声に、えっ?と思い、沙和音はゆっくりと眼を開けた。そこには、少年がどことなくも、あどけなく笑っているような室杜の顔が映された。
「髪に、てんとう虫が停まってる」
「て……、てんとう虫?どこで、着いて来ちゃったのかな」
呆気に取られた表情で、千思万考する沙和音の背に手を添えて、床の花束を拾い上げた室杜は、丸で悪戯をした少年が無邪気に微笑んでいるような、善因善果な表情をしている。
そのまま、室杜は窓を開け放った。窓から右手を外に出して、空に向かって室杜の掌が開いた。指から放たれたてんとう虫は、次の停まり場を探すかの様に、自由気ままに飛んで行った。
沙和音の右手は、室杜の左手でやや強めに握られている。窓際に佇んで、てんとう虫を見送り続けている沙和音と室杜を、眩しい夏の陽射しが二人を照らし続けた。
そして後日、室杜は医師から、急性白血病であることを、告げられることになる。
沙和音と室杜が、赤い糸で結ばれるまでには、まだまだ多難な道程を超えて行かなければならない、運命の悪戯が待ち受けていたのだった。
急性白血病は、頭痛や眩暈、発熱や体全身のだるさなどその様々な症状で、発見されることが多い。風邪によく似た症状が現れるが、その症状がしつこくてさらに進行すると、貧血や出血傾向が見られる。
白血病は、骨髄の中の造血幹細胞のがん化によって引き起こされる。造血幹細胞は元々が血液を作る働きのある細胞で、がんに侵されると正常な造血ができなくなる「造血障害」が起こる。
この造血障害が起こることにより、白血球や赤血球、血小板などが減ってしまい本来の働きが低下することにより、風邪に似たような様々な症状が現れる。
室杜が受けた血液検査は、赤血球・白血球・血小板などの血球数と言った基本検査の他に、正常なら現れないはずの未成熟な血液細胞がないかを調べる。その検査結果から血球数の異常や、未成熟な細胞が現れたなら、骨髄検査へと進む。さらに、症状によったら、画像検査・中枢神経検査・感染症検査などを行うことになる。
骨髄検査は、白血病のタイプを詳しく調べるための精密検査だ。芽球の比率を調べたり、染色体や遺伝子の検査、骨髄性とリンパ性の区別と言ったことを、骨髄液を採取して調べる。
芽球とは、未成熟な細胞で、正常に造血が行われていれば5%以下だが、白血病の場合は20以上と比率に差異がある。
染色体とは、白血病のタイプを調べる。フィアデルフィア染色体の様に、特定の異常染色体を見つけるためだ。成人の急性リンパ白血病では25~30%、慢性骨髄性白血病では、ほとんどの患者はこのフィアデルフィア染色を、白血病細胞に有している。
司法書士試験当日、室杜は絶望に打ちひしがれることなく、試験が行われる大学の会場へと向かっていた。
まだ、本格的な治療が開始される前だったので、室杜の事情を考慮してギリギリのラインで、病院が外出を許可してくれたのだった。
*
進行が至って早いのが急性白血病の特徴である。そのため、診断がつき次第直ちに治療がスタートする。沙和音の次なるステージは、既に始まっている。沙和音は、骨髄バンクへのドナー登録を考えていた。
骨髄バンク事業は、「移植に用いる造血幹細胞の適切な提供の推進に関する法律」に基づき、日本骨髄バンクむが主体となって日本赤十字社及び地方自治体の協力により、行われている公的事業だ。
ドナー登録できる要件として、骨髄・末梢血管細胞の提供について十分に理解している、年齢が18歳以上54歳以下で、健康であること。女性の場合、体重が40㎏以上、男性の場合は45㎏以上だ。
沙和音は、何れの要件も満たしている。しかし、ドナーとなっても骨髄事業の公平性から、ドナー提供患者を選べる訳ではない。しかも、ドナー側と患者側が面会することも、相互のプライバシィー保護の観点から認められていない。
白血病で行われる造血幹細胞移植は、「自家造血幹細胞」ではなく、ドナーから提供を受けて行う、「同種造血幹細胞移植」だ。
ドナーと適合する確率は、血縁者で4分の1、非血縁者で1万分の1以下と言うことを、沙和音は初めて知った。言い換えれば、1万分の1というチャンスがある。
それでも良い。例え、室杜とのHLA型が一致しなくても、1人でも多くの命を救うことができると言う、希望がある。1万分の1のチャンスに掛けて、沙和音はドナー登録相談のため、献血ルームを訪れていた。
登録に要する所要時間は、約15分程だ。その次のステップとして、腕の性脈から約2MLの採血を行い、HLA型を調べる。
その後、日本赤十字社より「登録確認書」が送られてくると言った、流れを踏むことになっている。ドナー登録されたHAL型は、定期的に患者側のHAL型と一致する適合検索がなされる。
季節は、夏の終わりを告げる9月中旬へと移り変わっていた。司法書士の筆記試験の合格を知った会社の同僚たちが次々と、室杜の病室に激励とお見舞いを兼ねて、訪れていた。
「これで、良かったじゃない。1人暮らしよりも、返って健康的な生活ができんだし」
麻美は、子ども扱いをするような口調で、室杜に言った。
「病人に対して、健康的って言える清海のその性格が、全く末恐ろしいな」
「とにかく、今は休養に努めることだ。そして、1日も早く職場復帰してもらわないとな。お前の仕事の穴埋めをする俺たちも、何時までもそんな皺寄せを被るのはゴメンだぜ」
営業部では、室杜の上司に当る小杉洋が言った。どうやら、麻美に無理やりと連れてこられたらしい。見舞い品に掛かる代金を支払わせるために。
「たっく、主任まで皮肉を言いに来たんすか」
「まあ、そう言うな。ところで、お前にヘッドハンティングの話が来てんだ」
「えっ!ヘッドハンティング?」
唐突な話を聞かされた室杜は、眼を大きく見開いて驚きを現した。
「そう、先日ね、ほのかさんが会社に見えてね、室杜くんが司法書士試験を突破したら、うちの事務所で預かりたいって、常務に相談したらしいの」
「え?義姉さんが、そんな話を常務に」
「まあ、会社としたらお前を手放しくないらしいが、でも会社として法務的なことを全てお前に任せたいって、意向でいるらしいんだ」
室杜を説得するように言ってから、小杉は何度もうんうんと言う風に頷いた。
「そんな無茶な話ってなじいゃないですか。俺にも考えてることがあるし」
「何を言ってんだ。こりゃあ、言い換えれば出世だぜ。会社の法務事務を、全てお前の能力に委ねるってことだからな」
「だから、それが俺から言わせたら無茶だって、俺には俺の都合があるし」
室杜は、参ったなとでも言わんばかりに、頭の天辺を搔いた。しかし、髪は抗がん剤治療に入っているので丸刈り頭になっていて、それを隠すためのキャップを被っている。
「何よ、その考えとか都合って」
昔からの友達を問い詰めるように麻美が、やや強めに訊いた。
「いや、だからそれは、俺自身にも他にやりたいことがあるってこと」
「司法書士になったとして、他に何をやりたいのよ?」
麻美は丸で室杜に対して、人生のディクレイションをするかのように言うのだった。
「それは、俺の問題だから、他人から余計な口出しはしないでもらいたいね」
「ひょっとして、沙和音のことを考えてる?」
麻美は、少し室杜の顔を覗き込むように言った。
「何だよ、急に。新堂さんのことは、今は何も関係ないだろう」
室杜は麻美にあがらう様に、憮然とした口調で言葉を返した。
「ほのかさんと友乃は姉妹だから、できればそんな関係から断ち切りたいってさ、沙和音のためにも」
「そんな事じゃない。彼女は彼女で、友乃は友乃でしかない。そんなことではないさ」
「じゃあ、具体的には何をしたいのよ」
「そうだな、司法書士試験を突破したら、次は介護福祉士の資格を目指したいな」
「介護福祉士?なんでまた」
室杜の言うことに、何を考えてるのかその意図が、麻美には理解しがたかった。
「別に、特に理由なんて考えてないさ」
「じゃあ、今の仕事を続けながら、今度はそっち系の資格取得を目指すのかい」
小杉が、苦手な勉強は俺にはゴメンだとも言わんばかりに、苦笑を交えて言った。
「でも、何の理由もなくそんな資格って必要かしら」
「まあ、前から漠然と思ってたことだけど、こうやって病気してみて介護に携わる仕事も、そんなに悪くないのかなってね」
「まあ、良いじゃないか。何事も挑戦だし、人のためになる事なら室杜らしいし」
「人のため?そっか、そう言うことか。やっぱり、室杜くんって……」
麻美は、友乃が病床で言っていた言葉を思い出していた。
誰が人のためになりたいの――――――
介護福祉士の仕事も、良いかもね。だって、人を助けられるでしょう――――――
リハビリ中の自分の苦しみより、人を助けたいと顔を和ませて言っていた友乃の思いが、今の室杜のエネルギーとなっている。しかし、それでは沙和音は何時までたっても、友乃の代わりでしかない。
そんなのは、とても沙和音に可哀想な事だと、室杜の胸間を埋めている過去を、麻美は何とかして打ち砕きたかった。
しかし、そんな麻美の杞憂を一掃させるような事を、室杜は口にし出した。
「新堂さんがこう言ったんだ。男女恋愛法って、人を信じない人のための法律だってね」
「どういうことよ?それと、介護福祉士ってどう関係があるのよ」
「人を信じているから、介護を任せられる。信じられない人に介護を任せられるかい」
「でも、それじゃあ、沙和音は室杜くんの介護役みたいじゃ……」
何処かもどかしい室杜に、麻美の反対する苦言を遮るように、室杜は続けて言った。
「俺も新堂さんを信じてる。だから、男女恋愛法なんて必要ない。俺に必要なのは、今の新堂さんだし、友乃もきっと、新堂さんを信じてくれるているはずさ」
「へーぇっ、そっか、新堂さんとね。そういうことだったのか、お二人さんは」
意外そうな顔で、小杉は麻美と室杜を交互に見比べた。さらに、そんな話は寝耳に水とも言わんばかりに室杜の顔に、にやけた顔を小杉は向けた。
「ひょっとして、私と初めて会った時から室杜くんは介護福祉士って、考えてたんじゃないの?」
室杜の抱くイデオロギーに対して、どんなコメントで室杜を説き伏せたら良いのかと、麻美は顔を少し顰めて言った。
「そいつは、何とも。だけど今は自信かな。資格ってことに対しての」
「じゃあ、あの時は自身がなかったの?今は、たくさんの人たちを助けるためとしても」
「何て言うかな、何かに頑張っていたいんだ。人生って手を抜いてたら損だからさ」
室杜は、何処か遠い未来に存在する面目躍如を果たすような、言葉を選んで言った。
「それは、頑張り屋さんの友乃が理想としてた人生探訪の話でしょう。何もそこまで」
室杜の口にしているイデオロギーには、何かの引っ掛かりを覚える麻美だった。
「友乃は、その理想を残したまま逝ってしまったけど、俺はその理想を達成したいんだ。友乃の残してくれたものと、そしてこの手で守るべき大切な人のためにもね」
室杜は、自分の両手の掌を見つめながら、沙和音の髪に停まっていたてんとう虫の感触を所感した。思い倣しか、友乃が、あのてんとう虫となって、沙和音の髪に停まっていとの思慕に、室杜の心を馳せていた。
そういう人を思いやる価値観で、友乃と室杜は共通性があったのを、麻美は思い知らされた気がした。人を助けたいという思いは、友乃が常日頃からずっと大切にしていたことだ。
介護福祉士も良いけど、その前に自分の病気を克服しなさい。これからの沙和音のためにもね。そんな麻美の苦言を呈するような言葉に、室杜は頭を包むキャップを搔いて苦笑を浮かべて、頷くしかなかった。
*
骨髄の提供には年齢制限があり、そのために若い人のドナー登録を増やすことが望まれている。ドナー登録から移植までの流れとしては、骨髄移植ドナー登録、患者との適合、ドナー候補者に選出、確認検査・最終同意・骨髄手提供者として決定という一連の流れを辿ることになる。
ドナー候補者に選出されても、提供は20歳から55歳までと至って厳格な要件がある。候補とならなかったドナー登録者は満55歳の誕生日で登録取消となる。又、「骨髄移植ドナー等支援事業」により、骨髄等の移植を完了したドナーには助成金の交付もなされる。
沙和音は、自分のドナー登録が人のためになるという、自分の信念を強く信じている。
「介護福祉士?そんな話は聞いてませんけど」
沙和音は、眉を顰めるような怪訝な眼差しを麻美に向けて言った。
「そう。だけど彼は、司法書士になってもそっち一本の方が良いと思うな」
コピーされた会議用の書類の丁合をしながら、麻美は沙和音に言った。二十部の書類をページ数ごとに纏めて会議資料とするのだ。その仕事を麻美は沙和音に手伝わせることを口実として、室杜との今後を沙和音とオリエンテーションすることを、目論んでいたのだった。
「なぜ、麻美さんはそう思うのでしょうか」
「なぜって特に理由はないけど、でも室杜くんは友乃の化身ではないでしょう。今はもう、沙和音の事だけを考えてれば良いって、そう思うな」
「だけどそれは、室杜さんの考えだし、私が口を出すことでもないし」
「沙和音、男女恋愛法ってなんのためにあるの?1人の人を信じていれば、それで良いじゃない」
「それは、そうですげど。だけど室杜さんは、男女恋愛法の枠を越えるような違反行為はしないと思いますし」
長テーブルの上に並べられた書類に手を動かしながらも、沙和音の手の動きはどことなく、ぎこちなくなっていた。
「だけどさ、今の室杜くんは、まだ友乃と付き合っているってことも、言えるんじゃないかな。パラドックス的な方向性で、考えてみたらね」
麻美の示唆する言葉に、沙和音は当たらずと雖も遠からずという、何処となく心が騒ぐ違和感を覚えた。
「だって、それは友乃さんって人が亡くなって、その人を尊くも愛しくも思うのは、誰でも同じじゃないですか」
沙和音は、麻美の言うことに肯定して良いのか否定して良いのか、困惑していのだった。
「そうじゃないって。室杜くんが今を頑張っているのは、友乃の幻影に対してよ。だからこれからは、沙和音の存在に対してだけ、一意専心の人生を賭けるべきでしょう」
「友乃さんの、幻影に対してですか」
「そう。ねえ沙和音、もう友乃の幻影から室杜くんを解放させてあげてよ」
「そんなこと言われても、何をしたら良いのか分かりませんし」
「そんなの、簡単な話よ」
「簡単な話って、何ですかそれって……?」
麻美はどこか、不敵な笑みを浮かべるような視線を沙和音に向けて、そっと沙和音に囁くように自分の所論を呈したのだった。
*
口述試験を終えた室杜は、手応えを感じ取っていた。
大丈夫だ。これで良い果報ができる。そこでは、もう一つの至福を加える果報者として、迎えてもらわなければならない。
「無理しなくって良いから、マイペースを守ってお互い頑張ろう」
「はい。でも、別に無理してるってわけじゃあないですし、近頃、勉強するのがなんだか楽しくなってきました」
麻美は、沙和音にこう言っていた。資格とか取得したら、もっと室杜くんと共通性が持てて良いんじゃあない。その麻美の思惑に、沙和音はものの見事に嵌ってしまていた。
「そう、1つの紐が解けたら、また1つの紐を解いて行けば良いさ。でも、本当にそれで良かったのかい」
「はい。何の取り得もない私でも、将来は手に職ってやっぱり大切ですから」
室杜は、沙和音が手にしているテキストに目を向けて言った。麻美が沙和音に口添えしたことを、沙和音は実行に移していたのだった。
「じゃあ、先に俺が司法書士になるから、そしたら一緒に報告に行こう」
「はい、その日を楽しみにしてます」
抗がん剤を投与中の室杜は、沙和音の笑顔に癒される思いだった。
「もう直ぐだ、合格発表までね」
「あのう……」
「うん?どうしたのさ」
「いえ、会社を辞めても、あの弁護士さん…じゃなくって、冬樹先生の事務所で働くことになって、ホント良かったですね」
「まあ、ルーキ社員としは、また辛い修行が待ち受けているけど、俺自身が望んでいた仕事だからね」
「でも、これからも会社とは今までどおりの、ご縁が続く訳ですし」
麻美の作戦が功を奏したかのように、沙和音が介護福祉士の資格取得を室杜に変わって目指すことを決断したことを伝えた。すると、その後からは室杜との距離がぐっと縮まったかのように感じられ、お互いに会話が自然体となっているシンパシーを、沙和音は感じていた。
「まあ、そっかな。そこではキミとのご縁もあったわけだし」
自分の言ったセリフに、照れを隠す際の癖である髪を、キャップの上から搔く室杜だった。
「で、ですよね……」
沙和音は、少し恥じらいながらも満面の笑みを醸し出していた。
室杜の治療は続いていた。急性白血病に対する化学療法の主なる目的は、その1つと目しとて治癒を目指す。2つ目として、ガンの進行を止めて延命を図りつつ、身体に現れる痛みなどの症状を緩和することにある。
幸い、室杜は、治癒率が高いとされる急性全骨性白血病と診断されていた。これは急性骨髄性白血病の特殊タイプの病症である。白血病に対しては、抗がん剤治療の効果が高く、大部分の患者は一旦は寛解するとされる。
しかし、その後治癒に至る患者は寛解した患者の3分の1程度とされている。寛解後に患者を効果的に治癒に向かわせる治療法の確立が、今後の医療現場での課題とされているのだ。
治療の合間を縫って、医師の許可の基で口述試験に望んだ室杜は、マスクに伊達メガネ、深々と頭にキャップを被る感染症対策を万全にして、挑んだのだった。
*
何よ、今頃こんなのさ、と沙和音は突然に良真から届いた8万円入りの現金書留を受け取ってから、もうこんな事は終わったことなのにと呟いた。
同封されている便箋には、短文で、「これからもっともっと、幸せになれよ。これから将来に向かっての、ハッピーな人生ライフを祈っております。」とだけ、メッセージが走り書きがなされていた。
一致するドナーが見つかったらしいと、詩織からラインが在った。良かった、これで移殖ができる。ホント良かったな。笹谷良真は、涙に咽ぶような思いでドナー提供者への感謝を現した。そのドナー提供者が誰なのかは、今の良真には考える事も知る由もない。
家って、そんなに裕福な家庭じゃあないし高校受験を控えた弟もいるしさ、長男の俺が頑張らないと、まだ高校生の詩織を助けられないしさ。お前にさ、妹のことで余計な心配は掛けたくなかったし。
沙和音、ホントごめんな。決して逃げたんじゃない。これしか、方法がなかったんだ。
北海道の親戚が経営する会社の仕事を手伝って、少しでも収入を良くして俺が、詩織の治療費を少しでも援助していかないと。
それには、俺1人の方が気軽だからさ。お前から恨まてれも良いと思った。それが、俺が身勝手にも下した、お互いがこれから幸せになるための審判だったからさ。こっちが俺の生まれた地だから、そこに戻って来ただけさ。1から何かを始めるために、そして自分の幸せって奴を探して見たくって。過去と決別するってことが、お前のためだと思ったし、俺が背負っている大切な家族との絆を壊さないためにさ。それだけの事さ。自分勝手と言われたたら確かに、男なんて自分勝手な生き物なのかもな。
でもな。男女恋愛法って、将来に期待を持てない俺みたいな奴には、ちょっと酷な法律だな。作業に追われながら、胸中で呟いている自分のことを思い返すと、苦笑しながら良真は、首に巻いたタオルで顔を拭った。それも、初冬に入った北海道岩沢見市内の建設中のマンションで、電気配線工事の仕事をこなしながらだ。
テーブルの上に置いた現金書留の差出人の住所欄が北海道になっているのを沙和音は見つめながら、北海道ってもう寒いのかなっとの、イメージを瞬間的に思い浮かべてから軽いクシャミを1つ吐いた。
もしも、「男女恋愛法」がなければ、沙和音も良真も自分の持つそれぞれの運命を変える分岐点に悩むことなく、無駄な争いを裁判所ですることは無かったのかも知れない。
そして、これからも沙和音も良真も「男女恋愛法」の存在理由を、お互いに考える必要性に迫られることも、ないのだろうから。
*
沙和音は、図書館に来ていた。学習室で介護福祉士の教科書を開きながら、難しい問題にシャープペンシルのノック部分を頭に軽く当てて、髪を搔いているとちょっとした逡巡が駆け抜けた。
室杜が口述試験に合格した後のことだった。一緒に向かった、その場所であの誓をしたのは。
友乃。俺、これから司法書士の道を歩き出す。暫くはキミのお姉さんのお世話になるけど、これからも俺とこの人を見守ってくれるかい。キミがあの時に俺に託したのは、こういうことだったんだね。
ここに、あなたが選んだ人を連れて来て。そして、あなたが信じた人は、きっと素晴らしい人だと、私に言わせて。だって、あなたは私が信じた人だから、これからあなたが選ぶ人なら、きっと私より素晴らしい人に決まってる。
その人と、私の分まで一緒に頑張って生きて行って欲しい。そう言おうとしたていたんだね、あの時のキミは。
友乃らしく頑張ったけど、その言葉を口に出せないまま、永遠に眼を閉じてしまった。だけど俺は大丈夫だから。ここにほら、連れて来たよ。
ここにいる沙和音と共に、これからの人生を精一杯生きて行くから、だから、もう心配しないでくれないかい。キミなら、きっとこの人を信じてくれるだろうから。何の因果か解らないけど、俺に巡って来た病気も順調に回復しているし、今はのこの人に助けられている。
沙和音の横で室杜は、友乃の墓前に囁くように話掛けていた。
友乃さん。あなたは、「男女恋愛法」なんていらないと思っていることでしょう。
だって、あなたは素晴らしい人を愛していたのだから。信じることが愛の始まりなら、その始まりを自分に嘘を付いてはいけない。
「男女恋愛法」は、自分の信じた愛を心の何処かで否定して、嘘の混じった気持ちを隠すためにある法律なんだと。あなたなら、きっとこんな法律は必要としない事でしょう。そんな心が澄み切った人だったんですね。
私も人の手助けができればって、今は介護福祉士の勉強を頑張ってしています。
あなたの分まで、これからも今を大切にしながら頑張って生きて行き、あなたの分まで介護福祉士の勉強を成し遂げて行こうと思います。ここで、誓います。これからは、室杜さんと一緒に人生を歩んで行くことを。
友乃の墓前で、手を合わせて沙和音は胸中にある心情を呟き、零れ落ちそうになった涙をハンカチで拭った。
「そろそろ、行こうっか」
室杜の表情は、何かの迷いを払拭したかの様に、これからを前途洋々と現わしていた。
「はい」
沙和音は、室杜とのこれからの希求に願いを込めて、友乃の眠っている霊園を室杜と共に後にした。
図書館を出ると、すっかりと日が落ちていた。
「男女恋愛法」何て、なくったて良い。こんなに素敵な恋ができることに、感謝しなければと夜空を見上げて、沙和音は囁いた。
あっちこっちに灯る明かりが、その家庭の暖かさを包み込んでいるように、沙和音の眼には映し出されている。
ふっと、何処かで聞いたようなフレーズが、沙和音の耳元の傍で流れているような気がした。
何から伝えればいいのか、分からないまゝ時は流れて、浮かんでは消えてゆく―――。
ありふれた言葉だけ―――。
あの日あの時、キミと出会わなければ、僕らはいつまでも見知らぬ二人の、まゝ―――。
沙和音は、この「ラブストーリは突然に」のメロディーと歌詞を思い出して軽く口ずさみながら、今のこの自分のハッピーな気持ちに嘘はないと信じて、微笑を浮かべた。
本当に大切なものは何かを気付かされるのが、本物の恋なんだと知らしめられた結末が、今の私なんだと思い返しながら。
*
師走を目前にしたその日、骨髄提供者として決定された沙和音は、木枯らし1号が吹く中を自己採血輸血のために、指定された病院へ向かっていた。1万分の1の確率による、人を助けるために。
沙和音の思いは、ただ1つだ。自分の提供したドナーが誰かの助けになれば、それで良い。例えそれが、自分が愛した人以外でもだ。
偶然にも、その1万分の1の確率が、どこかで皮肉にも人と人との運命が絡み合っていて、神様が悪戯な巡り合わせをしているのかも知れないことを、沙和音は考える事もしないままに。
もう完全に終わったことと、あの良真との恋愛事件とも言える裁判のことを、今はもう思い返すこともなく、沙和音は忘れて行こうとしている。
1万分の1いや、10万分の1なのか100万分の1なのか、それとも1億分の1以下なのかその位に解らない不確かな確立で、漸くと探し当てた賭け替えのない真実ある恋を手に入れた今となっては。
人との出会いなんて、こんなにも偶然が重なり合っているものなのかとの思いを胸に、沙和音は木枯らしに負けないように、目指す病院へ眼を向け歩ている。
街中に流れている少し早いクリスマスソングを、何となくも口ずさみながら。
今日はクリスマス――――。街は賑やかお祭り騒ぎ―――ぃ。
これから、自分が提供することになるドナーが、良真の妹である笹谷詩織に移殖されることは、沙和音は当然に何も知らない。そんな不透明なことに拘りよりも、今の胸中は言葉に表せない程に、瑞々しい気持に満ち溢れている。
それは、これまでにどこかで滞留していた悲恋は自分の細事な拘りでしかなく、新たに培った今のこの想いの方が、遥かに大きな喜びとなっているからだ。
そのことへの感恩に咽ぶ思いを、少しでも天与へ返礼しなければとの希求を小さな胸に抱きながら、病院までの道程をただ一途に急いでいるのだった。
E N D
この作品を最後までお読みになっていただいた、全ての読者様に感謝いたします。
平成30年12月吉日
謝辞
本作品の連載をし出してから、著者としても不本意ながら何度も執筆を断念しようかとの思いに駆られました。しかし、連載当初からこの作品にアクセスしていただいている読者諸氏の期待を裏切りたくないという思いが、この最終話の完成へと向かわせてくれました。
第1話をアップしてから、本最終話まで足掛け2年近く掛かってしまいましたが、読者諸氏のアクセス数が励みになり、どうにかこうにか完成の運びとなりました。
長い間、読者諸氏にお付き合いいただき、深く深く御礼を申し上げます。
さて、著者の近況ですが、現在「リターンマッチ的・ソーシャルライフから逃げることなかれ!」を連載中で、この作品をR元年8月末日を目途に完結させる予定です。そして、本年の12月頃から新たな長編の連載に向かおうと予定しています。
この連載は、ミステリー作品として挑戦していこうと思っておりますので、次回の連載作品はなるべく早く完結を目指すための努力を怠らないようにと、著者も只今は日夜執筆に奮闘中です。
「金貸しくんの快進撃‐悪戦苦闘の司法書士編」も構想中であり、「男女恋愛法・第2部」も、今後の執筆があるかも知れません。
そして、新たな連載作品で、読者諸氏とまた繋がることが出来たなら、著者としてもこの上ない幸いです。
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本作品の執筆に辺り、参考文献とさせていただいたのは、以下のとおりです。
「民事訴訟実務の基礎(◎記録編◎解説編)/加藤新太郎・編・前田恵三・他著」弘文堂
「民事訴訟法/三木浩一 ・笠井正俊・他著」有斐閣
「医事法入門(第4版)/手嶋豊・著」有斐閣アルマ
「医療法講義/米村滋人・著」日本評論社
「抗がん剤のすべてがわかる本 (the Medical science)/矢沢サイエンスオフィス・編」学研
「図解でわかる 白血病・悪性リンパ腫・多発性骨髄腫 /永井正・著」法研
「血液のがん 悪性リンパ腫・白血病・多発性骨髄腫 (健康ライブラリーイラスト版)/飛内賢正・監修」講談社
「天に響く歌‐歌姫・本田美奈子の.人生」ワニブックス
「骨髄バンクにご登録ください‐チャンス・ドナー登録のしおり」(冊子)厚生労働省・日本骨髄バンク・日本赤十字社
日本骨髄バンクホームページ https://www.jmdp-donor-special.jp/
この他、多数の医療機関によるホームページを参照させていただきました。
※なお、現在連載中の「リターンマッチ的・ソーシャルライフから逃げることなかれ!」のタイトルは、仮題であり、これから相応しいタイトルに改題していく予定です。
遅筆故の著者による言い訳ですが、どんな作品をアップし投稿しようかと、あれこれと迷い迷っている内に、当初予定していた作品のアップ時期が大幅に遅れてしまったことを、読者諸氏に改めてお詫びいたします。そして、今暫く同作品の完結話のアップをお待ちいただける様に、著者からの勝手なお願いを致します。




