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男女恋愛法  作者: hiroki.is
13/14

第13話・沙和音-法律の矛盾と新たな恋の悩みに気付かされる。

読者諸氏におかれましては、何かとご多忙でご健勝なことと存じます。

さて、初めに著者による何時もの言い訳を、お聞きください。

もっと早く、最終話を含めてアップする予定でしたが、著者の体調不良や仕事上の多忙が重なった関係と、本作品執筆における参考資料の読み直しに追われてしまい、なかなか執筆が進みませんでした。


ここで改めて、読者諸氏の期待を裏切ってしまっている著者の遅筆や言い訳ばかりで、本当に深くお詫び申し上げます。

最終話まで、書き終えてはいるのですが当初想定していた以上にストーリが長引いてしまい、無駄な個所の削除、それによる加筆・訂正に追われてしまい結局、最終話は次回まで持ち越すこととしまし。

期待して、前話からお待ち頂いてる読者諸氏には失礼な言い訳ばかりの著者ですが、どうぞ著者の諸事情もご考慮いただけたら、幸いです。


さて、第13話ですが、裁判所から判決書を受け取ったものの法律の落とし穴に気付かされる本作品の主人公の沙和音と、新しい恋の予感に揺れている沙和音の心のジレンマを描きました。


著者的には、まだ納得できるストーリとしては成立していないのですが、読者諸氏にこれ以上見放されないために、本話を急遽第13話としてアップすることにしました。


本当に、読者諸氏にご迷惑な言い訳ばかりですが、まだ加筆・訂正中状態なので文章的に不明瞭だったり、繋がりがなかったりと未熟な構成ですが、どうぞご一読していただければ幸いです。


最終話につきましては、続いて近日中にアップ致します。


 梅雨の時期を迎えた6月に入り、毎日、ジメジメと鬱陶しい日が続いている。そんな鬱陶しい日が続くからこそ、梅雨明けの本格的な夏の到来を皆、心待ちにするのだろう。

 沙和音には、それ以外にもう一つ心待ちにしているものがある。想定外の事が重なって、思いも依らなかった形で審理が終結した、裁判所の判決書である。

 良真が法廷で言ったことと、法廷前の通路で沙和音と理奈に向かって言ったことの、ギャップの差は、何を意味しているのか。

 

 そいつは、どうかな。まあ、これからが問題だからさ――――――

 

 問題とは、何を指しているのか、沙和音にはその良真の意図が計り知れないでいた。あの時の不敵な笑みは、本当に良真の最後のプライドを、現しただけのことなのか。

 そうだ。そうに決まってる。だって、裁判官の眼の前で自分の非を認めて敗北を受け入れたのだから、何もこれからの問題は生じないはずだ。

 資料室で、資料の整理作業を1人でしながら沙和音は、額に薄っすらと滲み出た汗を手の甲で拭って、一息吐いた。

 開け放たれたドアの方から、コンコンという響きがあり、沙和音は後ろを振り返った。

「ねえ、沙和音。今日、帰りにちょっとこっちの方って、付き合える?」

 資料室に、麻美が入って来て、指で作ったグラスの形を口に煽る仕草をして言った。

「ええ、いいですけど。でも、明日の金曜日の方が良くないですか?」

 翌日の土曜日は会社が休みなので明日の方が、時間的にゆっくりできるだろうとの意味で、沙和音は言った。

「ほら、来週は健康診断があるでしょう。だから、明日だとまた朝までってなって、それ、身体的に不摂生で良くないかと思ってね」

「別に朝まで、そんな無茶して、飲む必要はないじゃないですか」

「まあ、計画的に身体を労わって、健康診断の日はベストコンディションで挑もうってことよ」

 麻美は、苦笑気味に言った。

「そこ、大切ですからね、日頃から身体を労わるってことは」

 自分自身の戒めのために苦言を言う麻美に、沙和音は同意するように頷いって答えた。

「お互い、身体には気をつけよう。何をさて置いても、健康が一番よ」

「ですよね。若いからって、油断大敵ですし」

「7時半になったら、会社出よっか」

「どこに行くんです、お店は」

「それは行ってからのお楽しみ。良い店なんだこれがさ」

「眞理恵さんには、もう声掛けてます?」

「彼女なら誘わなくっても、何時も自分の方から勝手にくっ付いて来るから、大丈夫よ」

 内緒に行動した後の、眞理恵のする膨れっ面の顔を思い浮かべて、沙和音と麻美は互いに笑いを堪え合った。

 その頃、自席にいた眞理恵は、クシュンとクシャミを1つして、冷房のせいかしら?と、首を捻って不思議がっていた。


                *


 周りではワイワイガヤガヤと、ざわめいた雑談が飛び交っている。立食で飲食する、バー形式の洒落たお店だが、簡単に言えば、そこは激安が売りの立ち飲み居酒屋だった。

「えっ?亡くなった。病気で……」

 沙和音は、麻美の言ったことに固唾を飲んていた。眞理恵は、チュハイのジョッキを口許で制止させている。

「肺炎を併発させてね、その肺炎菌が血液にまで入り込んだのが、原因らしいんだ」

 麻美は憂いな顔をしながらも、重い口を開けるように言った。

「まだ若かったのに、さぞ残念な思いだったでしょうね」

「初めて室杜くんと合ったのも、友乃の病室だったわ。何て言うか、ちょっと服装がダサくて、着るものに無頓着な人なのかって印象だったな。その時は」

 麻美は、タバコを軽く唇に挟んで火を点け、ゆっくりと煙を上の空間へと舞い上がらせた。そして、友乃と室杜との強い絆を語り始めた。

 

 友乃が体調の異変を訴えたのは、大学二年の冬休みを目前にしていた時季だった。微熱が続き、風邪を拗らせたのかと思い、母の祖父母方の部屋で安静に努めていた。しかし、一向に発熱が治まる様子はなかった。祖母が病院に行くことを勧めたが、友乃は市販薬で様子を見るといって、祖母の不安を和らげて安心させたかったのだ。

 以前から、ちょっとした動作で動悸や息切れしたりという、自覚症状も現れていた。しかし、友乃はそれを後期試験に備えた勉強が深夜まで続いたのと、バイトの疲れが重なったせいだと過信していたのだ。

「姉ちゃん、寝込んでるらしいぜ」弟の結人ゆいとが、母にそう伝えたのは、友乃からのメールを見てだ。そのメールには、心配ないよ。風邪で少し疲れてるみたいな事程度しか、書かれていなかった。

 母はそれを結人から聞いて、急遽、あきる野市の家から車を走らせ、町田市内の祖父母宅で暮らす友乃の許へ駆けつけた。母が体温計を確認してみると、37度7分あった。

 ちょうど発熱の症状が現れて一週間が経過していた。夜10時を過ぎていたので、母は居ても立っても居られずに、止むを得ず救急車を要請した。母の機敏性に、祖父母はオロオロとするばかりだった。

 そんな大袈裟なと、友乃は拒んだというが、そのまま検査入院の措置が取られた。

 血液検査の結果で、友乃は白血病が疑われた。さらに、骨髄検査をすることになったのだ。血液は骨の中で作られており、血液疾患の場合は骨髄穿刺により、骨髄液を採取して検査するのだ。

その最終診断が、病状が急速に進む急性骨髄性白血病(AML)だった。ゆっくりと病状が進むのが、慢性骨髄性白血病だ。

 治療方法は、大量の抗がん剤による投与プログラムの第1段階として、寛解導入療法が行われる。その方法により顕微鏡で観察しても、血液中にがん細胞が見当たらない状態(寛解)まで、がん細胞を減らすことを目指すのだ。

 しかし寛解に至っても、まだ体内には1億個以下のがん細胞が残っている可能性がある。そこでさらに、がん細胞を減らすために地固め療法を行うことになる。

それでも、抗がん剤の効果が十分に期待できない場合や、難治性が予想される場合は、造血幹細胞移植を行うことになる。

 麻美は、友乃と同じ大学に入学して初めて、病院へ行き友乃を見舞った。病気をしていることは連絡を受けて知っていた。しかし、白血病を患っているとは知らされていなかったのだ。

 清海友乃。麻美の父のその兄の子、つまり友乃と麻美は従妹だ。

 室杜と初めて顔を合わせたのも、友乃の病室での事だった。麻美に、彼氏よと言った後、さらに友乃は麻美を驚かせた。

 結婚するの私たち、もう直ぐね。そういって、ニンマリとした笑みを友乃は見せた。室杜はその場で、ひたすら照れた顔付をして頭を掻いていた。何故、このタイミングで結婚なんてするのだろうか。それが、麻美には不思議な事に思えた。

 移殖のための、ドナーを待つ。いや、待たなければならなかった。

 化学療法を行ったにもかかわらず、完全寛解に至らなかった友乃の選択肢は、それしかなかった。造血幹細胞移植は、白血球の型である(HLA)が適合しなければ移殖はできない。ドナー探しは、親や兄弟姉妹などの血縁者、骨髄バンクに登録している人から適合する人を探すことになる。それでも、ドナーと適合する確率は血縁者で4分の1、非血縁者で1万分の1と言われている。

 1人では手強い病気でも、夫婦となって2人で闘うなら、手強い病気でも真っ向から闘える。そのために、今の友乃とでないと結婚する意味がない。苦楽を共にするのは夫婦の宿命であり、その苦楽から逃げることを考えていたら、本当の幸せは築けない。

 友乃が病気という事実を、室杜は厳粛な事実と捉えて、友乃を支えながら一緒に闘いたいと言う、誠実性を誓ったのだ。

 友乃が司法書士になって、色んな人の手助けをしたいと思うように、その人の弱い部分を支えて上げることと同じことだ。そんな室杜を友乃も必要としていたのだ。


 しかし―――――――、

 

 室杜と友乃について、沙和音に語る麻美の真意の程は解らない。それでも、沙和音には、それが何か他人事の様には思えなかった。

「そう言うことだったんですか」

 麻美の話を聞いていると、沙和音は室杜の生真面目な性格を改めて見直した。しかし理不尽な死に対して、やるせない気持ちで複雑な心境だった。

「でも、友乃と室杜くんは、一緒に住むという本来の結婚生活は、一日も送っていないのよ」

 麻美は、首を左右に少し振って肩に掛かった髪を調えるような動作をして、涙目を隠そうとした。

「どうして?結婚はしたんでしょう」

 眞理恵が、酎ハイを軽く一口煽ってから訊いた。

「二人の結婚式は、病室で行ったの。細やかにね」

 麻美は、ジョッキの頭を撫でるように手を弄ばせから、友乃と室杜の結婚式と、その後についての話を続けた。


 友乃は、造血幹細胞移植のためのドナーを待つ余裕さえない症状に陥っていた。がん細胞を十分に減らす完全寛解に至らなかっただけでなく、予後不良の治療抵抗性の白血病だった。急性骨髄性白血病でも、友乃の症例は、稀な疾患ケースだった。

 そのため、造血幹細胞移植の一方法である、臍帯血移植の決まった日の前日に、二人は挙式した。友乃と室杜の友人数人や看護師、友乃が仲良くしていた患者たちに囲まれて。ウエディングドレスは着れなかったけど、それでも友乃は、祝福の拍手に涙を流しながら、晴れ晴れとした笑みを浮かべていた。

 病院長が懇意としている教会の神父が招かれ、誓のキスを促すと友乃と室杜は、はにかみながらも、唇を重ねた。それが二人の最後のキスとなった。

 身体に、臍帯移植後に現れる移殖免疫反応が強く、友乃はその治療が続いた。これは「GVHD(移殖型対宿主病)」と言われる。

 つまり、ドナー側の骨髄に由来するリンパ球が患者側の組織を異物(非自己)と認識をしてしまい、攻撃してくる反応だ。これとは逆に、患者の持つ免疫細胞が、ドナー由来の移殖片を異物と見做して攻撃するのは「拒絶反応」といわれ、これは「GVHD」とは異なる症状と言われている。

  臍帯移植では、移殖免疫反応は比較的に軽症とされているが友乃の場合は、そうではなかった。ただ、臍帯移植は骨髄移植や造血幹細胞移植と比較すると、生着不全のリスクを伴い、造血回復の延滞の傾向が強いとも言われる。生着不全の要因は、輸注有核細胞や輸注CD34陽性細胞が少ないこと、幹細胞が未熟であったり、リンパ球が未熟であったりすることに有ると言われる。


「それでも友乃は、生きるという希望を最後まで見失うことはなかった。司法書士って夢に、向かっていたからね」

 麻美は、酎ハイを煽ってから右手指で目頭を軽く拭って、軽い息を1つ吐いた。

「でも、移殖は大丈夫だったっていうか、問題はなかったんでしょう」

 沙和音は、白血病がどんな病気か分からないまま、友乃の死についての疑問を口にしていた。テーブルの酎ハイが喉を通らず、手元のジョッキが冷たい汗を滴らしていた。

「うん。一度は回復の兆しも見えて退院もしたんだけど、また再発しちゃってね」

「移植が成功してなかったてこと?」

「ううん。詳しいことは解らないけど、臍帯移植後の再発は、死因を高めるらしいの」

 沙和音と眞理恵は、口を閉じたまま麻美の話を聞き続けた。

 臍帯移植後の再発は、臍帯血リンパ球の未熟さと、細胞障害活性の低下から移植片対白血球(GVL)効果が弱いと言うことが、死亡率に関係していると考えられている。

 さらに友乃は合併症により、肺を煩わせていたのだ。それが最初は、感染症がなかなか治らないものからの症状と、言われていた。仮に、それが再発だったとしても、その後の治療は白血病の診断時から、何も変わらないからだ。

 つまり、再発が早期に発見されたとしても、友乃の死の結果は回避できなかったことになる。

「そんなのって、何だか理不尽じゃない」

  眞理恵が、何とも言えない憤りを現した。沙和音も、それに同調するように頷いた。

「だと、私も思ったの。だけど、裁判ではそれは認められなかったのよ」

「裁判?裁判をしたんですか」

「そう。医師の過失ってのかな、そういう責任を根拠に友乃の両親が病院を訴えたの」

「病院は悪くなかったてこと」

「結局、友乃が亡くなったのは病気のせいだってこと。だから医者や病院には責任はないってことらしいの」

「そうなんだ。さぞ残念だったでしょうね、友乃さんもご両親も……」

 沙和音は、自分のことの様に無念さを顔に滲ませて、言った。

「でも、友乃は精一杯生きてた。苦しいなんて弱音は一言も言わずにね。だから、最後は一番大切な人に、自分の夢を託したんじゃあないかな」

「その人が、室杜さんなんだ」

 眞理恵の問いに、麻美は小さくコックリと首を縦に振って肯定していた。

「ほんの一瞬だけど、友乃は室杜くんと結婚して幸せを掴んだ。それが生きる勇気を与えていたから、彼女は輝きの欠片を残して逝ってしまったの」

 友乃が、司法書士試験を受けることもなく、亡くなる間際にその夢を室杜に託していたのかは、その室杜本人と友乃しか知らない秘密だと、麻美は思っている。

「そのために、今は室杜さんがその友乃さんの分まで、頑張ってるんだ」

「もう直ぐなんでしょう、室杜さんが受ける試験って」

「来月だって。でも彼なら大丈夫よ。あれでも、こっちの方は良いからね」 

 麻美は、自分の頭を人差し指でコンコンと突いて、苦笑を含む笑みを作った。

「何だか、凄い話を聞いちゃったな。でも、本当にいるんだね、心から優しい人って。偏見で、男性を見たらいけってことなのかな」

 眞理恵が、驚嘆と興奮気味の混じった声で言った。

「それだけ純粋なのよ、室杜くんがね。初めて見た時の彼の眼差しが、どこか穢れなき少年ぽいっていうより、丸で子供のように感じたのも、そのせいかもね」

 友乃を回顧する麻美は、その一方で室杜の人間性を強く評価する思いやりを、自然体で口に出して現わしていた。

「でも、友乃さんが亡くなって、悔しかったんじゃあないの、室杜さんの方は」

「そうね。友乃が亡くなってから小田原の実家でしばらく暮らしてたのかな、彼は。たまにキャンパスで見かけても、何か気が抜けたような、無理な笑を作ったりさ」

「そんな辛い事があったんですね、室杜さんには」

 室杜の持つヒューマニズム性に、共感するように沙和音は言った。

「あんまり、言葉に出すタイプじゃあないのよ。でも、最近の室杜くんを見てると友乃の病室で初めて見た、あの時と同じ表情の眼をすることがあるな」

 麻美は、チラッとした一瞥を、沙和音に向けて言った。

「例えば、どんな時?」

 眞理恵が、突っ込み役のように室杜のどんな時の例えを、麻美に訊いた。

「そうね、例えば誰かの為になっている時かな。本当は俺もあなたと一緒に闘っている、だから頑張れってことを伝えたいんじゃあないのかな」

「誰かって?」

 眞理恵は、瞬時に思い立った疑問を、ついつい麻美に突っ込んでしまうのだった。

「さあ、それはね。でも、案外近くにいたりしてね」

 麻美は、答えを知りながら知らない素振りをする、含みのある笑いを沙和音に向けていた。麻美の視線を受けた沙和音は、咄嗟的に現れた動揺を隠すように腕時計を一瞥した。

 何故、麻美の言葉に動揺したのか、それは今の沙和音自身にも解らない。でも、確かに多くのことを室杜から学んだ。室杜のアドバイスが無ければ、良真との裁判を途中で投げ出していたかも知れないからだ。

 手を付けたものの、途中で放り出して諦めてしまう、クロスワードパズルや編み物のように。


『写真は提出順に番号を割り振りして、撮影した年月日とその場所。誰がその写真を撮影したか。例えば、新堂さんが撮影したなら、原告側撮影っていう風に、写真の下側の余白部分に書くことで、その写真で自分が何を裁判所に立証しようとしているかの説明を加えるんだ。

 そして、その写真を裁判官が見ても、新堂さんが何をその写真で立証しようとしているのかの意図が、理解し易くなるってこと。

 まあ、コンビニでも写真のカラーコピーが取れるから、そんなに難しいことじゃあないさ。裁判所用の正本と相手方用の副本があれば良いだけだし。だから、頑張って』

 そう言いながら、室杜は何かの本からコピーしたと思える「証拠写真の提出のしかたとその方法」と言うA4サイズの用紙を、沙和音に渡してくれた。

 その本は「弁護士のための法律書式実務集」で、室杜が、弁護士冬樹ほのかに借りた書籍だった。ちょうど、外回りの仕事で関内付近に来たので、その際に義姉のほのかの法律事務所に寄って、その書籍を拝借させてもらったのだった。

 確かに室杜さんは頑張ってと、何時もさりげなく言ってくれる。そう、沙和音の心の中に刻まれている。そんな逡巡が、沙和音の脳裏に駆け巡って行った。


「沙和音も、室杜くんから色々と助けてもらってる、1人よね」

 沙和音に対して、巧みな話術で暗示を掛けるように、謎めいた笑みで麻美は言った。

「……ええ、まあ、確かに室杜さんには本当に感謝してるし、本当、色々とお世話になってるって、思ってるし……」

 室杜の話が話題に上ると、自己の意思に反するような拒絶反応がどうしても身体に現れる、沙和音だった。

「だから、結果オーライで良かったじゃない。悩んでた裁判が、無事終わってさ」

「でっ……ですね、何かお返しした方がいいのかな……」

 沙和音は、素朴な疑問を口にしていた。

「要らないんじゃあない、そんなの別に。でもさ、室杜くんが司法書士の試験に受かったら、皆でお祝いしてあげようよ」

「そっ、……そうですよね……」

 沙和音の本意が、心のどこかに隠れて表に現れないまま、はっきりと肯定も否定もできない心の中のジレンマが、麻美の案を躊躇わせていたのだった。

「沙和音だって、裁判の判決ってのがもう直ぐあるんだろうしさ」

「それ賛成!出来たらその時はゆっくり座って、食べたり飲んだりできるお洒落な店がいいな。私は」

 眞理恵は、小さな挙手をして麻美の意見に賛同した。

「あなたの為じゃあないから、そこは」

「そっか、そうだよね。でも、何時頃なの、その合格発表って」

 眞理恵は、丸でピンポン玉を打ち返すように、矢継ぎ早に疑問を麻美に訊ねた。

「少しだけ、室杜さんからそのお話を聞いたんですけど、7月に筆記試験があって、その試験に合格したら、口述って試験があるって言ってました」

「私もあまり知らないけど、その時の友乃に訊いて調べてみたら、最終的な合格発表は、毎年12月頃になるみたいだし」

「へっ?まだ、随分と先の話なんだね」

「何を期待してるのよ、眞理恵さんって何時もさ」

「何って、ただ、愉しい事のお零れに授かりたいんだけど」

「あんまり、飲んだり食べたりって欲を持つと、来週の健康診断に影響しちゃうでしょうよ。考えなさいよ、ちょっとはさ」

「だって、室杜さんのお祝いは12月頃のお話でしょう?」

 何かにつけ、変な疑問を麻美に返す、眞理恵だった。

「普段から、健康に気を付けなさいってことを言ってるのよ」

 呆れた表情で、やや強い口調を眞理恵に投げる麻美は、負けず嫌いの性格が現れる。

「そっか、麻美ちゃんは身近に病気で闘ってた人を知ってるだけに、そこんとこ説得力あるし」

「だから、私たちも健康には気を付けないとねって言ってるの、沙和音もね」

「それが今日の、麻美ちゃんのテーマだったんだ」

「そうじゃあないけど、話しておきたかったのよ。何て言うか、今の室杜くんを見てるとね」

「あっ!、あの時の蕎麦店でその内にって言ったのは、そういうことだったんですか」

 咄嗟に、沙和音は言葉を発していた。

「何、その蕎麦店って?」

「あなたが飲み過ぎて、会社を休んだ日よ。これからお友達と飲みに行くのとかいっちゃって、ちゃっかりと次の日休むんだから、マジに気を付けなさいよこれからは」

 こうなってくると、どっちが会社の先輩格なのか、立場が逆転していると思える麻美の叱責と眞理恵の文取りゲームに、沙和音は苦笑の笑みを堪えた。

「あの時は、ちょっと盛り上がり過ぎちゃって、久しぶりに会ったお友達だったし」

「まあとにかく、お互い十分に気を付けないとさ、健康管理にはね」

「あの、何て言えば良いか上手く言葉にできないけど、私たちが若くして病気で天国に逝ってしまった人たちの分まで、生きてあげる使命が与えられてる様な、そんな気がします」

 沙和音なりに、生きると言う使命感を軽々してはいけないと言う、感懐とも言えた。

「そう、友乃も天国で、もっともとっと頑張って生きてって、きっと言ってると思うな。今を生きている、全ての人たちに向かってね」

「悲しいけど、何だか良い話よね」

「じゃあ、そろそろ帰ろうっか。寝不足になると美容にも良くないしね」

 沙和音も真理恵も、麻美の言うことに頷くしかなかった。身近な人を亡くしたとき、誰しもその悲しみに打ち負かされる。だけど、そこで立ち止まるより前を向いて歩いて行かないと、亡くなった者は決して浮かばれない。

 その人の分までゆっくりとゆっくりとでも良いから、生きていくことが弔いになる。その人の意思を継ぐのは、身近な人しかいないのだから。今の、室杜がそうしている様に。

 頑張れって言う言葉は、今を生きてることを大切にすることだ。困難に打ち勝って幸せに変わる時、頑張って良かったと人々は素直に喜べる。

 困難と闘うのは途轍もなく苦しいだろう。でも、幸せは小さい大きいにかかわらず、幸せと言うことを感じていることを、見逃していてはいけない。

 だって、人はそのために生きてるのだから。友乃という人の生き方に、そんなことを学ばされたと思う。今日の麻美の話に、沙和音はとても共感できたし、何よりも、友乃を支え続けた優しさを兼ね備えた室杜の人物像を、改めて知った気がする。

 これからもっともっと、頑張ろう。室杜から頑張ってと言われ、裁判が頑張れたのは、数ある困難の1つの通過点でしかないと、沙和音は改めて思い直した。

 これから、さらなる大きな幸せを肌で感じ取れる日が必ず来る。

 その幸せを誰かと分かち合える、そんなそわそわ感みたいなものが、沙和音の胸を高鳴らせていた。


 でも、案外近くにたりしてね――――――。

 

帰宅に向かう電車で揺られていたら、何気ない麻美の1つの言葉が沙和音の脳裏に突然に過った。

 えっ。近くって、誰のこと?又1つの悩みが、沙和音の脳に刻み込まれていた。

          

                   *


 この頃疲れを感じる。会社の付き合いで酒を飲んだ翌日は、身体が鉛のように重く感じることもある。試験日も迫っているので、ちょっと無理をし過ぎて体に負荷が圧し掛かっているのだろうと、室杜はちょっと苦笑気味の混じった顔をして考えていた。

 7月の司法書士試験が終わったら、少し身体のダメージを癒すために、休養するのも悪くないかなと思っている。

 しかし、麻美も余計なことを言ってくれたもんだと、室杜は頭を掻いていた。

 でも、麻美にとっては、その事実は余計な事ではないのかも知れない。幼い頃からの友を失った、受け入れ難い事実としてもだ。 

 室杜は、もう直ぐ実施される司法書士の筆記試験へ備えて、机に向かっていた。会社からの帰宅後には、日課の予習復習を欠かさない。といっても、仕事上の付き合いで、酒を飲むことも少なくない。

 そういう酒を飲む日も、心身をリラックスさせ日頃のストレスを発散させる目的の1つだと、その必要性をポジテブに捉えている。頑張り過ぎることは、返ってオバーワークに繋がる危険性がある。その結果、公式の試合では本来の力が発揮できないリスクが身体に生じるのだ。

 司法書士の筆記試験の科目は、民法・刑法・商法(会社法その他の商法分野を含む)・不動産登記法・供託法・司法書士法・民事訴訟法・民事執行法・民事保全法などの分野に分けられる。

 筆記試験は、口述試験へ進むためのいわば振るい落としだ。

 司法書士試験用対策の過去問集とノートを閉じて、冷蔵庫から缶ビールを取り出して、室杜はソファーへ座った。

 時刻は、深夜一時前を指している。缶ビールを一口二口と飲み干して、タバコに火を点けた。スマホのスケジュール表を開いて見ると、午前中に健康診断の予定が入っていた。そっか、明日、正確には今日は会社の健康診断かと、呟いて癖の頭を掻いた。

 少し、瞑想に浸るように思案してから、室杜は台所に行きシンクに飲みかけのビールを流し捨てた。どこか、身体的に疲れているのだろう。何時もの様なアルコールの刺激に、美味さが感じられなかった。

 何だか思考も重く感じられ、吸いかけのタバコの先から揺れる煙を、ぼんやりと眺めた。

 この際だから、そう呟いて室杜は、吸いかけのタバコの火を洗い残したままのグラスの水の中で消した。そして、テーブルの上のタバコの箱を取り、それを握りつぶしてゴミ箱に捨てた。この重い思考は、眠さのせいだろう。

 司法書士試験に合格するまで、禁酒禁煙で健康と試験合格に願を掛けるのも、悪くはない。これから暫くは、酒の付き合いもウーロン茶だな。

 そう思うと、自然に苦笑してしまう。室杜はベッドに横たわって、疲れを癒すことに努めた。静まり返った部屋の中で、1つの言葉が、何度も蘇って来る。

 頑張って―――。

 頑張って―――。

 頑張って―――。

 友乃が、口癖のように言っていた言葉だ。一瞬、その言葉が沙和音の声に変換されたような旋律で、室杜の耳元で響いた。

 待てよ?何か変だ。争っていた裁判を、何故その途中でいとも簡単に相手は、白旗を上げたのか。裁判の途中で、被告が原告の請求を受け入れることも有りうる。だけど、それは勝てない裁判だと、相手の証拠を見て完全に諦めた時だ。

 それに裁判だって、完全なる紛争解決の機能は果たし切ってない。そこに、法律の落とし穴があるのを、司法書士なら当然に知っている。裁判所は判決を下して、紛争を解決するだけだ。

 もしかしたら、判決のその後の方が問題だよ。まだまだ、本当の意味で頑張るのはこれからかも知れないな、新堂さん。だから、その時はもっと頑張んないと……。

 そんな独り言を呟ていると、室杜はいつの間にか深い眠りに陥っていたのだった。


                 *

  

 裁判所に出廷して、判決を直接聞くこともできる。しかし、民事訴訟の判決言渡しは、判決の主文を裁判官が読み上げるだけで終わってしまう。

 その間、僅か2分前後だ。判決書は、その後に書記官が特別送達という郵便で、訴訟当事者宛に送達することになっている。そのため、民事訴訟では判決言渡しに際しては、訴訟当事者が在廷していなくとも判決が言渡せるシステムで、実際に判決言渡し日には、訴訟当事者が裁判所に出頭して来ることは少ない。

 訴訟当事者が出廷している場合には、その法廷内で判決謄本である判決書が、書記官から交付される。訴訟当事者である、原告や被告が多数人になる共同訴訟とか大規模訴訟とかでは、その訴訟の重大性から、判決言渡しにおいても原告側が弁護士と共に出頭して来ることもある。

 沙和音は、一刻も早く判決書を手にしたかったが、そうそう仕事を抜け出すわけにもいかず、有給休暇を使うことも躊躇われた。

 その日は、定時で仕事を終えて一目散に帰宅した。ポストに入っていた郵便局からの不在票を確認して、自転車に乗って急いで郵便局本局に駆け付けて裁判所からの特別送達を受け取った。

 部屋へ戻って来て、ゆっくりと封を切って、判決書を抜き取って開いた。


 主文―――

1被告は原告に対して、金8万円を支払え。

 及びこれに対する平成〇年11月〇日から支払い済みまで、年5分の割合による延滞損害金を支払え。

2訴訟費用は、これを10分しその3を被告の負担としその他を原告の負担とする。

3本判決は、第1項に限り、仮に執行することができる。

第1 事案の概要

1本件事案は、原告がかねてから交際していた被告から、一方的に交際を破棄されたとして、男女恋愛法(以下「法」という。)に基づく恋人契約による不履行によって、精神的苦痛を被ったとして、金20万円の慰謝料の支払いを求めた。

2さらに、その交際中に、被告に金5万円を貸し付けたとして、その貸金の返還を求め、前記1との合計金額、金25万円の支払いを被告に求めた事案である。

第2 事実及び理由

   争いのない事実

1原告と被告とは、平成〇年3月神奈川県立□□高校を卒業した、同級生である。

2同高校卒業後の平成〇年4月〇日頃に、神奈川県海老名市内の飲食店「Lyrical」で行われた同窓会の催しに、原告と被告は参加した。

   前提事実

1被告は、平成〇年5月〇日の口頭弁論期日において、原告の請求を認諾する旨の

 陳述をした。

2被告は、原告が請求する損害賠償金については、原告との交際期間がいたって短期間であり、その不履行が直ちに金銭賠償へと繋がることは、本来あるべき男女交際の自由を著しく制限する危険があるとして、本請求については争う余地を残すこととした。

   当裁判所の判断

1原告と被告との間に、恋人契約が成立していたことが、各証拠によって認められる。

2被告は原告から平成〇年5月1日に、被告の指定する銀行口座に原告が金5万円を振り込む方法で、原告が主張する貸金を被告が貸借したことが認められる。

3この点については、「前提事実」記載の1項ないし2項に記載のとおり、弁論の全趣旨も含め検討すると、原告の主張事実が認められる。かつ、前記「前提事実」1項の被告が同口頭弁論期日において原告の請求を認諾する旨の陳述をしたことで、これは当裁判所にも顕著な事実である。

 ―――――――従って、本件の恋人契約における被告の一方的不履行により原告は精神的苦痛を被っていた様子が窺えるから、本件恋人契約における被告の不誠実なあり方は信義則に反するというべきであり―――――――当裁判所でこれらの事実を総合的に検討すると―――――――という結論に帰結することになると、当裁判所では、判断することができる。―――――


「―――そうすると、原告は金20万円が相当と主張するけれど、前記で検討したとおり、1年6ヵ月後に被告から恋人契約が一方的に破棄されたとしても、婚姻を前提とした恋人契約(婚約の成立)と比較すると、その精神的苦痛は幾分は減じられるから、前記の(ア)の金20万円の内の金3万円の支払いを認容するのが限度で、そこに(イ)の貸金である、金5万円の合計金額8万円の請求は、原告に理由があるからこれを認容し、その他は棄却することとし、主文のとおり判決する」  

 以上―――。   横浜簡易裁判所裁判官 〇〇幸一郎

 沙和音は黙読から、いつの間にか判決文を何かの名作を朗読をするように、小さな声を出して読み終えた。

 これで長かった闘いが、ようやくと終焉する。恋人契約による不履行で沙和音が、良真から被った精神的苦痛を、金額的に評価したら3万円というのが、裁判官の判断だ。

 この金額が妥当なのかどうかは、沙和音には解らない。事の発端の全ては、お金の話の問題ではないからだ。沙和音が問題にしたのは、理不尽にも人の心までを踏みにじる、良真の一方的言動に対してだ。

 沙和音は、テーブルの上に置いて眺めていた判決書から、壁の時計に一瞥を向けた。

八時十分前を指している。直ぐにでも、室杜にこの判決の内容を知らせたい。でも、室杜の連絡先として知っているのは、室杜が会社から貸与されている携帯電話のみだ。

 沙和音は、通勤に使用しているバックから、カードケースを取り出して室杜の名刺を探した。室杜の名刺には、会社の電話番号と携帯の電話番号、そしてPCと携帯メールアドレスの記載がある。電話してみようか。

 沙和音は自分のスマートホンを握り締めて思案した。でももう、会社から退社しているかも知れない時間だ。でも、明日、会社内で室杜と顔を合わせるとも限らない。

 営業部の社員は社外での仕事も多く、常に社内で勤務してる訳でもない。その日の日程は、勤務スケジュールに組み込まれていることが多いからだ。

 少しの躊躇いを呑み込むように、沙和音はスマホの新規メール作成から文章を書き込もうとしたその時、電話の着信音が鳴った。発信履歴は、麻美だった。

「あっ、はい、麻美さん。どうしたんですか?」

《あっ、沙和音、どうしたんですかじゃなくって、そっちこそどうだったの、裁判の判決とかやらはさ》

「えっと、はい。相手に8万円の支払いが認められてます」

《8万円?何だか随分中途半端ね、それって。まあ、私にはそこんとこの法律みたいなのは、よく分んないだけどさ。で、そのこと室杜くんには報告したの》

「いえ、まだです。だって、室杜さんの連絡先知らないし、それに今日でなくっても……」

《会社用の携帯番号は知ってるでしょう。営業の人たちは、緊急に連絡を取り合うこともあるから、帰りも会社から貸与されてる携帯は持って帰ってるのよ》

「そうなんですね。でも、今からしても忙しくしてると、室杜さんに迷惑だし」

《彼、ちょっと前に帰ったから、電話かメールでも入れてあげたら》

 沙和音の煮え切らない態度を、急き立てるように麻美は応答している。

「だけど、こんなプライベートな時間帯にまで連絡入れて大丈夫かなって……」

 たった今、室杜にメールを送信しようとしていた、自分に沙和音は混迷を自認している。

《何を変な縁了をしてるのよ。彼ね、沙和音のこと随分と心配してたし。あっ、心配してたってのは、ほら裁判の方をね、あれでも責任感が強い方だし、だから連絡してあげたら》

「そっ……、そうですね、じゃあ、メールしてみます」

《うん。寄り道せずに、真っ直ぐ帰るっていってたから、何だかタバコも止めたらしくって、お酒も司法書士試験の最終合格が決まるまでは、止めたとか言ってたし》

「どうしてですか?タバコとかお酒を止めるって」

《さあ、それはね。何だか、合格まで禁酒禁煙で願を掛けるんだとか何とか言ってたけど、まあ、あの真面目な性格の室杜くらしいけどね》

「そうですか。ところで、麻美さんは今どこに居るんですか?」

 麻美は、街の中にいるようなノイズ音が、沙和音の耳にも聞き取れた。

《今はちょうど、スポンサーとの別宅よ》

「スポンサー?」

《そう、金持ちのパパさんよ》

 艶っぽい色声を出して、麻美が言って来た。

「えーっー!それって、本当ですか?」

《うふっふ、冗談よ。駅前にあるスポーツジムに向かうところよ》

 自宅近くの駅近くに、新規オープンした、24時間営業のスポーツジムに入会したと、先日、麻美が会社で話していたのを沙和音は思い出した。

「もう、突然にビックリすること言わないで下さいよ」

《やっぱり、会社での溜まったストレス発散のためには思いっ切り身体を動かさないとね、その方がお酒も美味しいしね》

「やっぱり最後は、そっちですか?」

 沙和音は、クスッと吹き出す口許を慌てて左手で塞いだ。

《まあ、私と無駄話をしててもしょうがないから、室杜くんに知らせてあげなさい。その判決のこと。分かってる、沙和音》

 麻美の、念を押すような強めの口調が、沙和音の耳元に響き渡って来る。

「うん。今からしてみます」

 麻美の方から、じゃあといって電話を切った。沙和音は急いで、簡単な判決内容をメールの文章として書き込んだ。

 メールより、直接電話でお礼をした言った方が良いのかとの躊躇も生じたが、沙和音は、人差し指でゆっくりと送信をタッチした。

 それから再び、判決書を読み返した。何度も何度も、判決文に目を通していると、どうしても、沙和音には1つの疑問が払拭できない。あの時、何故、良真はあんなことを言ったのか。

 

 まあ、これからが問題だからさ―――


 何時までも、変に気にし過ぎるだけなのか。「本請求については争う余地を残すこととした」との記載個所に、沙和音は眼を止めていた。

 判決に不服があれば地方裁判所に、控訴ができる。そういうことなのか。その為に、争う余地を残したと言うことだろうか。その時は、私はどうしたら良いのだろうか。

 喜びから、何とも言えない不安に変わって、今度は沙和音の小さな胸に席巻いて来る。

 何か食べて、空腹感を満たそう。そう思い立ち上がると同時に、スマホからメールの着信音が鳴った。沙和音は急いで、テーブルに置いたスマホを取り上げた。

 ステータスバーの表示を見ると、室杜からの返信だったので、直ちにメールを開いた。

〈メール拝見しました。良い判決だと思います。今後の手続きについて、詳しいことは会社で合ったときに話すけど、急いで執行付与文を書記官に申請するようにしてください。判決が確定するまで、気を抜かないで頑張って。〉

 判決が確定するまで、気を抜かないで。どう言うことだろうかと、沙和音は首を捻って思案した。やはり、判決が確定しないと、良真の方から控訴されるってことだろうか。

〈わかりました。こんな時間に、わざわざありがとうございます。〉

 沙和音は、さらに返信の文章を書いてメールの送信をタッチしようとした指を、無意識に止めていた。つかの間の迷いを振り払うように、自分の電話番号を書き加えてから、メールを室杜に返信した。

 大事なことは、やはり電話で直接話さないと。もし、室杜に電話をするとしても、非通知で電話する何て失礼なことはできないし、気遣って電話をくれた麻美も、室杜にそんな電話のしかたは、感心しないだろう。

 執行付与文とは、判決主文に仮執行宣言が付されることによって、判決確定前に仮に、強制執行して請求した金銭債権の地位を、仮に保全しておくことだ。

 これを債務名義といい、仮執行宣言付判決や確定判決、和解調書などが執行付与文を裁判所に申請することができる。これにより、強制執行が許されるというシステムだ。

 もちろん、裁判で敗訴した債務者が判決により支払いを命じられた金銭についての支払いを直ちに履行すれば、強制執行をする必要はない。

 室杜の言う、急いで執行付与文を申請するとは何故だろうかとの疑点は、簡潔に書かれているメールの内容だけでは、沙和音には室杜の意向が把握しきれなかったからだ。

 また1つ、学校の先生から難解な宿題を増やされたような、落胆した吐息を沙和音は吐いて、パソコンで強制執行についの検索を始めた。


                *


沙和音と室杜は、休憩室でオフィス街で移動販売をしている弁当を購入し、ランチを共にしていた。麻美や眞理恵は、難しい話は聞きたくないと、外の店へ行っている。

 もう、室杜にしか判決後に関することはアドバイスできないし、法律的なことに余計な口を挟んでも、何も沙和音には協力の術がない言うのが、麻美と眞理恵の今の立場だった。

 室杜は、執行付与文の申請手続きのことや、強制執行について沙和音に説明していた。訴状を作成するに辺り、沙和音が図書館で借りたりした書籍にも、強制執行については記載されているが、やはり初めて直面する問題については、頭を捻っても理解力に乏しくなってしまうのだった。

 執行文付与の申請は判決原本を含めて、その訴訟記録の保管されている裁判所記官に対して行う。この申請をするには、「執行文付与の申立書」によることになっている。

 そして、債権者が債務者に対して得ている判決書等に基づき、強制執行ができる旨の執行付与文が判決正本の末尾に付記されることになる。

「大体が、こんなところだけど不明な点は、書記官に問い合わせると教えてくれると思うよ。それと……」

 室杜は、上着の内ポケットからメモ帳を取り出した。ボールペンで走り書きをするように自分の携帯番号を記入して、ビリっ破いた紙片を沙和音の前に置いた。

「これは……」

「ああ、僕の携帯番号。会社用の携帯は個人使用できない決まりだから」

「そうだったんですね。何も知らなくってメールしたもんですから」

「いや、清海さんに新堂さんから連絡来たかって昨夜、しつこく訊かれちゃってね」

 照れを隠す際に、髪を搔く仕草がすっかりと室杜の、癖になっている。

「麻美さんなんです。室杜さんに連絡入れるように進めてくれたのは」

「それ、その張本人から聞いてるから」

 室杜は、苦笑しながらペットボトルの水を飲みほして、ナプキンで口許を拭ってから言った。

「色々、ご迷惑をかけてすみません」

 沙和音は、室杜が差し出したメモ紙片を丁寧に折りたたんで、財布の中に仕舞った。

「それと、清海さんが余計なこと言ったみたいだね。友乃と従妹同士だってこととか」

「えっ!いえ、そんな話は聞いてないです。友乃さんって人のことは少し聞きましたが」

「そっか。まあ、あの性格だからこっちの話を聞かずに、一方通行で何時も話するもんだから、こっちも参るんだ」

 先走った失言に、照れを隠すように頭を搔いて、どこか罰の悪そうな顔を室杜は浮かべた。

「あっ、あの……」

 沙和音は、室杜に何かを伝えなければいけない。心のどこかに、そんな心境が渦巻いていた。室杜の眼差しから俯き加減で、沙和音は話そうとした言葉を続けた。

「し、司法書士の試験、頑張ってください」

 自分の本心として、伝えたい言葉は違う言葉を、沙和音は漸くと口にしていた。何を室杜に伝えなければならないのか、今の沙和音の胸にも、モヤモヤ感で包まれていた。

 うん。室杜も、何故かそう答えるだけで何処か、はにかむ様な沙和音から顔を逸らさずにはいられなかった。食べ残した自分の弁当を見て、近頃は食欲が落ちていることを特に気にする拘りもなく、それより大切なものに向かって室杜は、無意識に口にしていた。

「本当、どこか似てるな、沙和音さんって」

 意表を突かれるような室杜の言葉に、えっ?と、素っ頓狂な声を沙和音は発していた。

「に、にっ、似てるって何がですか?」

 室杜から、急に下の名前で呼ばれたことに、沙和音は胸をくすぐられた思いだった。

「あっ、いや、清海さんのあのしつこい声が耳から離れなくって、新堂さんから連絡が来たかって言うのがさ」

 即座に思いついた麻美からの電話に話題を転嫁させて、室杜はその場をしのいだ。義姉の弁護士冬木ほのかが言っていたことに、室杜もどこかに引っかかりを覚えていたのだった。生きるという希望を頑張りに変えて、諦めを捨てなかった友乃の様に。

「仕事帰りに、スポーツジムに通い詰めてるようです。最近の麻美さんは」

「何だか、先日の健康診断で普段より体重がどうとかこうとかって、気にして様だけど」

「この頃は、随分と健康管理に気を遣ってるようです」

「そう。僕らもお互い身体には気を付けて、午後も仕事に頑張ろう」

 室杜は、腕時計を一瞥してから沙和音に言った。午後からの仕事が間もなく始まる。沙和音は、おや?っと思ったが、室杜が弁当を食べ残しているのも、司法書士試験に向かっての体調管理のため、しつこい油料理は控えているのかと、何気なく思った。

 この後に室杜が、健康診断の結果表を受け取りに総務に行くと、「要検査」となっていることに、この時は沙和音は思いも依らなかったからだ。


 室杜さん、健診センターからの電話で、先日の健康診断の件で至急再検査して欲しいって言ってますが、何時なら病院に行けそうですか。

 総務の社員からそう言われて、室杜が病院を受診したのは7月に入っていた。もう直ぐ、司法書士試験が控えている身なのに再検査とは、縁起でもないと室杜は思いながらも、再検査による採血検査を受けざるを得なかった。

 健康診断の実施は、労働安全衛生法66条1項により、使用者である会社に対して1年に1回の履行を義務としている。具体的な健康診断の検査内容については、労働安全法規則44条に規定される。これは、一般健康診断を意味している。

 つまり、使用者である会社は労働者の健康状態把握のための、安全配慮義務を負うとされているのだ。

 沙和音は、そんな室杜のことは何も知らずに、裁判所に執行付与文の申請に来ていた。

 ――――――沙和音さんって。室杜の言ったこの言葉が、私は誰に似ていると言いたかったのか、室杜にその意味を訊いてみたい。

 あの時に、私が本当に室杜に訊きたかったのは、友乃という女性に対しての、今の気持ちだった。大切な人を亡くしている室杜と比較したら、私が被った損失なんて大したことではない。

 だから、もう一度人を信じて見ようと言う異性に対する心の変化が沙和音に現れていた。これは、私一人の力で成し遂げた裁判ではない。室杜という存在に、とても助けられた。その存在に、今の沙和音は、大きく気持ちが揺れ動いていた。

 何より、こうやって室杜のアドバイスで、執行付与文も手にした。

 未だ、良真の方からは、金銭の支払いについて何らの連絡もない。控訴状も提出されていないことを、裁判所書記官から聞いて来た。こうなったら後は、強制執行するだけだ。それで、過去の恋愛事件には、全ての終止符が打てる。

 そしてそして、新たな私を受け入れてもらいたい。

 沙和音はそんな気持ちを抱いて、暑い夏空を見上げていた。眩しい太陽が、沙和音の眼を細めさせている。

 その眼は、決して澱んだり悲しんだりしていない。最愛なる人に届けるために、精彩を放つように輝かせている眼差しだ。

 それは他ならぬ、室杜恭祐にだけ向けられているのだった。


           *

 

 そういう事か。法律の裏でこんな逃げ方があるという事に、現在の法律制度の在り方についての不備や、やるせなさを沙和音は覚えていた。

 強制執行は二通りある。最も多く行われるのが、金銭執行と言う債務者の財産に対してだ。債務者の財産である、不動産(土地・建物・貴金属類)や預金、給与などでの差押えである。非金銭執行は、土地や建物の明渡や登記請求権の実現などである。

 良真は、賃貸住宅に入居しているので、本人名義の土地や建物なんて有していない。そうすると、必然的に差し押さえられるのは、金銭のみとなる。

 債務者の金銭を差し押さえる一番の方法は、銀行口座や会社の給与の差押えである。しかし、これらを強制執行するには、債務者が口座開設している銀行の特定や、勤務先などを債権者自らが調査して、特定しなければならない。

 銀行が特定できたとしても、口座には預金が全くなかったり口座自体が解約されていることもある。会社の給与についての差押えは会社が第三債務者となり、働いている者に対しての給与の支払いをストップさせて、そこから債権者が有する金銭債権を回収することになる。

 しかし、会社を辞められたりしていることもある。その場合は、新たな債務者の勤務先を特定しなければならない。さらに、転居されている場合もある。その場合も新たな転居先を特定しなければならない。

 これでは丸で、鼬ごっこだ。

 債務名義となり得る判決の効力は、10年間だ。この間に何度も何度も強制執行したとしても、債権が全額回収できる保証はどこにもない。つまり、裁判所が債務者に支払いを命じたり、強制執行をすることを国家機関として認めたとしても、債務者に逃げられてしまえば、それ以上のことは何もできないという事だ。

 勝訴判決を得ても、全て裁判所が債務者の財産や居所を探し出して、自動的に債権を回収するために、強制執行してくれる訳ではない。


――――――新堂さん、武原さん。この場を借りてお詫びします。何て言うのか……


 あれは、裁判所での良真の芝居だった。最後の最後までピエロとして操られ、1人も観衆のいない舞台で、下手なパントマイムを演じさせられていたのは、私の方だった。

 まんまと、一杯食わされた。いや、一手も二手も良真に先手を読まれて、優勢からの立場が逆転されての敗北だとも言える。

 そんな良真の狡さを見抜けなかった責任は、異性に対する沙和音の目が利かなかったことにも責任はあるし、これで悪い夢から覚まされた思いだ。

 そう、沙和音は回顧していた。

 北海道にいるらしい。理奈が良真の実家に電話して、漸く聞き出したのがこれだけの情報だった。どうやら、あの裁判の後には良真はもう厚木の会社も辞めていて、沙和音から居所を特定されないように、行方を暗ましていたと言うことだ。

 判決確定証明書と執行付与文があれば、役所に戸籍の附表を請求して、良真の現在の住所はを追って行くことは可能だ。

 でも、もうそんなのはどうでも良い話だし、そんな事には悔しくもないし悲しくもない。

 今は、そんな事よりもっと大切な人の元へ向かっているという感情が、沙和音を支配していた。


           *


「室杜くん、検査のため入院なんだって」

 沙和音のディスクの傍まで来て、麻美がそっと耳打ちしてくれた。

「入院?どうしてですか」

 沙和音に、突然に止め処もない不安が襲い掛かった。

「ちょっと、疲れが出たかのかなって言ってたけど。ご本人は」

 麻美は、あっさりとした口調で、そう言っただけだった。

「そっ、そうですか」

「ほら、営業の仕事と司法書士の勉強とでさ、でも試験の方には影響ないみたいよ」

「それなら、良かったです」

「お見舞いに行ってあげたら」

 そう言って病院名と電話番号を書いたメモを、麻美は沙和音のディスクの上に置いた。

「えっ?麻美さんも一緒にじゃあないんですか」

「ううん。私より沙和音が行ってあげた方が良いと思う。だから私は縁了しとく」

 それだけ沙和音に伝えると、麻美は他の書類を渡しに係長席の方へ行った。

 暫く思案した後、沙和音は隣のディスクの眞理恵に告げって、化粧室に向かった。

 化粧室付近に、見覚えのある女性がいた。

「せっ、先生!どうしてここに?」

 沙和音は、驚きの声を発していた。

「あら、お久し振りですね」 

 弁護士冬樹ほのかは、沙和音に向かってにこやかに言った。

「どうしたんですか。何か御用で来社されたんですか」

「ええ。私この会社の顧問をしてるんですよ」

「顧問?どういうことですか」

「ほのかさんは、うちの会社の顧問弁護士なのよ」

 沙和音が振り返った方向で、麻美がそう言っていた。

「相変わらず、お元気そうですね。麻美ちゃんの方も」

 冬樹ほのかは、友達とでも話しているかの様な、気さくな語り口になっている。

「おかげ様で。ほのかさんだったんですね、沙和音が相談した弁護士って」

 沙和音は、麻美と冬樹弁護士がどんな関係か、さっぱり理解できなかった。

「ほのかさんは、友乃のお姉さんなのよ」

 麻美がそう言うと絡まっていた紐が、沙和音の思考の中で一本に解けた。

 室杜と友乃は、結婚している。そうすると室杜からすれば、冬樹弁護士は義理の姉に当たる。麻美と友乃とは幼馴染という仲だと聞いている。

 麻美は、ほのかさんと友乃のお父さんは、司法書士。そのお母さんは行政書士で、夫婦で法務事務所を経営していると、沙和音に言った。

 ほのかは、父の勧めで弁護士になった。友乃は父母のように、困っている人を助けたいとの思いを胸に、市民密着型の法律家としての司法書士になることを夢みていた。

 友乃が夢半ばで亡くなり、その意思を室杜が適えたくて、司法書士を目させしている。そう言うことだったのか。

「新堂さんでしたね。恭祐さんは、何か大切なものを今守りたい。そんな気持ちになっているんだと思います。それは彼に取って、とても身近にいる存在の人だと思うの」

 冬樹弁護士の言うことに、沙和音の気持ちは揺れ動いた。いや、既に揺れ動いていたことに気付かなかっただけだ。

 あの日に、室杜と図書館で出会ってから今日まで、この気持ちに気付かずに、ひたすらと男性という存在を否定しようとしていただけだ。この事に気付く迄は、良真と言う三文芝居を演じるだけの役者を相手役に、茶番を演じさせられていただけの話なのだ。

 でも、今は違うと確信している。茶番を演じるのではなく、そのままの自分を自然に演じれば良いだけだ。

 待っているのは、室杜の方ではない。私の方だ。

「私、室杜さんのお見舞いに行って来ます」

 沙和音の身体から、異性に対する重苦しさや堅苦しさがすっと抜けて、満面の笑みを醸し出した。

「会社には私の方から、報告しとくから」

 麻美がいうと、沙和音は冬樹ほのかにお辞儀をしてから、踵を返した。

 弁護士冬樹ほのかは、今は亡き妹を懐かしむ様な瞳を沙和音に向けて、行ってらっしゃいと言った。

 沙和音の後ろ姿を見ていると、今は亡き友乃の姿と重なって忘れようとしても忘れられないあの時の裁判所の法廷が、幻のように須臾しゅゆの間、ほのかの眼には見えているよにも映っていた。



第14話(最終話)につづく。


最終話につきましても、現在加筆・訂正の作業に追われております。

最終話の予告コメントについては、読者諸氏の想像にもお任せしたいところがあり、今回は差し控えさせていただきます。

著者の、身勝手をお許しください。


なお、話別のサブタイトルにつきましては、アップする際に取り急ぎ思い付いたタイトルにしているため、最終話をアップ後に作品全体の加筆・訂正を含めて改題してまいりますので、ご了承ください。


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