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「だから、なんでうちの予算がこんなに減らされてるのか、説明して欲しいんだよね」
憤りを隠そうともしない男の声が、会議室の空気を張り詰めさせた。その場に居合わせた生徒たちは、ある者は苛立ち、ある者は無関係を装っていた。
「ねえ、生徒会さん、説明してくれよ」
男は、やや馴れ馴れしさを含んだ調子で、議長席に声をかけた。そこに座る生徒会執行部の役員たちは皆、手元の書類に見入っている。質問者の視線を避けるためだということは、誰の目にも明らかであった。
「仮屋会計」
中央で腕組みをしていた眼鏡の生徒が、胸を張って悠太の名前を呼んだ。
悠太は居住まいを正して、気丈に口を開いた。
「ボクシング部の後期予算が減額された理由は、前年度と比較して部の成績が著しく悪化したことにあります。その点につきましては、事前に理由書で説明した通りです」
悠太は、余計な修飾を省き、事務的な対応に努めた。しかし、相手はそれが気に喰わなかったのか、かえって態度を硬化させた。
「今回、うちが大した活躍ができなかったのは認めるよ。でもさ、それはレギュラーに怪我人が出たからだって、予算申請書で説明したよね?」
「それは生徒会でも把握しています。ですが、レギュラーの故障など、部内で生じた問題を予算案に加味することは認められていません。予算案は、あくまでも結果のみを勘案して作成されることになっています」
悠太の説明に、何人かの生徒たちが頷いた。それは、ボクシング部の予算が減らされたことで若干得をした部の代表者か、あるいはもうこんな茶番は終わらせてさっさと帰りたいと思っている生徒かの、いずれかであった。
「つまり、成果主義ってわけだ?」
ボクシング部の男は、威圧的な態度で言質を取りにきた。
「そう考えてくださって、結構です」
「じゃあさ……」
男は、目の前にある予算案のプリントを、ひらりと宙に浮かせた。
「この美術部が二万五千円も増額になってる件は、どう説明するわけ?」
他の代表者たちも、手元のプリントに目を通した。確認というよりは、ただの反射的な動作であった。
「美術部の増額は、津川瑠香さんが全国コンクールで入賞した結果を勘案したものです。これについては、地元の新聞に載っただけでなく、全校集会でも周知のことかと思います」
悠太の整然とした弁明に、ボクシング部の男は口を噤んだ。納得したわけではないと、悠太は読んでいた。その証拠に男の顔は、うまい反論はないかと、思案を巡らせているように見えた。
そこへ、別の声が割って入った。女子水泳部の部長である。
「でもさ、部員一人が全国区で二万五千円は、増額し過ぎなんじゃない?」
少女の疑問に、幾人かが首肯した。どうやらこの点については、ボクシング部でなくとも不満があるらしかった。全国レベルの活躍は、悠太の学校において、それほど珍しいことではないのだ。
そう悟った悠太は、これについても説明を加えた。
「美術部は現在、美術室の老朽化に伴って、画材などの買い替えを必要としています。増額については、これも加味されています」
そこまで言ったところで、ボクシング部の男が食いついてきた。
「おっと、さっきは結果しか考慮しないって言ったじゃないか? 矛盾じゃね?」
したり顔の男に、さすがの悠太も苛立ちを押さえ切れなくなっていた。声を荒げようとしたところで、ふと彼は左肩に視線を感じた。気になって振り向くと、会長の冷静な眼差しが眼鏡越しに、こちらを窺っていた。ここは抑えろ。そう語っているようだった。
悠太は深呼吸して、自分を落ち着かせた。
「失礼致しました。先ほどの説明は訂正させていただきます。生徒会の予算規約では、学校施設の建て替えなどで強制的に経費が発生した場合、臨時の措置を取れるようになっています。今回はそのケースに該当するため、この増額分となりました。ご理解いただけますでしょうか?」
チッと舌打ちをした男は、椅子にもたれかかって捨て台詞を吐く。
「その津川って子が彼女だから増やしたんじゃないの?」
その一言に、悠太は膝の上で拳を握りしめた。
それを見咎めた会長は、すぐさま口を挟んだ。
「議論が白熱しているところで申し訳ないが、今日はもう遅いし、続きは次回ということにしてもらえないだろうか?」
大多数が、賛成のオーラを放った。所属する部の権益を守ることに、誰もが疲れ切っていた。それは、ボクシング部の男とて例外ではないように思われた。彼はふてぶてしく、天井を見上げていた。
「……全会一致かな。本日は参加してくれてありがとう。プリントは部に持ち返り、顧問の先生などとよく話し合ってくれ。では、解散」
待ってましたと言わんばかりに、生徒たちは腰をあげた。扉を荒々しくスライドさせ、ばたばたと会議室の外へ消えて行った。三十秒と経たぬうちに、生徒会役員三名を残して、誰もいなくなってしまった。
「会長、仮屋くん、ご苦労さま。私は議事録をまとめるから、先に生徒会室へ戻りますね」
会長の左隣に座っていたタレ目の少女は、そう言い残して、部屋をあとにした。彼女の足音が聞こえなくなったところで、会長は溜め息を吐いた。心底疲れたといった表情で、こう漏らした。
「毎度のことだが、今期は特に参るな……気の強い連中が多過ぎる……」
会長は呆れたように、自分のこめかみを軽く叩いた。
「仮屋には、本当にすまないと思ってるよ。こんな大役を押し付けてしまって」
既に冷静さを取戻していた悠太は、大げさに首を振ってみせる。
「いえ、仕事ですから……ただ、会計はやはり三年生の方が……」
「仮屋、俺がおまえを財布持ちに選んだのは、今の役員の中で一番信頼できるからだ。この仕事は、学年が上とか下とか、そういうことは関係ない。私情を挟まずに予算を組んでくれる人間じゃなきゃ、務まらないんだよ。情けないことに、予算の横領や身内贔屓の増額をする奴が、たまにいるからなあ」
「……」
悠太は、何も言わなかった。会長から信頼されているのは、喜ばしい話であった。しかしながら、ほとんどの部が三年生を送り込んでくる都合上、会計もまた三年生の方がいいのではないかと、そんな疑問が頭から離れなかった。
「なあに、そんな暗い顔するなって。もう一学期も終わりだ。三年生の大半は、受験で忙しくなる。そうなればこっちのもんさ。しつこく言ってくる奴らも、みんな消えるだろう」
後輩を元気づけた会長は、悠太の肩をぽんと叩き、おもむろに席を立った。そして、悠太が管理しているプリントを、彼の手から引き抜いた。
「俺も生徒会室に戻るから、おまえは帰っていいよ。ここの鍵だけ、職員室に返しといてくれ」
「え、まだ今日の修正分が……」
「それは俺がやるから。じゃ、お疲れさん」
口ごもる悠太をよそに、会長は姿を消した。憔悴し切った少年がひとり、荒涼とした空間に、ぽつりと取り残された。言いようのない静けさが、彼の心に複雑な影を落とした。労務から解放された安堵とも、受験勉強で忙しい先輩たちに迷惑をかけた後悔とも異なる、真昼の月に似た感覚が、どこからともなく忍び寄ってきた。
悠太は椅子に座ったまま、閉じられた窓に流れる雲の動きを追っていた。六時過ぎだというのに、空は青く、太陽は地平線の彼方に浮かんでいた。帰宅の刻を忘れさせる幻想的な風景に、悠太は、見慣れた光箭を垣間みた。
「ユウタ、終わりましたか?」
ふいな呼びかけに、悠太は身を強ばらせた。視線を窓ガラスから外し、部屋の入り口を振り返ると、白い肌の少女がシュルレアールな美しさを漂わせて、廊下に佇んでいた。額縁と化したドア枠の向こう側に、一枚の肖像画を眺めている気がした。
「須賀……さん……」
悠太は腰を上げ、ふらふらと彼女に歩み寄った。
「マリアと呼んでください。アメリカではみんなfirst nameで呼びました」
「だけど、ここは日本だし、僕たち今日会ったばかりで……」
「マリアと呼んでください」
か細いながらも、有無を言わさぬ彼女に口調に、悠太は譲歩した。
「マリアさん、こんな時間まで、どうしたの?」
素朴な疑問だった。突拍子のない答えなど、期待していなかった。
「ユウタを待っていました」
「僕を……待ってた……?」
「はい。ユウタは、今日大事な会議があると聞きました。だから教室で、ずっと待っていました」
悠太は敷居を挟んで、マリアと向かい合った。そして、絵画と語らっているかのような錯覚に陥った。転校して来たばかりの彼女が、なぜ自分を放課後まで待たねばならないのか、少年には理解することができなかった。
「なんで、僕を待ってたの? 帰り道が分からないとか? だったら家に電話を……」
「ひとりで帰れます」
マリアは、ことも無げにそう答えた。この異様な対話も、マリアにとっては至極当然であるらしい。うっかり約束でもしてしまったのだろうかと、悠太は今日一日の出来事を、念入りに辿ってみた。
だが、何も思い当たらない。
「じゃあ、なんで?」
「この学校を案内してください」
悠太の息が止まる。
「案内って……今から……?」
マリアは、その華奢な首を縦に振った。
「もうこんな時間だし、明日の昼休みにでも……」
「今から案内してください。お願いです」
マリアは腰を折り曲げ、軽く頭を下げた。金色の髪が敷居を跨ぎ、まるでキャンバスから飛び出したような印象を植えつけた。
悠太は、少女の願いを聞き入れることにした。
「ここの鍵を返して、それから校内を一周しようか」
少女は上体を戻し、うっすらと微笑みを浮かべた。
「ありがとう、ユウタ」