28
悠太は翌日、平戸と対決したあの木陰のベンチに座り、頭を抱えていた。暑さにやられたのでも、どこかに頭をぶつけたのでもない。昨晩明らかになったふたつの事実が、少年の睡眠を奪い、思考を蝕んでいた。
ひとつは、失恋である。悠太のラブメールに、返信はなかった。寝ていて気付かないのかと思い、朝まで待ち、昼まで待ち、今や一日の中で、最も暑い時刻が訪れようとしている。通信障害か、バッテリー切れか、はたまた風呂場にでも落として、端末が壊れたのかもしれないと、あれこれ自己暗示をかけてみた悠太。しかし、この現実はもはや、否定しようがない。瑠香を信じた自分が馬鹿だったと、泣きそうになるのを堪えながら、こうして意味もなく学校へとやって来ていた。部屋に篭っていると、頭がおかしくなりそうだった。
とはいえ全ては、自己責任の一言で片付いてしまう。告白を引き延ばしたところで、事態が好転したとも思えない。それにもうひとつ、深刻さで言えば、より大きな問題が横たわっていた。昨晩、ペトロとマルコがログインしなかったのである。
そのことに衝撃を受けたのは、悠太だけではなかった。他の使徒たちも半ば恐慌状態に陥り、誰がまとめ役になるのかを決めるまで、およそ三十分を要した。出席者は、ユダ、ヤコブB、ルカ、そしてマタイの四人。最初はルカが推薦されたものの、彼あるいは彼女は、それを断った。次に指名されたのは悠太だったが、告白の成否が気になって仕方のない彼も辞退し、最終的にマタイが、司会代理という大役を引き受けることになった。
そして、そのマタイの初仕事が、これである。
マタイ 4人ではキセキを起こせないので
マタイ 今夜は解散しましょう
脱力してしまいそうなコメントだったが、悠太にはそれが、恐ろしい仮説に思われた。四人ではキセキを起こせない……ペトロとマルコが生きていれば、の話である。シモン、ヨハネ、バルトロマイの死亡が確定し、そこへ二名が加われば、生存者は七人しかいない。その過半数は四であった。確認した方がよいのではないかと、悠太は一瞬決議の提案をしかけたが、すぐに思い直した。疑われるだけだ。そう危惧したのである。
ログアウト後の悠太は、メールに対する渇望とペトロたちへの気遣い、そして熱帯夜の寝苦しい空気に押し潰されながら、悪夢のような一晩を過ごした。どちらの問題についても、考えたくなかった。その思いとは裏腹に、彼の思考は、両方の問題を行ったり来たりする。マリアに振られたのか、ペトロたちは生きているのか……早朝から顔面蒼白な息子を母親が心配したのは、言うまでもない。
……グラウンドの向こうから、金属バットの快音が聞こえてくる。悠太がそれに耳を澄ませていると、地面にひしめく木の葉の影に、ふと別の影が重なり合った。
「マリアさん……?」
なぜそれをマリアのものだと錯覚したのか、自分の中で大きくなり過ぎた彼女の存在に、少年は震えた。
「……副会長」
影の主は、生徒会の次席こと、三年生の佐古辺だった。
タレ目が特徴的なその少女は、にこやかな表情を浮かべて、悠太に話し掛けてくる。
「やっと見つけたわ。学校にいたのね」
やっと、という言い回しが、少年の気に掛かった。自分を捜していたのだろうか。何かを約束した記憶はない。まさか会議の日だったかと、ありもしない不安を抱く少年に、佐古辺は媚びた笑みを向けてくる。
「ちょっと校舎裏へ来てくれない? 用事があるの」
「校舎裏? ……文化祭の出し物でも整理するんですか?」
「そうなの。重くて私じゃ運べないから、手伝って欲しいの」
悠太は一瞬、断りかけた。とてもそんな気分ではない。しかし、かえって気晴らしになるのではないかと思い、ベンチから腰を上げる。
「仮屋くん、顔色が悪いわね? ……失恋でもした?」
佐古辺の無邪気な棘が、少年の心臓に突き刺さる。
「いえ……寝不足なだけです……」
「そう……じゃあ、手早く済ませちゃいましょう」
少女は、ふらつく悠太の歩調に合わせる気がないらしく、さっさと校舎裏へ急いだ。校舎裏というのは、学校の北側、三つの建物を抜けたところにある、工事現場のような一帯を指す。バブル期に講堂の建設計画が持ち上がったものの、更地にした段階で資金繰りが悪化してしまい、そのまま放置されているという、負の遺産であった。けれども日が経つにつれ、適当な資材置き場となり、今では文化祭や体育祭の裏方として役立っていた。
悠太が辿り着いたとき、辺りは影の世界だった。佐古辺は、どこへ行ったのだろうか。三方を見回すと、雑草の生い茂る物置小屋のそばに、手招きする彼女の姿が見えた。
いったい何がそんなに重いのだと訝りながら、悠太は小屋の裏側に回る。
「で、何を運べばいいんですか?」
「原田、連れてきたよ」
原田。クラスメイトにも同じ名前の生徒はいたが、小屋の中から出てきたのは、全く別の上級生だった。その顔に、悠太は見覚えがある。
……ボクシング部の男だ。
「よお、久しぶりだな」
原田と呼ばれた男は、邪な笑みを浮かべて、車前草の葉を踏みつけた。
いつの間にか視界から消えた佐古辺を求め、悠太は後ろを振り返る。彼女は、悠太の背後にその居場所を変えていた。
「あの……副会長……?」
「さあ、仮屋くん、原田の話を聞いてあげてね」
「……」
何かがおかしい。いや、何か、ではない。佐古辺は逃げ道を塞ぐように、少年の背中を監視している。そして、このふたりの間に漂う、妙な馴れ馴れしさ……。
悠太は、自分がハメられたことを悟った。
「誰か来るかもしんねえから、手短に済ますぜ。うちの部の予算を……」
「予算はもう決定しました。変更はできません」
気丈になった悠太を前にして、原田は眉間に皺を寄せる。だが、その表情はすぐに消え、小気味よい苦笑へと変わった。
「ハハハ……まあ、そう言うと思ったぜ。おまえも頑固な奴だな」
「頑固なのは、そちらでしょう。僕は帰らせてもら……」
強烈な打撃音。原田が手のひらで、物置小屋の壁を叩いたのだ。怒りに任せたというよりは、脅しのつもりだろう。彼の手にも小屋の壁にも、傷ひとつついてはいなかった。
悠太が萎縮したことを確認し、原田は先を続ける。
「そう焦るなって……別にタダとは言わねえ、交換といこう」
買収か。その手には乗らない。悠太は、そう決心する。
「ははん、金じゃ動かされねえって顔してるな……まあ、金じゃないんだけどな」
「……何がしたいんです?」
「おまえ、春園先生を殺しただろ?」
原田の言葉に、少年は動揺してしまった。心当たりがあったからではない。自分が裏切り者であると告発されたような、妙な胸騒ぎを覚えたのだ。
濡れ衣だ。そう叫びかけた悠太に、原田は先回りをする。
「それを黙っといてやるのが条件だ。安いもんだろ?」
コストの問題ではない。悠太は気力を振り絞り、反撃を試みる。
「何かと思えば……意味が分かりませんね……僕が春園先生を殺したとか……」
原田は、歯を剥き出しにして笑った。
「真相はどうでもいいんだ……俺たちが知ってるのは、おまえがあのとき、春園の近くにいたらしいってことだけなんだからな……」
「だったら、なおさら交換条件になってませんね」
原田は、聞き分けの悪い容疑者をあやすように、溜め息混じりで首を振ってみせた。何を言いたいのだろうか。証拠がなければ、司法取引に応じる必要もない。無実となれば、なおさらである。
そう考えていた悠太に、原田は手の内を明かし始める。
「要するに、おまえがうちの部に貢献できないなら、おまえが春園を殺したっていう噂をばらまく……そういうことだよ。分かるか?」
いい加減に分かれといった調子で、原田は最後の部分をきつく言い放った。
悠太は、相手の馬鹿馬鹿しさに呆れ返る。
「そんなガセネタ、誰が信じるって言うんです? あれは事故死だと……」
「そこで、私の登場ってわけ」
突然、佐古辺が口を挟んだ。
前触れもなくしゃしゃり出てきた彼女を、悠太は睨みつける。
「そう怖い顔しないでよ。私は曲がりなりにも、この学校の副会長でしょう? 多少は信頼があるのよ……まあ、仮屋くんほどじゃないけどね……その私が、仮屋くんと春園先生の言い争いを目撃してたら、どうなると思う? ……ねえ、私の話、聞いてる?」
「……警察が信じると思いますか?」
少女は目を見開き、爪先で地面を軽く小突いた。
「ほんとに堅物ね……いい? 警察に行く必要はないの。大切なのは、仮屋くんの評判に傷がつくってこと。まさか、うちの生徒はひとり残らず、あなたみたいな分析家だと思ってるんじゃないでしょうね? うふふ、ゴシップが大好きなのは、新聞部の記事を見ても分かるじゃない……」
佐古辺の脅しに、悠太は身震いした。確かに、信じる生徒が出るかもしれない。むしろ、その公算は高いように思われた。
しかしその恐怖も、悠太の気持ちを変えるには足らなかった。個人的な毀誉褒貶で義務を怠ってはならないと考え、少年は自分を勇気づける。
「話になりませんね……勝手に嘘でも吐いてればいい……」
フゥと、あからさまな溜め息を吐く佐古辺。悠太の肩越しに視線を伸ばし、原田に声をかけた。
「どうする?」
「一発ぶん殴っとくか……」
悠太は体をよじり、反射的に身構えた。少年の視界に、嘲るような原田の顔が飛び込む。動きが遅過ぎると言いたいようだ。そのことは、悠太も自覚していた。
「そうビビるなって。俺は優しいから、条件をひとつ増やしてやろう……おい」
後ろで、カチリという音がした。再び佐古辺を見やると、彼女は折りたたみ式の携帯を操作していた。助っ人を呼ぶつもりだろうか。
ところが少女は、電話もメールもせず、液晶画面を悠太へと向けた。
そこへ映し出された写真に、悠太は驚愕する。
「どこでそれを……」
「デートの最中は、周りに気をつけないとね。誰が見てるか分からないから……」
写っているのは、砂浜のベンチに腰を下ろす少年と少女の後ろ姿だった。かなりの遠距離で撮ったのか、やや手ぶれしているものの、被写体は悠太からも容易に認識できる。
……あの日の自分たちなのだ。
「返せ!」
少女に飛び掛かった悠太の襟首を、原田が素早く掴んだ。引き寄せられるシャツで首が締まり、悠太は軽い吐き気を覚える。
佐古辺は軽やかに携帯を持ち上げ、悠太の追撃を逃れた。
「返すもなにも、この携帯は私のものよ」
「ふざけるな! そのデータを消せ!」
「……ふざけてるのは仮屋くんでしょうに」
少女の言いがかりに、悠太は沸き上がる怒りを抑えられなかった。前に出ようともがく彼の肩に、原田の握力がかかる。あまりの痛みに、悠太は顔をしかめた。
「おいおい、人の彼女に手を出すのか? それはまずいんじゃねえの?」
「脅迫だって立派な犯罪だろう! ふざけるな!」
「だから、ふざけてるのは仮屋くんだって言ってるでしょ……部の予算配分なんかでマジになっちゃって……どれだけ人の時間を浪費すれば気が済むの? こんなの、口裏合わせてパパッとやっちゃえばいいのよ……部長たちに、私と会長がどれだけ頭を下げたか、知らないんでしょ? 受験もあるし……これだから融通のきかない人間は困るのよね……」
淡々と愚痴をこぼす佐古辺。その声に合わせて、蝉が鳴き始めた。一粒の汗が悠太のこめかみを伝い、原田の指先に滴る。
それをゴングにして、原田は攻勢に転じる。
「この写真が、二番目のプレゼントだ……おっと、まあ聞けって。おまえが春園を殺した理由を何にするかだが……こんなのはどうだ? おまえは、転校生の須賀に一目惚れして、彼女を強引に誘っているところを春園に見られた……そのことを注意されたおまえはカッとなり、駅で春園を突き落とした……いいシナリオだろ?」
「そんなこと信じる奴がいるわけないだろ! 春園先生は事故で死んだんだ!」
これは嘘だ。春園は殺されたのである。だが、決して自分がやったのではない。悠太は、そう叫びかけた。
信念を曲げようとしない後輩に、カップルは揃って溜め息を吐く。
「おいおい……ほんとこいつ聞き分けが悪いな……」
「生徒会一の堅物だものね……どうする? そろそろ実力行使?」
「殴るのはあんま気が進まねえんだよな……下手するとバレちまうし……」
「そうねえ……何かいいアイデアは……」
佐古辺はふと、翳りのある笑みを浮かべた。副会長の抜け目ない性格を知り尽くしている悠太は、背中に鳥肌が立つのを感じた。
「そっか……うふふ、仮屋くんのキャラクターを考慮してなかったわ……こういうのはどうかしら? お互いに一目惚れした須賀さんと仮屋くんは、こっそり海辺でデートをしていた。ところがそれを春園先生に見つかって注意されたから、須賀さんの入れ知恵で先生を殺すことに決めた……あら、これでもう、あなたひとりの問題じゃなくなったわね……」
悠太は無意識のうちに駆け出し、拳を少女の顔めがけて振りかざしていた。寸でのところで原田に抱きつかれ、少年の拳は空を切る。
原田は制裁を加えるように、悠太の上半身をギリギリと締めつけた。骨の軋む音が、体の内側から聞こえてくる。
「暴れんなって……こっちは穏便に済ませてやるつもりなんだぜ……」
悠太が呻き声を漏らすと、襲撃に怯んだ佐古辺は、ようやく気を取り直した。携帯を握り締め、殴り掛かってきた少年に目を怒らせる。その仕草は、駄々っ子を叱りつける母親のそれに似ていた。
「女に手をあげるなんて最低ね……暴力亭主になるわよ……」
選挙のときこの女に投票した奴は、全員出て来い。ぶん殴ってやる。苦いやるせなさと、愛する人を巻き込んでしまったことへの後悔が、悠太に暴力的な感情を抱かせた。
けれどもそれは、束の間の憤激に過ぎなかった。何の解決にもならないのだ。そのことに気付いた少年は、込み上げてくる絶望に抗いながら、唇を噛んだ。
「で、どうするの、仮屋くん? 交渉に応じるの? 応じないの?」
完全に落ち着きを取戻した佐古辺は、最後通牒のごとくそう尋ねた。
悠太の耳には、自分の荒い吐息だけが、蝉の声に混じって聞こえてくる。
「……い」
悠太の微かな呟きに、少女は眉をひそめた。
「何? ……聞こえないわよ」
「取引には応じない!」
余りの迫力に、少女は携帯を取り落とした。草むらの底で、端末が乾いた音を立てる。
佐古辺がそれを拾い上げる前に、悠太は声を荒げた。
「絶対に応じない! 僕は……僕は……⁉」
耳をつんざくような声量に、原田は慌てて悠太の口元を押さえた。佐古辺は息を殺して、人が来ないことを確かめ、それから悠太の方へ睨みを利かせる。悠太はぐったりと腕を垂らし、小さな啜り声を上げていた。彼の瞳から、ひとつ、またひとつと、ガラスのような雫が零れ落ちていく。
少年の涙を、佐古辺は鼻でせせら笑った。
「泣くくらいなら、ウンと言えばいいのに……」
そう言って佐古辺は、原田に目配せした。
交渉は打ち切られたのだ。悠太も覚悟を決める。
「悪く思うなよ……おまえが意地を張るから……」
「顔は殴っちゃダメよ」
「んなことは分かって……」
「こんにちは」
修羅場に似合わぬ澄んだ挨拶が、日陰の中に染み渡った。悠太は咽び泣くのを止め、顔を上げる。佐古辺と原田も、声のした方を一斉に振り返った。
右肩にスーツを羽織った男が、白い校舎を背景に佇んでいた。焦るカップルを他所に、男は質問を投げ掛ける。
「これは何だい? 新手のプロレスごっこ?」
とぼけたような質問に、原田は苛立ちを隠さなかった。落ち着けと目配せする恋人を無視して、男に喰ってかかる。
「誰だ、おまえ?」
「君たちの話に興味がある人間だよ」
「はあ? おっさんには関係……」
男は胸ポケットから黒い手帳を取り出し、目の前に掲げてみせた。逆光と距離で目を細めた原田だが、すぐに顔色を変える。
「警察の者だ。さっきの春園舞さんの話、詳しく聞かせてもらえるかな? マスコミは、事故死と発表したはずなんだがね……」
沈黙。
最初に動いたのは、原田だった。
「チッ!」
悠太を突き飛ばし、小屋の反対側へと駆け出す。それを見た佐古辺も、血相を変えて後を追った。
悠太はバランスを崩して、地面に膝をついた。その頭上に、濃い影が差す。青空を背にする救い主の姿を認めたとき、少年は複雑な気持ちに襲われた。
「……平戸さん」
「久しぶりだね、仮屋くん」
八月の、 昼下がりの出来事だった。




