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「ここか……?」

 江東はヤコブAの地図を取り出し、現在地を確認した。印の位置と目の前の建物とを、交互に見比べる。屋根瓦から草が生えているほどの、荒れ果てた二階建て家屋。玄関の横に置かれたプランターは、小さな砂漠と化していた。

 建物を間違ったかと思い、左右を見渡せば、そこは一面の蓮畑。蓮の葉から漂う青臭い香りが、真夏の湿気に充満していた。

 どう見ても空き家だ。ヤコブAの注意書きがなければ、江東はここで引き返していたかもしれない。生活感の全くない民家だった。

 やはり罠ではないだろうか。しかし、ここまで来て引き返すわけにもいくまいと、江東は玄関先に歩み寄る。表札には、八向の二文字。読みは分からない。手紙には、勝手に入ってくれと書いてあった。江東は念のため、インターフォンを押してみた。反応はない。引き戸のくぼみに指を掛け、軽く力を込める。

 ガラガラと音がし、玄関はあっさりと開いた。立て付けが悪くなっているわけでもなく、人が頻繁に出入りしているようだ。江東は土間へ上がり、大声で訪問を告げた。

「江東です。誰かいらっしゃいますか?」

 ……返事はない。地図そのものが間違っているのだろうか。

 そう思った矢先、二階の方で、扉の開く音がした。

 人がいる。ごくりと生唾を飲み込んだ瞬間、階段の上から声が聞こえた。

「こちらですよ、お上がりください」

 声音は、家主が少年であることを仄めかしていた。ヤコブAか、裏切り者か、それともその両方か……江東は覚悟を決めて、靴を脱ぐと、廊下の奥に見える階段へと歩を進めた。

 外見とは裏腹に、生活臭がしている。軋む段差に足を乗せ、江東は上を目指した。

 二階の床に足をつけると、すぐ目の前に、開け放された扉が見えた。入れということだろうか。だが、灯りはついていない。江東は用心しながら、部屋の中を遠目に覗き込んだ。

 ……室内は一瞬、無人に見えた。パソコンの画面に、七色のスクリーンセイバーが踊っている。その光に助けられた江東は、部屋の片隅で体操座りをする、ひとりの少年を捉えた。

 少年は、伸び過ぎた前髪の奥から、江東を見つめ返している。そして、挨拶を交わした。

「初めまして……八向と言います……」

「江東だ……君が、手紙をくれたんだね?」

 八向と名乗った少年は、軽く顎を引いた。両腕を膝頭で組み、そこへ顔を埋めている。容姿を見分けるのは困難だったが、江東は彼を、十代後半と見て取った。この部屋の状況からして、学生とは思われない。働いているようにも見えない。ゴミ袋があちこちに散乱し、他にあるものと言えば、無造作に積まれた本や雑誌類、それに一台のパソコンだけである。衣服も、白い無地のTシャツに紺のジャージという、極めて簡素なもの。着替えをしていないのか、どちらにも大きな皺が寄っていた。

「……どうぞ、お入りください」

 入室を許可された江東は、少年の根城に足を踏み入れた。

 何もないとは分かっていても、江東はきょろきょろとせざるをえない。

 不安がる江東を諭すように、八向は座ったまま話を始めた。

「お互いに初対面ってわけじゃないんです……気楽にいきましょう……」

 年下にしては、落ち着きのある奴だ。そう値踏みしながら、江東は目の前の少年とヤコブAとを重ね合わせた。しかし、ここで早まってはいけない。江東は、確認作業に入る。

「まずは自己紹介をしようか……できれば、手紙をくれた君の方から……」

「……それもそうですね。ホストから名乗ることにしましょう」

 江東の慎重策に、八向はあっさりと乗ってきた。

「僕がヤコブAです。最近は、欠席気味で申し訳ありません」

 今度は、江東が名乗りを上げる。

「私が、ペトロだ……」

「生きているうちにお会いできて光栄です」

 八向の台詞に、江東は渋い顔をした。気取り過ぎだ。そう思ったのだ。

「君は……どうして私が、ペトロだと分かったんだい……?」

 八向は、パソコンを眼差した。

 たったそれだけの動作で、江東は、少年の特殊技能に気付いた。

「……ハッキングか?」

「ええ……ちょっとApostoliのサーバーをね……それから、アクセスしている面子のアドレスも、何人かチェックさせていただきました……江東さんの病院、もう少しセキュリティ管理をちゃんとした方がいいですよ……」

 余計なお世話だ。江東は、質問を続ける。

「サーバーはどこに?」

 しまった。これは、禁断の問いではないだろうか。

 命の危険を感じた江東に対して、八向は平然と答えを返す。

「それは、教えられません……」

 一抹の安堵と、一抹の憤り。江東は、その理由を尋ねる。

「なぜだい? 何かまずいことでも?」

「カミサマの機密情報をポンと出す馬鹿はいないでしょう……それに、もしかすると僕が制裁されてしまうかもしれませんからね……シモンやヨハネのように……」

 江東は、追及の手を緩めた。制裁という言葉が、自分にも触手を伸ばしているように思えたのだ。怯懦と知りつつも、江東は別のところへメスを入れる。

「君は……彼らが死んだと思ってるのか……?」

「ペトロさんも、そうお考えなんでしょう? 誰かに殺されていると……」

 図星だった。だが江東は、それを悟られないよう、遠回りな道を選択する。

「しかし、それはありえないと思うんだが……」

「……なぜありえないんですか?」

「使徒を殺害するには、私たちの行動を外部から把握しなきゃならないだろう……でも、そんなことは不可能だ。私たちは、現実世界で顔を突き合わせているわけじゃないからね」

「そうでしょうか……ひとりいると思いますが……」

 八向の思わせぶりな態度に、江東は顔をしかめた。何が言いたいのだろうか。まさか、自分は全使徒の個人情報を入手済だと、そう匂わせているわけでもあるまい。

 しばらくして江東は、少年の台詞が、別の意味合いを持っていることに気付く。

「……カミサマか?」

 八向は、膝の谷間に顔を埋めたまま、肯定も否定もしなかった。

 痺れを切らした江東は、一方的に話を進める。

「君はこう言いたいのか? カミサマが、私たちを順番に殺していると?」

「その可能性もなくはない……でしょうね……」

 少年の推理を、江東は鼻で笑った。心からの嘲笑ではなく、単なる強がりであることは、江東自身にもよく分かっている。下僕として呼び出された自分たちが、なぜ粛正されねばならないのか。江東はその不条理を、認めたくなかったのである。

 江東の気持ちを察したのか、八向はしばらくの間、口を噤んでいた。

 しかし、江東が意見を変えないことに見切りをつけ、ぼそりと先を続ける。

「江東さん、使徒心得の第一条を覚えてますか?」

 江東の口元から、嘲りの色が消えた。

「……他の十二使徒たちと協力して、世の中を善くしましょう、だろう?」

 江東は一字違わず、条文を暗唱した。

「さすがは医学部卒ですね……記憶力がいい……」

 場違いな賞賛に、江東は機嫌を損ねた。眼鏡の奥から八向を睨みつけ、真意を問おうとする。

 だがその前に、八向の方から弁明を始めた。

「江東さん、僕たちは、この町を改善するために選ばれたんです。自分たちの欲望を満たすために選ばれたわけじゃない。ところが、シモンやヨハネたちは、彼らの気に入らない人たちを排除しようとした。……これはルール違反です」

「あのふたりは、彼らなりに世の中を善くしようとしてたんだ。私も、やり方には賛成できなかったが、動機自体は非難されるものじゃない……それに……使徒心得の第一条には、ペナルティが書かれていないじゃないか」

 死人の顔に泥を塗る行為だと思ったのか、江東は、自分でも知らぬ間に、彼らの弁護役に回っていた。

 八向も、再反論を試みる。

「動機は問題じゃないんですよ……動機が自己の行動を正当化するなら、歴史上の独裁者は、みな善人です……彼らは、祖国を善くしようと願って、大勢の人間を死に追いやったんですからね……」

 話の関連性を把握できぬまま、江東は言葉を挟む。

「つまり……常識的に考えて行動しろってことかい……?」

 八向は、無表情に頷き返した。

「そりゃそうでしょう……例えば、僕があなたの口座にハッキングして、貯金を全部くすねたと仮定します。それがいったい何の罪に該当するのか、僕は知りませんよ……窃盗? 詐欺? 横領? それとも、コンピューター犯罪に関する特別な法律でもあるんですかね? だけど常識的に考えて、それが犯罪だということくらいは、分かるでしょう。たとえ僕が、三年間ここに引きこもっているとしてもね……」

 江東は、このシニカルな少年との会話を、打ち切りたくなった。しかし、初めて出会った自分以外の使徒が、大切な情報を提供してくれているのだ。この機会を逃す手はない。

 そう考えた江東は、八向の仮説の検証に取りかかった。

「だが、バルトロマイは何もしていないじゃないか? それとも、彼女は生きてる?」

「彼女は、キセキを私欲のために使いました……だから制裁されたんです……」

「彼女? なぜ彼女だと言いきれるんだ? 確かに、書き込みは女のようだったが……」

 江東は、昨晩のやり取りを思い出す。ユダも、バルトロマイを女性と断じていた。

 あの場にヤコブAはいなかったはずだ。江東は、八向の理由付けを待った。

「……七月二十四日の午後、女性が列車に飛び込んだニュースを知っていますか?」

 そんなことは一々覚えていないと、江東は危うく口にしかけた。毎日、気の滅入るような数の人間が、病院で死んでいくのだ。事故死の人数までカウントしていては、自分の気力がもたない。

「そのとき轢死した女性の名前が、春園舞なんですよ」

 これで万事分かるだろうと、そう言いたげな眼差しが、江東の眼鏡を覗き込んだ。

「春園……舞……」

 江東の脳裏で、ある使徒の名前が浮かび上がる。

「き、君は、こんな言葉遊びを信じるって言うのか?」

「言葉遊びかどうかは、江東さん、あなたの胸に訊いてみてください。江東とペトロ、八向とヤコブ……下野とシモン、尾羽とヨハネ……みな似ています……」

「オバネ?」

「ええ、ヨハネの本名です。ちょっとした詩人ですよ……まだ疑いますか?」

 江東は、もはや反論しなかった。反論できなかったという方が、正しいかもしれない。

 仕方なく彼は、八向によって敷かれたレールの上を走る。

「バルトロマイが、何をしたって言うんだ? 彼女のアイデアに、大したものは……」

「花のキセキを覚えてますか?」

「花のキセキ……?」

 江東は直ちに、その記憶の在り処を探った。確かにバルトロマイは、高校の花壇に珍しい花を咲かせた。江東も、忘れていたわけではない。ただ、あまりにもインパクトが弱くて、印象に残っていなかったのだ。

「あれが、どうしたというんだ? 毒にも薬にもならないじゃないか」

「ただの花じゃないところがポイントなんです……珍しい花……どうして春園舞は、普通の花じゃなく、珍しい花を要求したんでしょうかね……?」

 八向の奇妙な謎掛けに、江東はありきたりな答えを返す。

「その方が、キセキっぽいからだろう?」

「……江東さんって、結構俗なんですね。あ、別に悪い意味じゃないですよ……そう怒らないでください……珍しいというのは、貴重だということであり、貴重だというのは、高価だということです……つまり……」

 その瞬間、江東はバルトロマイのカラクリを察した。

「まさか……転売したのか……?」

「ご明察……」

「証拠がないだろう?」

 証拠を要求された八向は、検察官のような眼差しを返す。

「あるんですよ……それが……インターネットで、フラワーショップ・ハルゾノと検索してご覧なさい。そこで、例の花が転売されています……とうに売り切れですがね……」

「フラワーショップ・ハルゾノ? ……春園舞の店?」

 江東の早とちりに、八向は訂正を入れる。

「いいえ、その妹さんの店です……両親が離婚したんで、別姓を名乗ってますがね……ふたりがグルだったのか……資金が何に使われたのか……そこまでは分かりません……」

 引きこもっていては分かりようがないだろうと、江東は毒づきかけた。けれども八向は、彼の遥か先を行っているのだ。そのことに目の当たりにした江東は、言いようのない敗北感に打ちひしがれた。

「まあ、そう真剣に考えないでください……三人がカミサマに制裁された……これは、ひとつの可能性に過ぎないんです……それに、もっとありえそうな説明が、まだあるじゃないですか……」

 江東は、ユダの言葉を思い出す。

「裏切り者がいる……そう言いたいのかい?」

 それがもうひとつの可能性なのかどうかを、江東は判断しかねた。

 八向は自分の意見を差し控えて、簡単なコメントを添える。

「ええ、その可能性もありえますね……使徒のうちの誰かが、僕らの秘密を外部に漏らしている……その可能性も……」

「まさか、君なんじゃないだろうね?」

 八向が第一容疑者であることは、江東にも分かっていた。彼が裏切り者ならば、万事休すである。少なくとも江東に関しては、救済の余地がなかった。この場で少年を殺してしまわない限り、逃れようがないのだから。

 八向はしばらく間を置き、組んだ腕の中でおもむろに唇を動かした。

「ご冗談を……違いますよ……」

 江東は、ホッと胸を撫で下ろす。信じたわけではない。信じるつもりに決めたのだ。

 曖昧な気分を紛らわすため、江東は急いで先を続けた。

「裏切り者がいるって話は、使徒会議でも出たんだよ。ユダくんの指摘でね……君は欠席してたから補足しておくと、使徒の間でも意見が分かれてるんだ……ルカくんは、しきりにそれを否定してるんだが……」

「ペトロさん、あなたはどうお考えですか?」

 使徒名で呼ばれた江東は、一瞬言葉に詰まった後、手のひらを返した。

「私は、裏切り者がいると思うね……」

「……そうですか」

 使徒会議で自分がルカに加担したことを、江東は明かさなかった。

「ふむ……」

 八向はそう呟き、部屋の隅に視線を移した。

「ただ、それでは説明のつかないことがあるんですけどね……」

 もったいぶるなと、江東は黙って八向の横顔を睨んだ。

 その視線を感じ取ったのか、八向は視線を戻し、江東と再び目を合わせる。

「例えばですよ……江東さんに見知らぬ人間が近付いて来たとしましょう……そして、こう言うんです……ヤコブAは八向和馬だよ、って……あなたは、それを信じますか?」

「……信じないだろうね」

 八向は、その答えに満足したらしい。

「そうでしょう……だとしたらですね、この裏切り者……仮にXとしましょう……Xはどうやって、一般人に使徒をバラしているんでしょうね……? そこらの通行人に、下野はシモンだの、尾羽はヨハネだのと言ってごらんなさい……その通行人は、間違いなく質問してきますよ……そういうおまえは誰なんだって……まあ、それ以前に……」

「頭がおかしいとみなされて、相手にされない……か?」

 八向はここに来て、初めの微笑を漏らした。

「やはり知的な人との会話は楽しい……」

「私は楽しくないね」

 江東は、そう吐き捨てた。八向の口元からも、笑みが消える。

「八向くん、君は自分を何か特別な人間だと勘違いしてるようだが……それは間違いだよ。私たちは単なる合議体の構成員で、特別な能力は何も備えちゃいないんだ。カミサマとやらの力を借りているだけ……そうだろう? 私が見る限り……ちょっと失礼な言い方だが……使徒に選ばれたメンバーも、天才とかそんなんじゃない……ただの一般市民さ……」

「やれやれ、いきなり説教ですか……参りましたね……」

 八向は、わざとらしく溜め息をついてみせた。

「説教じゃない。事実を述べたまでだ」

 とはいえ、最近自分が説教じみてきたことには、江東自身もうっすらと勘付いていた。これも歳のせいかと、やるせない気持ちになってくる。

 一方、八向は、暖簾に腕押しと言った様子で、相手の忠告を受け流す。 

「僕はね、全てが逆だと思うんです」

 話題が裏切り者に戻ったと気付くまで、江東は時間を要した。

「逆……? どういう意味だい?」

「使徒のひとりが、僕らの情報を漏らしてるんじゃないんです……使徒のフリをした誰かが、僕らにこっそりと近付いてるんですよ……」

 今まで考えもしなかった仮説に、江東は体が強ばるのを感じた。

 しかしすぐさま、その推論の欠点に思い当たる。

「それは考えられないな……」

「どうしてですか?」

「そりゃそうだろ……一般人がどうやって、私たちの情報を入手するんだい……?」

 八向は何も言わず、そばにあった紙切れを拾い上げ、それを江東の足下に投げた。ひらひらと舞うそれは、うまく江東の爪先に着地する。何事かと思い、腰を屈めた江東は、それが新聞の切り抜きであることを見て取った。

 壊れ物でも扱うかのように、指先で摘まみ上げ、ザッと目を通す。

 

 二〇〇六年五月五日午後十時頃、I市の米軍基地で宿舎が爆発、同所でパーティーに参加していた男女十五名が巻き込まれ、うち十三名が死亡、二名が重軽傷を負った。そのうち子供ひとりが意識不明の重体。生存者である邦人の只居武文さん(六十一歳・自営業)は、頭部に軽い怪我を負い、海兵隊とI市警察署は、同人を通じて事故の原因を調査中。

 

 ただそれだけの記事だった。無論、十三名死亡という大事故であり、江東もこの事件を微かに記憶している。しかし、目下の話題との接点が見えてこない。

 江東は、首を捻った。

「これがどうしたって……!」

 江東は、もう一度記事を読み返した。ある箇所で視線が止まる。

「只居……まさか……そんな……」

「そのまさかですよ」

 八向の指摘を他所に、江東は混乱する思考を何とか整理しようと努めていた。おかしい。何かがおかしい。そしてようやく、日付がおかしいことに気付いた。

「これは、七年前の記事だろう? 私たちが選ばれたのは、今年の……」

「ねえ、江東さん、僕らはそこまで特別なんでしょうか?」

「……何が言いたい?」

「この世界で初めて使徒に選ばれたのが、僕らなのか、ってことですよ……」

 その一言で、江東は己の自惚れに愕然とした。

 自分が選ばれる前に使徒が存在しなかったと、なぜ言い切れるのだろうか。

 江東は震える膝を支え、少年とのやり取りを続けた。

「いや……仮にそうだとしても……今回の事件とは関係が……」

 戸惑う江東に対して、八向はゆっくりと、自説を披露する。

「こうは考えられないでしょうか……? カミサマと使徒は、昔から……正確にいつからかは知りませんがね……とにかく昔から存在していた。そして、カミサマも使徒も、次々と交代していったんです。寿命が来たからなのか、それとも使徒心得にあるように、正体を暴露されたからなのかは、この際どうでもいい……そして、ついに誰かが気付いたんじゃないでしょうか……世の中には、不思議な力を持った超越者と、その手下がいることに……」

「し、しかし、それじゃまだ問題の解決には……」

 察しが悪いなと、八向は軽い溜め息を吐いた。

「あとは簡単ですよ……僕と同じように、調査すればいいだけなんですから……僕が会議に参加しなくなったのも、サイトから距離を取るためです……おっと、これも自衛手段のひとつですから、悪く思わないでくださいよ……」

「フィリポも、そうなのか?」

 別の使徒の名前を出され、八向は微かに目を細めた。江東の記憶によれば、フィリポがいなくなったのは、ヤコブAと同じ七月二十四日の水曜日、つまり、バルトロマイこと春園舞が死亡した日である。

 ところが八向は、ふたりの面識を否定した。

「フィリポさんが誰かは、まだ分かっていません……」

 江東は、少年の目を見据えた。嘘を吐いているようには見えない。患者の仮病を見破ることが得意な江東は、己の鑑識眼を信じることにした。

 ……もう帰ろう。江東は時計に目をやる。時刻は、既に十一時半を過ぎていた。

「八向くん、今日はありがとう。用事があるんで、もうお邪魔するよ」

 そう言って江東は、部屋の出口へと向かう。

 そこへ、八向が声を掛けた。

「ちょっと待ってください」

 江東は、やや腹立たし気に振り返る。

「……まだ言いたいことがあるのかい?」

「いえ……僕の方からはないんですが……江東さんは、僕から情報を引き出せるだけ引き出しておいて、こちらには何も提供してくれないんですか?」

 八向の咎めるような視線に、江東は口元を歪めた。それは、年下に詰られたことへの苛立ちばかりではない。自分が何も知らないという、無力感に起因するものでもあった。曲がりなりにも市の病院で働いていながら、ヒキコモリ少年よりも知識が少ないというのは、彼のプライドが許さない。

 大人げない心情が、江東に口を開かせてしまう。

「君はカリヤユウタって人を知ってるかい? ……そいつがユダだ」

「カリヤ……ユウタ……」

 八向は、その六文字を静かにリピートする。少年の声音は、明らかに聞き覚えがあることを示していた。

 江東は、八向の出方を窺う。

「ええ……僕の同級生だった男ですよ……」

「同級生?」

 その答えを、江東は予期していなかった。下野の事務所に居合わせた男という情報から、もっと年上の男性を想像していたのだ。

 江東の先入観に気付いたのか、八向は小馬鹿にした視線を送ってくる。

「名前だけで、素性を調査しなかったんですか?」

「……こう見えても、医者は忙しいんだよ。仕事があるからね」

 その言い訳に秘められた深い侮辱が、部屋の中へ音もなく広がっていく。この場の陰湿さに耐えられなくなった江東は、胸元のネクタイを緩め、息を吐く。

「それじゃ、私は帰るよ……情報提供に感謝する。今晩また会おう」

「……」

 八向の返事を待たず、江東は廊下に出た。屋外でもないのに、空気の鮮度が一変する。

 江東は深呼吸しながら、階段へと向かった。

「江東さん」

 ドアを閉め忘れていたことに気付いた江東だが、もはや振り返りはしなかった。階段を下りる彼の背中に、八向の声だけが聞こえてくる。

「使徒のフリをした人間にご注意ください。そいつは、この町のどこかにいます」

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