25
「ユウタ、彼が弟のクリスだよ」
「こんにちは……仮屋悠太です……」
初めてマリアの肉親に紹介された悠太は、緊張した面持ちで頭を下げた。
その動作に合わせて、マリアはベッドの上の少年に向き直る。
「Chris, it's Yuta, a friend of mine」
ただの友だち……マリアとの距離をあらためて痛感させられた悠太だが、関心はもはやそこになかった。彼は、ベッドの上で眠るクリスの姿に、その視線を釘付けにしている。頬のシャープな線だけが性差を告げる、マリアに似た美しい少年だった。姉と同じ黒を取り込んだブロンドが、艶やかな額に掛かっていた。本当に安らかな、永遠の微睡みを漂わせる顔立ちに、悠太は言葉を失う。
「ごめんね、クリスは、ちょっと寝てるみたいだから……」
マリアの声も、悠太を現実へと引き戻すには足りなかった。彼は、クリスの口を塞ぐ人工呼吸器のパイプを見つめていた。やや年代ものと思しき装置の動きに合わせて、少年の薄い胸が上下するのを、悠太はシーツ越しにはっきりと認識した。
その規則正しい運動を眺めていると、彼はふいに、マリアの視線を感じた。振り向けば、マリアは全てを見透かすようなあの瞳で、悠太の好奇心を咎めてくる。
ただならぬ気まずさを感じた少年は、考えのまとまらぬまま、唇を動かす。
「クリスくんは……どのくらいこうしているの……?」
「もう七年くらいかな」
即答したマリアに、悠太は驚きの言葉を返す。
「七年……? そんなに……?」
少年は、その時の長さに戦慄した。自分がまだ小学生だった頃から、こうして夢の世界を彷徨っているというのだろうか。……いや、そもそもクリスが夢を見ているのかすら、今の悠太には覚束ない。
一分ほど沈黙を続けた彼の脳裏に、何の前触れもなく、真飛の台詞が蘇ってきた。
《須賀は確か、毎朝七時くらいに家を出て、どっかに行ってるって噂だぜ》
その真偽を確かめようと思ったのか、それともこの場の空気に耐えられなくなったのか、悠太は踏み込んだ質問をする。
「もしかして、君が毎朝早く家を出てるのは……」
少年が言い終わらぬうちに、マリアはその薄い唇を動かす。
「ユウタ、それをどこで聞いたの?」
真飛の言葉が真実であることを、悠太は少女の問いの裏に嗅ぎ取った。しかし、それが公園で仄めかされたマリアの秘密なのか、少年には判然としない。情報源を明かした方が良いのだろうか。自問自答の末、悠太はぼやかした答えを返す。
「友だちからだよ」
「どの友だち? ルカさん?」
こうなってはお手上げだ。瑠香に迷惑を掛けぬよう、悠太は白状することにした。
「真飛だよ。真飛から聞いたんだ」
「……そう」
それを最後に、マリアは弟の寝顔へと再び視線を落とした。マネキンのような少女の横顔は、彼女がこの噂についてどう思っているのか、微塵もちらつかせてはくれない。毎朝登校前に肉親を見舞う。恥じ入ることではないはずだ。
藪蛇にならないよう、悠太は話のテーマを変えようと思った。けれども、上手いアイデアが湧いてこない。明る過ぎるものも、暗過ぎるものもダメだ。マリアが弟を紹介してくれた以上、この話題で乗り切るしかないのかもしれない。悠太は観念した。
……とりあえず褒めてみよう。悠太は、心持ちテンションを上げながら、マリアに話し掛ける。
「それにしても偉いね。毎朝、弟の面倒を見てあげるなんて」
「ママは死んじゃったから……パパは仕事で忙しいの……」
……最悪だ。少年がフォローにあれこれ思い悩んでいると、廊下から言い争うような声が聞こえてきた。喧嘩というほどではなかったが、明らかにふたりとも興奮している。ひとつは女の声、もうひとつは男の声。病院にあるまじきボリュームで、ふたりは病室に近付いて来た。
「もう商品は発注済で、うちはキャンセルができないんです! 買っていただかないと!」
「ですから、買わないとは言ってません。代金の支払いを待ってくださいと申し上げてるんです」
「それも困ります! 支払いは延期できません!」
「しかし、契約書にはまだサインしてないんですから……」
壁が薄過ぎだろう。心中、不満を露にする悠太。その目の前で、いきなり扉が開いた。まさか、この病室へ入って来るとは。少年は、喋ってもいない口元を押さえた。
ドア枠に現れたのは、医師と思しき眼鏡を掛けた男と、スーツに身を包んだ営業職らしき女。さすがに場を弁えたのか、ふたりはそこで口論を中断した。
憮然とする女を放置し、医者は室内に視線を走らせる。悠太には一瞬目を留めただけで、男はすぐにマリアと目を合わせた。
「マリアちゃん、こんにちは」
マリアちゃんという呼び方に、悠太はなぜかイラッとしてしまう。
一方、マリアは少年の嫉妬を無視して、挨拶を返す。
「こんにちは、エトウ先生」
悠太は、医師の胸に掲げられた名札を読み上げた。江藤だと勘違いしていた少年の瞳に、別の漢字が映り込む。江東。それが、男の名字だった。
悠太の視線に気付いたのか、江東は問うような眼差しを向けてきた。誰だ、おまえは。瞼の線が、あからさまにそう尋ねていた。
自己紹介しかけた悠太に代わって、マリアがその役割を引き受けた。
「この人は、カリヤユウタです」
そのタイミングに合わせて、悠太は頭を下げた。
ところが、視界に映る江東の首から下は、直立不動のままであった。挨拶が返ってくる様子もない。子供だと、軽く見られたのかもしれない。不快そうに悠太が顔を上げると、彼の目の前に立つ医師は、驚きに満ちた表情を浮かべていた。
どこかで会ったのだろうか。悠太が交友関係の網を手繰る前に、マリアは先を続けた。
「エトウ先生、ユウタを知ってますか?」
我に返った江東は、ポケットに手を突っ込んでしどろもどろした後、首を左右に振った。他人の空似だと断じた悠太は、記憶の追跡を止める。
よそよそしい空気が流れる中、江東は思い出したようにマリアへと近付き、医師特有の第三者的な顔付きで、話を再開した。
「ちょうど良かった。実は、君のお父さんに相談したいことがあってね。寄付金のことなんだが……」
「それについては、父からメッセージがあります」
「メッセージ?」
前後関係の狂いに戸惑ったのか、江東は、マリアに話を預けた。
言葉のバトンを受け取ったマリアは、躊躇いなく先を継ぐ。
「寄付金の件は、なかったことにしてください」
「……」
病室は、静まり返った。クリスの人工的な、それでいて穏やかな寝息だけが、悠太の背中をくすぐる。詳しい事情は分からなくとも、これが江東にとって重大事であることだけは、少年にもはっきりと感じ取ることができた。
沈黙が続く。それを破ったのは他でもない、マリアだった。
「今日は、これを伝えに来ました。私は帰ります」
呆然とする江東の横をすり抜けて、マリアは病室を出て行く。江東が慌ててそれを制したのは、彼女の細い足首が、病室と廊下の仕切りを飛び越えようとしたときだった。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
敬語に切り替わった江東の呼びかけに、マリアはそっと伏し目がちに振り返る。
「何でしょうか?」
「き、寄付していただけないというのは、どういうことでしょうか?」
ふたりの立場は、完全に逆転していた。そのことは、大人の事情に疎い悠太にも、手に取るように分かる。マリアもそれを承知しているのか、それとも生来の鉄面皮がそうさせるのか、酷く冷たい調子で答えを返した。
「自分の子供のためにお金を出すのは、寄付にならないと言われたそうです。ですから、この話はなかったことにしてください。……以上が、父からのメッセージです」
訃報を伝える使者のように、淡々と事情だけを告げ、マリアは爪先で廊下に触れた。
江東から顔を背けると、別れの挨拶を述べる。
「では……失礼します……」
ドアのそばに立っていた女は、脇へと避けた。
マリアが左手へ曲がるとき、彼女の白い肌が、蛍光灯の明かりに輝いて見えた。
「ユウタ、また今度ね……Chris, till tomorrow morning……」
そう言い残して、マリアはドア枠から消えた。後には、モデルに抜け出された額縁を眺めるように、ふたりの男が取り残されていた。
男たちがしばらく廊下の壁を見つめていると、先ほどの女が、ひょっこりと病室を覗き込んできた。女は、わざとらしくおどけつつ、江東に声を掛ける。
「あのう……今のが例の寄付金ってことは……ないですよね?」
黙って頷き返す江東。
女の顔が青ざめる。
「こ、呼吸器はどうするんですか⁉」
「代金を支払えないので……キャンセルを……」
「そ、そんな……!」
女は、マリアの去った方向を振り仰ぎ、拳を構えた。
「私、彼女を説得してきます!」
女はサッと身を翻し、パタパタとやかましい足音を立てて、廊下の奥へと消えて行った。未成年者を説得してどうするのだと、悠太は素朴な疑問を抱きながら、江東の横顔に視線を移す。
この男、マリアを追わないのだろうか。ずいぶんと冷静な人間だ。悠太が客観的な感想を抱いた途端、江東はこちらに顔を向けてきた。視線を逸らそうとした悠太だが、病室内には目を留める場所もないので、仕方なく医師の眼鏡にそれを固定する。
「君は、ほんとにカリヤユウタくんなんだね?」
江東はなぜか、少年の氏名に興味を示した。悠太は心なし、眉をひそめる。
「は、はい……僕が仮屋悠太です……」
「どういう漢字を書くの?」
「はい?」
「名前の書き方は?」
悠太は訝しがりつつも、それを医者に説明した。
すると江東は、顎に手を添え、何やらぶつぶつと呟いた後、ある単語を発する。
「ユダ……」
空耳だと自分に言い聞かせようとしたにもかかわらず、悠太は顔色を変えてしまった。演技下手なことを悔やみつつ、医師の名前を分析する。江東……この落ち着きのある性格……該当する使徒は、ひとりしかいない。
多少のリスクには目を瞑り、悠太はある可能性を口走る。
「ペトロさん?」
「そうか……やっぱりユダくんか……」
謎解きを終えたふたりの間に、奇妙な親近感が芽生えていく。そのことを、悠太は肌で感じ取っていた。
駅前や本屋よりは、使徒の邂逅場所として相応しい。けれども、自分たちをここへ誘ったものの正体が、悠太には判然としなかった。偶然か、それとも誰かに情報をリークされたのか。悠太がそう尋ねかけたところで、江東は唇に指を添えた。
「ここはまずい……私の診察室へ行こう」
江東はそう言うと、黙って病室を出て行く。悠太は、最後にちらりとクリスの寝顔を盗み見て、それから彼の後を追った。少年との関係を他の通行人に悟られたくないのか、江東は終始距離を取っている。振り向きもせずに階段をひとつ降り、右手の角を曲がって三番目の扉を開けた。悠太がそこへ飛び込んだとき、江東は診察机の椅子に腰を下ろしていた。
まごつく少年に、江東は目で合図する。ドアを閉めろと言っているようだ。悠太が後ろ手に扉を閉めると、江東は席を勧めてきた。患者用の椅子だ。悠太はおっかなびっくり、尻をつける。その瞬間、心地の良い香りが、少年の鼻孔を掠めた。けれども少年は、薬品の匂いだろうと思い、自分の嗅覚を無視した。
早速、本題へと斬り込んでいく。
「どこで僕の情報を入手したんですか?」
江東は眼鏡を光らせ、診察時の冷たい態度で言葉を返す。
「それは教えられない」
インフォームドコンセプト違反に怒りつつも、悠太は敢えて意義を申立てなかった。しつこく訊いたところで、どうせ答えてはもらえないのだ。下野たちとの密談を通じて、諦観が彼を支配し始めていた。
「まさかペトロさんが、お医者さんだとは思ってませんでしたよ……」
「それはこっちの台詞だよ……高校生が混じっているとは……」
お互いに驚きを交わしながら、今度は江東が問いを放つ。
「ユダくんは、他の使徒に会うのは初めてかい?」
毎回毎回自分ばかりが尋問されることに、悠太はだんだんと慣れ始めていた。年齢が悪いのか、それとも自分の性格が律儀過ぎるのか……その両方だろうと観念し、少年は素直に答えを返す。
「いいえ……他にも何人か、会ったことがあります……」
「何人か……? いったい誰に?」
「それは教えられませんよ」
些細な仕返しに、江東は軽く肩をすくめた。一本取られたという表情だ。
「悪い悪い……でも、シモンたちが死んだとなれば、私たちはいろいろ情報交換しなきゃならないだろう? 違うかい?」
「死んだ……? ペトロさんは、死んでないと仰ってましたよね?」
またまた一本取られた格好に、江東は苦笑した。
「やれやれ……本気にしないでくれよ……あれは、場を和ませるための方便さ」
「方便って……そんなことで議論を妨害してたんですか?」
「確定的な証拠はないんだから、仕方ないだろう?」
その理由付けには、悠太も納得せざるをえない。彼自身、シモンたちが死んだ証拠を手元に隠しておいたのだ。ペトロだけを非難するわけにはいかなかった。
そう考えた悠太は、少し別の方向から攻めてみることにする。
「さっきの女性は誰ですか? 彼女も使徒だとか、そういうことは?」
指示対象を一瞬把握できなかったのか、江東は椅子の角度を微妙に変えた。
「ああ、長谷川さんか……彼女は医療器具メーカーの営業マンだよ。ただ……」
江東はそこで、言葉を切った。
「ただ、何ですか?」
「いや、ちょっと笑っちゃうようなことなんだが……彼女の名前が円子なんだよ。円周率の円に、子供の子って書くんだけどね……」
説明の間も、江東はささやかな笑みを漏らしていた。
少年もそれに釣られ、口元を綻ばせる。
「ハハッ、まさかそんな……」
「あのう……そのまさかなんですけど……」
突然聞こえた女の声に、ふたりは椅子から飛び上がった。比喩ではなく、本当に腰を上げて、辺りを見回したのだ。すると、診察台の前に掛けられているカーテンの端から、恐る恐る長谷川が顔を覗かせた。
自殺行為だったか。少年は、着席時に漂った香りを思い出し、死を覚悟した。
けれどもその瞬間、悠太は、長谷川が放った言葉の意味を了解する。
そのまさかなんですけど……長谷川は、確かにそう言った。
「ってことは……」
顔を引きつらせる悠太に、長谷川は営業スマイルを浮かべ、挨拶する。
「ご、ご紹介が遅れました……私がマルコです」




