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イスカリオテのぼくと、マグダラのわたし  作者: 稲葉孝太郎
第9章 営業マンの場合
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「ユウタ、彼が弟のクリスだよ」

「こんにちは……仮屋悠太です……」

 初めてマリアの肉親に紹介された悠太は、緊張した面持ちで頭を下げた。

 その動作に合わせて、マリアはベッドの上の少年に向き直る。

「Chris, it's Yuta, a friend of mine」

 ただの友だち……マリアとの距離をあらためて痛感させられた悠太だが、関心はもはやそこになかった。彼は、ベッドの上で眠るクリスの姿に、その視線を釘付けにしている。頬のシャープな線だけが性差を告げる、マリアに似た美しい少年だった。姉と同じ黒を取り込んだブロンドが、艶やかな額に掛かっていた。本当に安らかな、永遠の微睡みを漂わせる顔立ちに、悠太は言葉を失う。

「ごめんね、クリスは、ちょっと寝てるみたいだから……」

 マリアの声も、悠太を現実へと引き戻すには足りなかった。彼は、クリスの口を塞ぐ人工呼吸器のパイプを見つめていた。やや年代ものと思しき装置の動きに合わせて、少年の薄い胸が上下するのを、悠太はシーツ越しにはっきりと認識した。

 その規則正しい運動を眺めていると、彼はふいに、マリアの視線を感じた。振り向けば、マリアは全てを見透かすようなあの瞳で、悠太の好奇心を咎めてくる。

 ただならぬ気まずさを感じた少年は、考えのまとまらぬまま、唇を動かす。

「クリスくんは……どのくらいこうしているの……?」

「もう七年くらいかな」

 即答したマリアに、悠太は驚きの言葉を返す。

「七年……? そんなに……?」

 少年は、その時の長さに戦慄した。自分がまだ小学生だった頃から、こうして夢の世界を彷徨っているというのだろうか。……いや、そもそもクリスが夢を見ているのかすら、今の悠太には覚束ない。

 一分ほど沈黙を続けた彼の脳裏に、何の前触れもなく、真飛の台詞が蘇ってきた。

 

《須賀は確か、毎朝七時くらいに家を出て、どっかに行ってるって噂だぜ》

 

 その真偽を確かめようと思ったのか、それともこの場の空気に耐えられなくなったのか、悠太は踏み込んだ質問をする。

「もしかして、君が毎朝早く家を出てるのは……」

 少年が言い終わらぬうちに、マリアはその薄い唇を動かす。

「ユウタ、それをどこで聞いたの?」

 真飛の言葉が真実であることを、悠太は少女の問いの裏に嗅ぎ取った。しかし、それが公園で仄めかされたマリアの秘密なのか、少年には判然としない。情報源を明かした方が良いのだろうか。自問自答の末、悠太はぼやかした答えを返す。

「友だちからだよ」

「どの友だち? ルカさん?」

 こうなってはお手上げだ。瑠香に迷惑を掛けぬよう、悠太は白状することにした。

「真飛だよ。真飛から聞いたんだ」

「……そう」

 それを最後に、マリアは弟の寝顔へと再び視線を落とした。マネキンのような少女の横顔は、彼女がこの噂についてどう思っているのか、微塵もちらつかせてはくれない。毎朝登校前に肉親を見舞う。恥じ入ることではないはずだ。

 藪蛇にならないよう、悠太は話のテーマを変えようと思った。けれども、上手いアイデアが湧いてこない。明る過ぎるものも、暗過ぎるものもダメだ。マリアが弟を紹介してくれた以上、この話題で乗り切るしかないのかもしれない。悠太は観念した。

 ……とりあえず褒めてみよう。悠太は、心持ちテンションを上げながら、マリアに話し掛ける。

「それにしても偉いね。毎朝、弟の面倒を見てあげるなんて」

「ママは死んじゃったから……パパは仕事で忙しいの……」

 ……最悪だ。少年がフォローにあれこれ思い悩んでいると、廊下から言い争うような声が聞こえてきた。喧嘩というほどではなかったが、明らかにふたりとも興奮している。ひとつは女の声、もうひとつは男の声。病院にあるまじきボリュームで、ふたりは病室に近付いて来た。

「もう商品は発注済で、うちはキャンセルができないんです! 買っていただかないと!」

「ですから、買わないとは言ってません。代金の支払いを待ってくださいと申し上げてるんです」

「それも困ります! 支払いは延期できません!」

「しかし、契約書にはまだサインしてないんですから……」

 壁が薄過ぎだろう。心中、不満を露にする悠太。その目の前で、いきなり扉が開いた。まさか、この病室へ入って来るとは。少年は、喋ってもいない口元を押さえた。

 ドア枠に現れたのは、医師と思しき眼鏡を掛けた男と、スーツに身を包んだ営業職らしき女。さすがに場を弁えたのか、ふたりはそこで口論を中断した。

 憮然とする女を放置し、医者は室内に視線を走らせる。悠太には一瞬目を留めただけで、男はすぐにマリアと目を合わせた。

「マリアちゃん、こんにちは」

 マリアちゃんという呼び方に、悠太はなぜかイラッとしてしまう。

 一方、マリアは少年の嫉妬を無視して、挨拶を返す。

「こんにちは、エトウ先生」

 悠太は、医師の胸に掲げられた名札を読み上げた。江藤だと勘違いしていた少年の瞳に、別の漢字が映り込む。江東。それが、男の名字だった。

 悠太の視線に気付いたのか、江東は問うような眼差しを向けてきた。誰だ、おまえは。瞼の線が、あからさまにそう尋ねていた。

 自己紹介しかけた悠太に代わって、マリアがその役割を引き受けた。

「この人は、カリヤユウタです」

 そのタイミングに合わせて、悠太は頭を下げた。

 ところが、視界に映る江東の首から下は、直立不動のままであった。挨拶が返ってくる様子もない。子供だと、軽く見られたのかもしれない。不快そうに悠太が顔を上げると、彼の目の前に立つ医師は、驚きに満ちた表情を浮かべていた。

 どこかで会ったのだろうか。悠太が交友関係の網を手繰る前に、マリアは先を続けた。

「エトウ先生、ユウタを知ってますか?」

 我に返った江東は、ポケットに手を突っ込んでしどろもどろした後、首を左右に振った。他人の空似だと断じた悠太は、記憶の追跡を止める。

 よそよそしい空気が流れる中、江東は思い出したようにマリアへと近付き、医師特有の第三者的な顔付きで、話を再開した。

「ちょうど良かった。実は、君のお父さんに相談したいことがあってね。寄付金のことなんだが……」

「それについては、父からメッセージがあります」

「メッセージ?」

 前後関係の狂いに戸惑ったのか、江東は、マリアに話を預けた。

 言葉のバトンを受け取ったマリアは、躊躇いなく先を継ぐ。

「寄付金の件は、なかったことにしてください」

「……」

 病室は、静まり返った。クリスの人工的な、それでいて穏やかな寝息だけが、悠太の背中をくすぐる。詳しい事情は分からなくとも、これが江東にとって重大事であることだけは、少年にもはっきりと感じ取ることができた。

 沈黙が続く。それを破ったのは他でもない、マリアだった。

「今日は、これを伝えに来ました。私は帰ります」

 呆然とする江東の横をすり抜けて、マリアは病室を出て行く。江東が慌ててそれを制したのは、彼女の細い足首が、病室と廊下の仕切りを飛び越えようとしたときだった。

「ちょ、ちょっと待ってください!」

 敬語に切り替わった江東の呼びかけに、マリアはそっと伏し目がちに振り返る。

「何でしょうか?」

「き、寄付していただけないというのは、どういうことでしょうか?」

 ふたりの立場は、完全に逆転していた。そのことは、大人の事情に疎い悠太にも、手に取るように分かる。マリアもそれを承知しているのか、それとも生来の鉄面皮がそうさせるのか、酷く冷たい調子で答えを返した。

「自分の子供のためにお金を出すのは、寄付にならないと言われたそうです。ですから、この話はなかったことにしてください。……以上が、父からのメッセージです」

 訃報を伝える使者のように、淡々と事情だけを告げ、マリアは爪先で廊下に触れた。

 江東から顔を背けると、別れの挨拶を述べる。

「では……失礼します……」

 ドアのそばに立っていた女は、脇へと避けた。

 マリアが左手へ曲がるとき、彼女の白い肌が、蛍光灯の明かりに輝いて見えた。

「ユウタ、また今度ね……Chris, till tomorrow morning……」

 そう言い残して、マリアはドア枠から消えた。後には、モデルに抜け出された額縁を眺めるように、ふたりの男が取り残されていた。

 男たちがしばらく廊下の壁を見つめていると、先ほどの女が、ひょっこりと病室を覗き込んできた。女は、わざとらしくおどけつつ、江東に声を掛ける。

「あのう……今のが例の寄付金ってことは……ないですよね?」

 黙って頷き返す江東。

 女の顔が青ざめる。

「こ、呼吸器はどうするんですか⁉」

「代金を支払えないので……キャンセルを……」

「そ、そんな……!」

 女は、マリアの去った方向を振り仰ぎ、拳を構えた。

「私、彼女を説得してきます!」

 女はサッと身を翻し、パタパタとやかましい足音を立てて、廊下の奥へと消えて行った。未成年者を説得してどうするのだと、悠太は素朴な疑問を抱きながら、江東の横顔に視線を移す。

 この男、マリアを追わないのだろうか。ずいぶんと冷静な人間だ。悠太が客観的な感想を抱いた途端、江東はこちらに顔を向けてきた。視線を逸らそうとした悠太だが、病室内には目を留める場所もないので、仕方なく医師の眼鏡にそれを固定する。

「君は、ほんとにカリヤユウタくんなんだね?」

 江東はなぜか、少年の氏名に興味を示した。悠太は心なし、眉をひそめる。

「は、はい……僕が仮屋悠太です……」

「どういう漢字を書くの?」

「はい?」

「名前の書き方は?」

 悠太は訝しがりつつも、それを医者に説明した。

 すると江東は、顎に手を添え、何やらぶつぶつと呟いた後、ある単語を発する。

「ユダ……」

 空耳だと自分に言い聞かせようとしたにもかかわらず、悠太は顔色を変えてしまった。演技下手なことを悔やみつつ、医師の名前を分析する。江東……この落ち着きのある性格……該当する使徒は、ひとりしかいない。

 多少のリスクには目を瞑り、悠太はある可能性を口走る。

「ペトロさん?」

「そうか……やっぱりユダくんか……」

 謎解きを終えたふたりの間に、奇妙な親近感が芽生えていく。そのことを、悠太は肌で感じ取っていた。

 駅前や本屋よりは、使徒の邂逅場所として相応しい。けれども、自分たちをここへ誘ったものの正体が、悠太には判然としなかった。偶然か、それとも誰かに情報をリークされたのか。悠太がそう尋ねかけたところで、江東は唇に指を添えた。

「ここはまずい……私の診察室へ行こう」

 江東はそう言うと、黙って病室を出て行く。悠太は、最後にちらりとクリスの寝顔を盗み見て、それから彼の後を追った。少年との関係を他の通行人に悟られたくないのか、江東は終始距離を取っている。振り向きもせずに階段をひとつ降り、右手の角を曲がって三番目の扉を開けた。悠太がそこへ飛び込んだとき、江東は診察机の椅子に腰を下ろしていた。

 まごつく少年に、江東は目で合図する。ドアを閉めろと言っているようだ。悠太が後ろ手に扉を閉めると、江東は席を勧めてきた。患者用の椅子だ。悠太はおっかなびっくり、尻をつける。その瞬間、心地の良い香りが、少年の鼻孔を掠めた。けれども少年は、薬品の匂いだろうと思い、自分の嗅覚を無視した。

 早速、本題へと斬り込んでいく。

「どこで僕の情報を入手したんですか?」

 江東は眼鏡を光らせ、診察時の冷たい態度で言葉を返す。

「それは教えられない」

 インフォームドコンセプト違反に怒りつつも、悠太は敢えて意義を申立てなかった。しつこく訊いたところで、どうせ答えてはもらえないのだ。下野たちとの密談を通じて、諦観が彼を支配し始めていた。

「まさかペトロさんが、お医者さんだとは思ってませんでしたよ……」

「それはこっちの台詞だよ……高校生が混じっているとは……」

 お互いに驚きを交わしながら、今度は江東が問いを放つ。

「ユダくんは、他の使徒に会うのは初めてかい?」

 毎回毎回自分ばかりが尋問されることに、悠太はだんだんと慣れ始めていた。年齢が悪いのか、それとも自分の性格が律儀過ぎるのか……その両方だろうと観念し、少年は素直に答えを返す。

「いいえ……他にも何人か、会ったことがあります……」

「何人か……? いったい誰に?」

「それは教えられませんよ」

 些細な仕返しに、江東は軽く肩をすくめた。一本取られたという表情だ。

「悪い悪い……でも、シモンたちが死んだとなれば、私たちはいろいろ情報交換しなきゃならないだろう? 違うかい?」

「死んだ……? ペトロさんは、死んでないと仰ってましたよね?」

 またまた一本取られた格好に、江東は苦笑した。

「やれやれ……本気にしないでくれよ……あれは、場を和ませるための方便さ」

「方便って……そんなことで議論を妨害してたんですか?」

「確定的な証拠はないんだから、仕方ないだろう?」

 その理由付けには、悠太も納得せざるをえない。彼自身、シモンたちが死んだ証拠を手元に隠しておいたのだ。ペトロだけを非難するわけにはいかなかった。

 そう考えた悠太は、少し別の方向から攻めてみることにする。

「さっきの女性は誰ですか? 彼女も使徒だとか、そういうことは?」

 指示対象を一瞬把握できなかったのか、江東は椅子の角度を微妙に変えた。

「ああ、長谷川さんか……彼女は医療器具メーカーの営業マンだよ。ただ……」

 江東はそこで、言葉を切った。

「ただ、何ですか?」

「いや、ちょっと笑っちゃうようなことなんだが……彼女の名前が円子なんだよ。円周率の円に、子供の子って書くんだけどね……」

 説明の間も、江東はささやかな笑みを漏らしていた。

 少年もそれに釣られ、口元を綻ばせる。

「ハハッ、まさかそんな……」

「あのう……そのまさかなんですけど……」

 突然聞こえた女の声に、ふたりは椅子から飛び上がった。比喩ではなく、本当に腰を上げて、辺りを見回したのだ。すると、診察台の前に掛けられているカーテンの端から、恐る恐る長谷川が顔を覗かせた。

 自殺行為だったか。少年は、着席時に漂った香りを思い出し、死を覚悟した。

 けれどもその瞬間、悠太は、長谷川が放った言葉の意味を了解する。

 そのまさかなんですけど……長谷川は、確かにそう言った。

「ってことは……」

 顔を引きつらせる悠太に、長谷川は営業スマイルを浮かべ、挨拶する。

「ご、ご紹介が遅れました……私がマルコです」

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