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強烈な海風が、潮の香りを運んでくる。風が耳元で割れ、音の砂礫と化す。隣に座る少女のくすんだブロンドのなびきを、悠太は横目がちに追っていた。
ここはT海浜公園。大層な名前だが、超がつくほどローカルな公共広場である。海沿いの土手を削り、海水浴場と直結させた半人工的な空間に、親子づれや若いカップルの姿をちらほらと見ることができた。歩いているのか走っているのか見分けがつかない年配の男性も、この季節の風物詩であった。
悠太は通行人たちから目を逸らし、遠くに見える瀬戸内海の絶景を眺めた。ただそれは景色を楽しむためではなく、意識だけは隣の美少女にまっすぐと向けられている。
デート。なぜあのメールをデートの誘いと思い込んだのか、それは少年にとって、ひとつの謎であった。普段はお洒落に気を使わない悠太も、この日ばかりはクローゼットの中からあれこれと衣装を取り出し、鏡の前で見比べ、さらには前髪の角度まで調整してきたにもかかわらず、マリアは制服姿で最寄りのT駅に現れた。おめかしした様子などない。
だが少年を襲ったのは、落胆よりも先に、賛嘆であった。それでも彼女は美しい。恋の病の重症さに呆れつつ、悠太は彼女をこの公園までエスコートした。坂道を上る途中、悠太の心臓はひたすらに奇妙なリズムを打っていた。不整脈に怯えながら、少年はなるべくマリアを視界に入れないよう、先頭を歩き続けた。
公園に辿り着く前にも後にも、ほとんど言葉を交わしていない。何を話していいのかすら分からなかった。話題も自然と、当たり障りのない表面的なものになってしまう。
このままではいけない。悠太は、数分ぶりに会話を再開した。
「それにしても、よくこんなマイナーな場所を知ってたね」
悠太は、半分時間つぶしに、半分真面目にその問いを放った。悠太自身、ここへ来ることは滅多にない。アクセスがやや不便なのだ。只居の老人ホームと同様に、田舎の人間は自動車で移動するのが当たり前、という前提で作られている。
同級生から聞いたのだろうと、悠太は大した答えを期待していなかった。
「私は、この町で育ったから……」
少年は、自分の耳を疑った。風音に騙されたのではないか。そう思ったのだ。
「え? 君は、アメリカで育ったんじゃないの?」
悠太は、曖昧に泳がせていた視線を正し、はっきりとマリアの横顔を見つめた。マリアは波打ち際に瞳を輝かせながら、少年の疑問を解き明かしていく。
「生まれたのはカリフォルニア……でもその後、五歳のとき日本へ来たんだよ。それから十歳までここにいて……またアメリカに帰ったの……」
「そうなんだ……」
通りで日本語が達者なわけだと、悠太は些細なことに納得しながら、ふと耳を澄ます。
……空耳だろうか。激しい息遣いが聞こえる。およそ人間のものとは思えぬそれは、だんだんと少年の背後から近付いて来ていた。
悠太が振り向いたとき、紅茶色をした毛玉の塊が、彼の視界を覆った。
少年がベンチから転げ落ちそうになったとき、肩に柔らかな手が触れた。その正体を確認する間もなく、聞き知らぬ女の声が届く。
「こらペコ! 止めなさい!」
悠太は、顔を舐め回す舌と、湿った荒い鼻息に、襲撃者の正体を悟った
「おいッ! 離れろってばッ!」
悠太は腕をめちゃくちゃに振り回し、犬を追い払った。袖口で、顔の涎を拭う。放し飼いは禁止だろうと憤りつつ、悠太は飼い主の顔を見た。三つ編みをぶら下げた、そばかすのある若い女だった。
女は申し訳なさそうに腰を屈めながら、犬の首輪を掴んでいる。
「すみません、リードが外れちゃって……この子、先日まで目が見えなくて、はしゃぎ過ぎちゃってるんです。赦してあげてください」
少年は、ペコと呼ばれた犬に視線を移す。品種には詳しくない悠太だが、両親のどちらかにケアンテリアを持つ、雑種のように思われた。もっさりとした毛が目元を覆い、傷跡すら判然としなかった。
「目が……見えなかった……?」
「はい、交通事故で」
女に促され、悠太は犬の顔を覗き込む。じっくり目を凝らすと、顔の左半分の毛が、ところどころ不自然に抜けているのが分かった。
もう少し近くで見ようと、体を乗り出した瞬間、ペコはワンワンと悠太に吠えつき、四つ足で砂を弾いた。女に首輪を引かれ、前足を空中でパタパタとさせる。
愛嬌のある動作に、悠太は思わず破顔してしまった。マリアも隣で、くすくすと笑っている。彼女の笑顔を見るのは初めてだ。悠太は、ペコに感謝した。
ただその一方で、悠太は疑念に駆られる。
「すみません」
リードをつけ直していた女は、手を休めて顔を上げた。怪我でもさせてしまったのかと、少しばかり焦っているように見える。
「ちょっとお訊きしたいんですが……その犬はこの間、駅前で……」
女は、複雑な笑顔を浮かべた。
少年はそこに、うんざりしたような諦めの境地を感じ取った。
「ええ……怪我は大したことなかったんですが、失明してしまって……でも、すぐに治ったんです」
「カミサマの力で、ですか?」
悠太の質問に、女は顔をしかめた。
「周りの人はそう言うんですけど……キセキのワンちゃんとか何とか……ただ私は、この子の目が見えるようになったのは、獣医さんのおかげだと思ってます」
女はそう言うと、ペコの頭を撫でた。前髪が掻き分けられ、ビー玉のように大きな瞳が、ぎょろりと悠太の方に向けられた。
「簡単に治る怪我だったんですか?」
「いえ、最初はもう治らないと言われたのですが……辛抱強く診てくださって……」
「だったら、キセキなんじゃないですか?」
悠太は、自分が間違ったことを言っているとは思わなかった。女の方が、よほど不合理に感じられる。治らない怪我が治るから、キセキなのだ。少年はそう思う。
女は、犬の頭から手を離した。適当な言葉を探しているようだ。主人を妨げないように、ペコもまた暴れるのを止め、おとなしく舌を出して喘いでいた。
女が唇を動かしたとき、ふたりの間を、風が通り過ぎる。
「そうかもしれません……でも……この子が助かったのは、病院まで連れてってくださった見ず知らずの方と……順番を譲ってくださった他の飼い主の方々と……それからやはり獣医さんだと思います。それをキセキの一言で片付けてしまうのは……何だか……」
女は言葉を切った。悠太がいくら待っても、先を続けようとはしない。
彼女はふっ切れたような笑みを浮かべ、少年に別れを告げる。
「どうも、お騒がせしました」
リードをつけ直した女は、去り際にもう一度頭を下げ、右手の小道へと消えて行った。
悠太は、女の姿が垣根に見えなくなるまで、ぼんやりとその背中を追う。そして、ぽつりと呟いた。
「ボランティアか……」
その途端、左手から淡い視線を感じ、悠太はハッとなった。
少年が振り向くよりも早く、マリアは優しい吐息とともに、言葉を発した。
「ユウタは、何かボランティアしてるの……?」
聞き取られて欲しくないことほど、はっきりと伝わってしまうものだ。悠太はそのことを不思議に思いながら、頭の中であれこれと、言い訳をこねくり回す。
「実はあの犬に、餌をあげたことがあってね……別に恩を着せたわけじゃないんだけど……お返しなんか期待してなかったし……」
「ユウタのこと覚えてたから、遊んで欲しかったんだと思うよ」
なるほど、それはいい勘違いだ。悠太は、満足げに頷き返した。マリアの誤解に感謝する一方で、少年は再び、彼女との関係に没頭した。
すると、例のこそばゆい居心地の悪さが、悠太の背中を這い回り始めた。自分を落ち着かせようと、海岸沿いのシュロの木に、視線を伸ばす。いつまでこうしているのだろうか。帰りたいというわけではない。むしろ、出来るだけ長くマリアと一緒にいたいと思うのだが、相方の目的が分からなかった。
マリアは何をしたいのだろうか。もうすぐ昼食時だ。あらかじめ調べておいた店に案内しようかと、悠太が下心を覗かせたところで、彼女が先に口を開く。
「ユウタは、私に何かヒミツがある?」
風に流れる髪の向こう側から、少女はそう尋ねた。何か気取られたのだろうか。悠太は、微妙に体を動かす。爪先が逃げるように、砂の上を滑っていく。
沈黙を守る少年に、マリアは先を継いだ。
「ねえユウタ、ヒミツをひとつずつ交換しない?」
「え……?」
「物々交換だよ」
言葉の意味を履き違えているのではないか。そう訝った悠太だが、この提案それ自体にも大きな疑問を抱いた。秘密とは、交換し合うものではない。誰にも知られないことにこそ、意義があるのだ。他人に漏らした瞬間、秘密は秘密でなくなり、持ち主の手を離れて、雲のように放浪を始める。悠太は、そう信じていた。
しかし、マリアの秘密を覗いてみたいという気持ちが、少年の信念を上回った。楽な仕入れだと、悠太は自分の商品を値踏みし始める。
軽蔑されるようなネタはいけない。あれでもないこれでもないと候補を絞る少年に、マリアが催促をかけた。
「いっぱいあるの?」
「いや……そういうわけじゃ……」
悠太は、言葉を濁す。
いつの間にか、風が凪いでいた。
「何でもいいんだよ?」
「何でも、か……」
そういう注文が、一番困る。内心で抗議をする中、少年は無意識のうちに、舌を動かしていた。
「例えば、君のことが好きとか……」
……自分は何を言っているのだ。悠太は、顔から血の気が引き、それから一気に耳元まで赤くなるのを感じた。慌てて否定しようにも、その方法が分からない。君のことが好きではないと、反対を言ってしまえばそれで済む話だが、それは嘘である。真実を嘘で上書きすることに、悠太は言いようのない抵抗感を覚えた。
混乱して口が利けない少年に、マリアはトドメの一撃を放つ。
「ユウタ、病院へ行こう」
今まさに、青春が終わった。悲嘆にくれる少年を無視して、マリアは颯爽と腰を上げた。
蘇った風に身を委ね、少女はそっと声を震わせる。
「そこに、私のヒミツがあるの」




