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 フラットな感触が、背中一面を覆っていた。どうやら、床のようだ。そのことに気付いた悠太は、うっすらと瞼を開く。天井が見えるものと思い込んでいた彼の視界に、見知った友人の顔が飛び込んできた。

「オーイ? 生きてるか?」

 真飛の声は、少々間が抜けていた。心配している様子もない。

 突然の衝突事故を思い出しながら、悠太は両肘をついて、上半身を起こす。

「真飛……どうしたの? 補習?」

 悠太の額に、真飛はチョップを決めた。本人はおふざけのつもりだろうが、かなり痛い。

 悠太は額をさすりながら、両足を地面につき、そのまま立ち上がった。ズボンに付着した埃を払い、もう一度同じ質問を繰り返す。

「で、補習なの?」

「ちげえよ。年がら年中赤点取ってるみたいに言うなって」

 実際期末で、半分くらい赤点だったではないかと、悠太は突っ込みかけた。

 だがそれよりも早く、真飛は先を続けた。

「おまえこそ、こんなところで何やってんだ?」

 瑠香の絵を見に、と言いかけた悠太は、慌てて舌の動きを修正する。

「生徒会の用事でね」

「夏休みにか?」

「……そうだよ。真飛こそ、何でここにいるのさ?」

「俺はこれを取りに来たんだ」

 そう言って真飛は、背中の袋を指差した。それが体操着であることは、悠太にもすぐに察しがつく。

 しかし、真飛は純粋な帰宅部員である。体操服が入り用なシチェーションなど、夏休みには見当たらない。悠太の疑問に気付いたのか、真飛は自ら説明を加えた。

「ベースの連中と、バスケしに行くのさ」

「ああ……そういうこと……」

 悠太は納得したように、友人の顔を眼差した。真飛は父親が自衛隊の関係者で、海兵隊にも同世代の知り合いが多い。基地内には公園もあり、そこで日米親善試合に興じていることは、クラスでも周知の事実である。もっとも、悠太がその場に居合わせたことはなかった。

 ふと悠太は、自分がここへ来た目的を思い出した。

「ところで、マリアさん見なかった?」

「へ? ……須賀を?」

 転校生を下の名前で呼んでしまったことに、悠太は気恥ずかしくなった。男子の間では、須賀さんという呼称が一般的である。

 悠太の羞恥心を他所に、真飛は袋の紐を弄りながら、答えを返す。

「見なかったって言われても、基地は広いからな……」

 どうやら真飛は、質問の意味を取り違えてしまったらしい。訂正しかけた口元を、悠太は慌てて押さえた。変に勘ぐられはしないだろうか。街中ならともかく、ここは校舎だ。マリアを探すには、少々場違いである。

 そう思った悠太は、真飛に勘違いさせておく道を選んだ。

 悪友は誤解に頭を悩ませた挙げ句、パチンと指を鳴らす。

「そうだ、思い出したぜ!」

 まさか基地内で、マリアを実際に見たと言うのだろうか。悠太はその可能性に、若干の期待を寄せた。

 ところが真飛は、予想の斜め上を行った。

「須賀は確か、毎朝七時くらいに家を出て、どっかへ行ってるって噂だ」

 怪し気なリーク。どこからその情報を仕入れてきたのか、悠太は不審に思う。

 だがそれよりも、情報の中身の方が、遥かに悠太の関心を引いた。

「七時……? それは夏休みが始まる前から?」

「そう」

「そんな時間に、どこへ行ってるの? ひとりで? 何のために?」

 矢継ぎ早な質問に、真飛は肩をすくめた。

「そこまでは知らねえよ。基地の女に聞いたんだ」

 真飛の交友範囲の広さに、悠太はあらためて驚かされた。

 それにしても、七時というのは、明らかにおかしな数字であった。正確に計ったことなどないが、その時刻に基地を出れば、七時半には校門につくだろう。けれども悠太は、マリアをその時間帯に見た記憶がない。彼が教室にほぼ毎朝一番乗りするという風習は、あれからもずっと続いているのだ。

 悠太は、真飛に肩を叩かれるまえで、思考の海に沈静していた。

「じゃ、俺はもう行くから」

「……僕も行っていいかな?」

 悠太の問いに、真飛は眉をひそめる。

「行くって……ベースにか?」

「うん、たまには覗いてみたいと思って」

 秘密の花園というわけではない。毎年こどもの日になると、普段は立ち入り禁止になっている施設が、一般開放されるのだ。軍人が営む屋台や戦闘機の試乗など、市民との交流が行われ、その日は道路が大渋滞に陥る。

 消えたマリアの行方を探るため、悠太は基地へ行きたいと思っていた。モデルを解雇された以上、学校に留まっている可能性は低いからだ。

「おまえは登録してないから、無理だと思うぞ?」

 少年のささやかな願いは、あっさりと打ち砕かれた。

「どうしても?」

「ああ……俺の友人だっつっても、ダメだと思うな……」

 悠太は、がっくりと肩を落とす。

 あまりの落胆ぶりに驚いたのか、真飛は励ますように、歯を見せて笑った。

「ま、ダメもとで行ってみるか。案外、適当だったりするしな」

 そう言って真飛は、玄関へと向かい始めた。悠太もそれに追いすがる。

 炎天下の日差しに飛び出したところで、それは起きた。

「仮屋悠太くん?」

 悠太は最初、教師か用務員の呼びかけだと思った。そのため、左手方向にスーツ姿の男を認めたときは、思わず喫驚しかけた。猛暑のせいか、男は上着を肩にかけ、ネクタイも外して胸元を緩めていた。サラリーマンにしては、かなりずぼらな格好。およそ夏休みの学校に相応しくない、異物のような存在感。

 けれども男の顔は、真剣そのものだった。年上の放つ気迫に飲まれ、ふたりの少年は歩を止める。

「君が、仮屋悠太くんかな?」

 額から流れる汗もそのままに、男は同じ問いを口にした。

「はい……僕が仮屋ですけど……」

「私は、こういう者なんだが……」

 男はそう言うと、ポケットから手帳を取り出し、悠太に掲げて見せた。

 逆光でよく見えない。目を細める悠太の横で、真飛が囁く。

「おい……警察だぞ……」

「え?」

「I市警の平戸と言う者だ。ちょっと尋ねたいことがあってね」

 平戸と名乗った男は、そこで口を閉じた。じっと悠太の目を見つめ、返答を待っている。

 職質をされた経験すらない悠太は、激しく動揺した。そこへ、真飛が助け舟を出す。

「俺たち、これから用事があるんですけど、悠太が何かしたんですか?」

 平戸は突然、表情を緩めた。そして、言葉を継ぐ。

「仮屋くんが何かしたというわけじゃないんだ。春園舞さんの人身事故の件で、少し調べたいことがあってね……仮屋くんは、第一発見者なんだろう?」

 第一発見者。その言い回しに、悠太は不吉なものを感じた。まさか、自分が突き落としたと疑われているのではないだろうか。

 少年の心を掴んだ不安は、すぐにその手を放す。電車の運転手は、春園が自分で線路に落ちたと証言したではないか。殺人の可能性はないのだ。少なくとも、使徒の存在を知らない者にとっては……。

「分かりました。何でもどうぞ」

 悠太は屹然として、平戸へ歩み寄った。背後から真飛の視線を感じ、一旦振り返る。

「ごめん、基地の話は、また今度で」

「あ、ああ……じゃあな……」

 真飛は、友人を心配するように何度か振り返った後、校門から姿を消した。その間、平戸と悠太は太陽の下で、お互いの出方を窺っていた。こめかみから流れる汗が、悠太の首筋を伝ったところで、平戸が口を開く。

「ここは暑い……どこか日陰に行こう」

「あちらにベンチがあります。ご案内しますよ……」

 悠太は刑事を連れ、グラウンドの端にある、小さな林のそばへと向かった。学期中ならば生徒で溢れ返っている木陰も、今は閑散としている。葉の間から漏れ落ちた光の粒子が、ひらひらと地面の上で舞うだけだった。

 その光を一身に受けながら、悠太と平戸は、ベンチに腰を下ろす。平戸は辺りの情緒に心を鎮めることなく、すぐに本題へと入った。

「君は、春園さんとあの日、駅で会ったんだね?」

「……はい」

「それは偶然? それとも待ち合わせかい?」

 平戸は、探るような眼差しで、言葉を切った。

 男の底知れぬ瞳に、悠太は警戒心を抱く。安易に嘘は吐けない。

「……たまたまです」

「そうか……まあ、そうだよね……」

 平戸は、素直に納得したような素振りを見せた。それが単なるフリなのか、それとも本当にそう信じてくれたのか、悠太には判断がつきかねた。

 そんな中、平戸は話題をあらぬ方向へと変えて行く。

「ところで、下野洋助って人を知ってるかな?」

 何が「ところで」なのか、悠太は話のロジックを繋ぎ合わせることができなかった。しかも、話の対象がシモンであることに、少年は二重のショックを受ける。

 悠太が口をぱくぱくさせていると、平戸は覗き込むように、前傾姿勢をとった。

「知らないのかい?」

「いえ……知ってます……」

 悠太は、正直に答えた。悠太はこのとき初めて、下野が町の有名人であることに、深く感謝した。

 だが、その安堵も束の間、平戸は探りを入れてくる。

「それは、どういう意味で?」

「どういう意味でって言われましても……結構有名な人ですし……」

「変人ってことだね?」

 平戸の直球に、悠太は黙って頷き返す。

「それなら、彼が死んだことも知ってるね?」

 悠太はもう一度、首を縦に振った。

「実はね、これがその現場なんだが……」

 平戸はおもむろに、胸ポケットから一枚の写真を取り出した。それが何であるかは、悠太にもおおよその察しがつく。

 職業的な習慣になっているせいか、それともグロテスクではないからか、平戸は死体の写真を躊躇なく、少年に差し出した。悠太は片手でそれを受け取り、視線を落とす。

 そこに写っているのは、確かにあのシモンだった。苦しそうな表情を浮かべ、胸に手を当てたまま、床の上で絶命している。心臓発作というのは、本当だったらしい。

「……これが、どうかしたんですか?」

「その顔に、見覚えはないかい?」

「見覚え?」

 悠太の背中に、悪寒が走った。もしかして平戸は、自分と下野との間に、何か個人的な関係があることを嗅ぎ付けたのではないだろうか。

 ……いや、ありえない。いったいどうやって、使徒と使徒との接触を知ることができるというのか。悠太はその可能性を、全力で否定したかった。それに、もし平戸がユダの正体に気付いたとしたら、自分はとっくに死んでいるはずではないか。

 そう考えた悠太は、気分を軽くし、下野の死体から顔を上げた。

「いえ、知りません」

「顔を見たことがないの?」

「……あります。街頭演説とか、ネット動画とか……でも、個人的に会ったことはありませんね」

「そうか……」

 平戸はそう呟き、右手を差し出してきた。写真を返せということらしい。そう解釈した悠太は、刑事にそれを返却する。

 平戸はそれを、壊れ物でも扱うかのように、慎重に胸ポケットへと収めた。そこまで大事な証拠品なのだろうかと、悠太は内心首を捻った。

「仮屋くんは、この町で育ったの?」

 二転三転する話題に、悠太はだんだんと、頭が混乱し始めてきた。林の奥から吹き付ける涼やかな風がなければ、何を口走るか分からない状況にまで追い込まれている。

 悠太はとりあえず、成り行きに任せてみることにした。

「はい……生まれてからずっと……」

「私もそうなんだよ。高校を卒業したときは、大阪か東京にでも出ようかと思ったが……まあ、何のことはない、住めば都って奴さ」

「平戸さんは、ここの卒業生なんですか?」

 悠太の質問に、平戸はニヤリと笑ってみせた。

「そうだよ。いわゆるOBって奴だな」

 何の前触れもない会話に、悠太は集中することができなかった。なぜ平戸が自分の経歴を告白し始めたのか、訝しく思う。

 取調べは終わったのではないだろうか。そう考えた悠太は、この場を離脱する算段に取りかかった。どう切り出したものか迷っていると、先に平戸が言葉を継いだ。

「仮屋くんは、下野洋助の考えについて、どう思う?」

 転々とする会話のキャッチボールを、少年は受け損なう。

「考え……?」

「下野は、世の中を変えたかったみたいじゃないか。それについて、どう思うのかってことさ。僕はね、ああいうのもアリかなと思うんだ」

 平戸はそこで口を噤むと、グラウンドへ視線を伸ばした。悠太も、それを追う。真っ白な砂上を走る陸上部と、トラックの中央で体操に勤しむサッカー部員たちの姿が、遠い異国の出来事のように、輝いて見えた。

 政治議論になったことを不思議に思いつつ、悠太は唇を動かす。

「僕は……反対ですね……」

 少年の回答に、平戸は一瞬だけ口元を歪めた。別の答えを期待していたのだろうか。

 けれども悠太は、淡々と自分の見解を述べる。あの日、下野と対峙したときのように。

「ああいう……悪人を順番に除いていけば、社会が善くなるっていう考えは、間違いだと思います……」

「だけど、それが私たち警察の仕事だからね」

「でも平戸さんは、犯罪者を片っ端から殺してるわけじゃないでしょう?」

 見かけだけの討論は、幕を閉じた。

 平戸は腰を上げ、そばに投げてあったスーツに手を掛ける。

「どうもありがとう。時間を取らせてしまったね」

「いえ、別に……」

「それじゃ、また会おう」

 そう言い残して、平戸は去って行った。男の精悍な背中を見送る間、少年は最後の挨拶に思いを馳せる。あの刑事は、再び自分と顔を合わせる気なのだろうか。それとも、さよならを言い換えただけなのだろうか。

 掴みどころのない不安が、悠太を襲う。そこへ、柔らかな人影が差した。

「ユウタ、見つけたよ」

 振り向くと、そこにはマリアが立っていた。白い肌の上を木漏れ日がちらつき、彼女の幻想的な雰囲気を、妖しいほどに高めている。

「マリアさん……どこ行ってたの……?」

「ユウタは、何をしてたの?」

 質問を質問で返された少年は、美術室の一件を思い出し、スッと腰を上げた。平戸のことは、既に少年の頭から消え去っていた。

「マリアさん、さっきの瑠香との話なんだけど……あれはちょっと酷いよ」

 少年のぼやかした非難に、マリアは動じなかった。いつもの無表情な顔で、少年を見つめ返してくる。

「あれは、私とルカさんの問題だよ」

「問題……? 僕がいないときに、喧嘩でもしたとか……?」

「喧嘩じゃないよ……ただ……」

 マリアはふと、薄い緋色の唇を結んだ。

「ただ?」

「ルカさんと私は、似た者同士だから……」

 抽象的な比較に、悠太は思考を停止させた。

 何が言いたいのだろうか。悠太は敢えて、その意を問うてみる。

「それは、どういう意味で……?」

「駅まで一緒に帰ろう、ユウタ」

 吹っ切れたように、マリアは歩き出した。

 質問をはぐらかされた悠太は、黙って後を追う。校門の手前で振り返り、悠太は三階の美術室を見上げた。瑠香の在室は知れない。窓辺に憩う一羽の鳩が、連れ添って校舎を去る少年と少女を、寂しそうに見送っていた。

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