第1話 王太子殿下の愛しい婚約者
王宮の大広間には、今宵も華やかな音楽が満ちていた。
天井から吊るされた無数のシャンデリアが黄金の光を降り注ぎ、磨き上げられた大理石の床には、色とりどりのドレスを纏った貴婦人たちの姿が映り込んでいる。
楽団が奏でる優雅な旋律。銀の盆に載せられた美酒。絹の衣擦れと、貴族たちの上品な笑い声。
王国の繁栄を象徴するような、絢爛たる舞踏会だった。
その中心に、ひときわ人目を引く男女がいた。
「今宵も美しいね、ヴェルシェリア」
「まあ、殿下。わたくしなど、殿下のお隣に立つにはまだまだ未熟ですわ」
柔らかく微笑むのは、公爵令嬢ヴェルシェリアた・ポインセット。
夜の帳を思わせる艶やかな黒髪に、宝石のような瞳。身に纏う深紅のドレスは彼女の白い肌を際立たせ、その優雅な立ち居振る舞いは、まるで一幅の絵画のようだった。
彼女の手を取っているのは、この国の王太子アシュレイン・ボルシギアナ。
端正な顔立ちに、王族としての気品を備えた青年である。
彼が微笑めば、周囲の令嬢たちは頬を染め、彼が一言語りかければ、年若い貴族たちまでもが憧憬の眼差しを向ける。
そんな2人が婚約者同士なのだから、社交界の人々が羨望を抱くのも当然だった。
「謙遜を。君ほど美しく、聡明で、慈悲深い女性を私は知らないからね」
「殿下ったら、皆様がお聞きになっていますわ」
「事実を申し上げているだけだよ」
アシュレインはヴェルシェリアの手を取り、恭しく口づける。
その仕草に、周囲から感嘆の吐息が漏れた。
なんと睦まじいことか。
なんとお似合いの2人なのだろう。
王太子は婚約者を心から愛し、婚約者は王太子を深く敬愛している。
誰もがそう信じて疑わなかった。
実際、その認識は間違っていない。
ただし彼らが想像する愛情の形と、2人のそれが大きく異なっているだけのことだった。
「ところで、ヴェルシェリア」
アシュレインが彼女の腰に手を添え、次の曲へと誘う。
「先ほど、グレイヴ伯爵が随分と落ち着かない様子だったね」
「ええ。どうやら、今夜はあまりお酒がおいしくないご様子でしたわ」
「それはお気の毒に」
「本当に。あの方、いつもは随分とお酒に強いと伺っておりますのに」
2人は微笑み合った。
周囲の人間には、他愛もない世間話にしか聞こえないだろう。
けれど、2人の間では別の意味が交わされていた。
グレイヴ伯爵。
王国の財務を担う貴族の一人であり、近年は慈善事業にも熱心な人物として知られている。
孤児院への寄付。貧民街への食糧支援。地方の教会への多額の献金。
社交界では、彼を慈悲深い人格者と称える声が絶えなかった。
その一方で、彼が管理する地方領では、領民たちが重税に苦しんでいた。
納められた税の一部は、王都へ送られる前に消えている。伯爵は帳簿を改竄し、浮かせた金を私財へと変えていた。
逆らう領民は見せしめに罰せられ、訴えを起こそうとした者は、いつの間にか姿を消す。
慈善事業に使われていた金も、実のところは横領した財産のごく一部にすぎなかった。
彼は領民から奪った金で善人の仮面を買い、王都では慈悲深き貴族として振る舞っていたのである。
そして今夜、その仮面が剥がされることは、すでに決定していた。
「証拠は十分ですわ」
ヴェルシェリアはアシュレインの胸元に手を添え、踊りながら囁いた。
「改竄前の帳簿、裏帳簿、取引先の証言。伯爵が口封じのために雇った者たちの記録も揃っております。領民から奪った税の流れも、ほぼすべて追跡できました」
「見事だね、さすがは君だ」
「お褒めにあずかり光栄ですわ」
彼女は嬉しそうに微笑んだ。
その笑顔は、どこまでも可憐だった。
彼女の集めた証拠が、一人の貴族を破滅へと導くものであることなど、傍目には想像もつかないだろう。
「伯爵は明朝、財務官の職を解かれる。その後、王家への反逆および国庫横領の容疑で身柄を拘束する予定だよ」
「上出来かと思いますわ。もっとも、伯爵本人はまだ、ご自身の未来をご存じないようですが」
「ああ、さっきも私に、次の慈善事業への援助を願い出てきてたよ」
「まあ。随分と熱心でいらっしゃるのですね」
「実に感心したさ、自分が奪った金を返すつもりもないというのに、さらに王家から金を引き出そうとするとは」
「殿下。お顔に出ておりますわ」
「おや、失礼」
アシュレインは、いっそう甘やかな笑みを浮かべた。
「君といると、つい本音が出てしまう」
「光栄ですわ、殿下」
ヴェルシェリアは彼の手を握り返す。
彼女の指先は、彼の手袋越しにそっと触れた。
その仕草だけを見れば、愛する婚約者に寄り添う、慎ましやかな令嬢そのものだった。
けれど、彼女の胸中にあるのは、伯爵への怒りでも、正義を成したという高揚でもない。
ただ、淡々とした確信だった。
この国には、切り捨てるべき人間がいる。
切り捨てなければ、守れないものがある。
そして、誰を切り捨て、どこまで手を汚すかを決めるのは、自分たちの役目なのだ。
「ところで、ヴェルシェリア」
「はい、殿下」
「伯爵の後任には、誰を推挙するつもり?」
「そうですわね。横領の穴埋めができるだけの財務知識を持ち、なおかつ自らの懐を肥やすことより、領民の暮らしを優先できる方がよろしいかと」
「理想的だね。だけどそんな人物が都合よく見つかるのかい?」
「おりますわ」
ヴェルシェリアは、少しも迷わず答えた。
「南部の財務監査官、サンテス・クメロイ卿。実務能力は申し分なく、これまで不正の報告を何度も上申しております。残念ながら、伯爵の妨害によって握り潰されていたようですが」
「なるほど。彼ならば、伯爵の不正を知っていた理由も説明でるね」
「ええ。何より、彼は自分の功績を誇示することに興味がないようです。そういう方こそ、王宮には必要かと存じます」
「君の推薦ならば、調べる価値がありそうだね」
アシュレインは満足げに頷いた。
王太子の執務机には、すでに伯爵の処分に関する書類が用意されている。
決裁の印が押されれば、長年にわたって領民を苦しめてきた男の地位は、一夜にして崩れ去ることになる。
その証拠を揃えたのはヴェルシェリア。
処分を決定したのはアシュレイン。
どちらか一人では、ここまで迅速に事を運ぶことはできなかっただろう。
彼女が闇の中から真実を掘り起こし、彼が王族の権限をもってそれを裁く。
互いの役割を理解し、互いの判断を疑わず、必要であれば迷いなく手を貸す。
2人にとって、それは特別なことではなかった。
むしろ、当たり前のことだった。
「それにしても」
アシュレインが、ふと声を潜める。
「君が調査を始めてから、伯爵の周辺では随分と不幸が続いたそうだね」
「あら。不幸だなんて、心外ですわ」
「帳簿を管理していた執事が突然、職を辞したとか」
「ご家庭の事情だそうです」
「取引先の商人が、これまでの不正を自白したとか」
「良心の呵責に耐えられなかったのでしょうね」
「伯爵の側近が、王都から姿を消したとか」
「さあ。わたくしには何とも」
ヴェルシェリアは小首を傾げた。
アシュレインは、とうとう堪えきれないというように笑った。
「君は本当に、恐ろしい方だ」
「殿下にだけは、そのように仰っていただきたくありませんわ」
「おや。私も恐ろしい男だと?」
「まさか」
彼女は彼を見上げた。
そして、誰にも見せたことのない、深く親密な微笑みを浮かべる。
「わたくしの愛する方が、そのような方であるはずがございませんもの」
一瞬、アシュレインの瞳が細められた。
その眼差しには、王太子としての威厳も、社交界で見せる穏やかさもなかった。
ただ、彼女だけに向けられる、底知れない愛情があった。
「……うん、君の言うとおりだよ」
彼は彼女の手を取り、指先に口づけた。
「私は、君の前では何も隠す必要がないからね」
「わたくしも同じですわ、殿下」
楽団の奏でる曲が終わりに近づく。
2人は最後の一歩を踏み、見事な所作で踊りを締めくくった。
大広間から、惜しみない拍手が沸き起こる。
「なんと美しいお2人だろう」
「王太子殿下は、ヴェルシェリア嬢を本当に大切になさっているのね」
「ヴェルシェリア嬢も、殿下を深く愛していらっしゃるのが分かります」
称賛の声が、2人を包み込む。
アシュレインはそのすべてに優雅な微笑みを返し、ヴェルシェリアは恥じらうように頬を染めた。
誰もが満足していた。
王太子には、素晴らしい婚約者がいる。
王国の未来は明るい。
この国は、きっとこれからも繁栄していく。
誰も疑わない。
誰も知らない。
彼らが今、何を語り合っていたのかを。
「それでは、次はどなたを?」
ヴェルシェリアが、扇の陰で囁いた。
アシュレインは微笑んだまま、彼女の耳元へ顔を寄せる。
「北部の侯爵た。軍備費の一部が、隣国の商人を経由して流出している」
「……それは穏やかではありませんわね」
「ええ。単なる横領なら、まだ話は簡単だっただが」
「反逆の疑いが?」
「その可能性がある」
ヴェルシェリアは、ほんの少しだけ目を伏せた。
そして、次の瞬間には何事もなかったかのように微笑んだ。
「では、わたくしが調べてまいりますわ」
「頼もしいね」
「殿下のためですもの」
「私のためだけ?」
問いかける声は、甘く、優しい。
けれど、彼の瞳は彼女の返答を逃すまいとしていた。
ヴェルシェリアは、彼の胸元にそっと手を添える。
「いいえ。殿下と、殿下がお守りになるこの国のためですわ」
「……そうか」
アシュレインは満足そうに微笑んだ。
彼女が嘘をついていないことを、彼は知っていた。
彼女が自分を愛していることも。
彼女がこの国を守るためなら、どれほど手を汚すことも厭わないことも。
そしていつか、自分の命さえ彼女に差し出すことになるかもしれないことも。
彼は、それを恐れていなかった。
むしろ、その日が来ることを想像すると、胸の奥に奇妙な安堵さえ覚えるのだった。
──自分の命を終わらせる権利を、彼女が持っている。
その事実は、彼にとって何よりも確かな愛の証だった。
「ヴェルシェリア」
「はい、アシュレイン様」
彼女もまた、王太子ではなく、ただ一人の愛する男として彼の名を呼ぶ。
「今宵も、君と踊れて幸せだよ」
「わたくしもですわ」
その言葉に、嘘はなかった。
彼女は本当に幸せだった。
愛する男と共に在り、共に考え、共に選び、共に罪を背負えることが。
そして、いつか彼が自分の手で終わらせるべき存在になったとしても、そのときは自らの手で彼を葬ることができるのだということが。
もちろん、そんな未来が訪れることを望んでいるわけではない。
ただ、もしも訪れるのなら。
その役目を、誰にも譲るつもりはなかった。
アシュレインもまた、同じことを考えていた。
互いに愛し、互いを信じ、互いの内に巣食う怪物を知り尽くしている。
それでも、2人は決して相手の怪物を否定しない。
鎖で縛りつけることもしない。
ただ、その牙がどこへ向くのかを知り、必要であれば隣に立つ。
それが、2人の愛の形だった。
やがて新たな曲が始まり、アシュレインは再びヴェルシェリアに手を差し伸べた。
「もう一曲、どうだい?」
「喜んで」
2人は微笑み、再び踊り始める。
華やかな光の下で、誰もが羨む理想の婚約者として。
その裏側で、王国を蝕む毒を見極め、切り捨てるべきものを選びながら。
王国は今日も、何事もなく繁栄している。
誰も知らない。
その繁栄を支えているのが、どれほど冷酷な決断であるのかを。
誰も知らない。
王太子と、その愛しい婚約者が、互いの中にどれほど深い闇を見出しているのかを。
そして、誰も知らない。
二人がいつか互いを殺す日が来るとしても、それだけは決して他人に譲らないと、心の奥底で決めていることを。
今宵も王宮には、華やかな音楽が響いていた。
王太子殿下と、その愛しい婚約者。
誰もが羨む、理想の2人。
──その美しい花の根元で、黒百合は静かに芽吹いていた。
夢で見たものを文字起こししてみました!




