第9話「黒い噂と冷たい手紙」
城の西側にあるヴィンセントの書斎は、厚い絨毯と天井まで届く本棚に囲まれた静寂の空間である。
暖炉の火は絞られており、部屋の空気は適度な冷たさを保っている。
マホガニー材の重厚な執務机の上には、領地の収穫見込みや防壁の修繕に関する書類が山のようにつまれている。
ヴィンセントは羽ペンを手に取り、羊皮紙の上に流麗な文字を走らせている。
ペン先が紙を削る微かな音と、時折彼が書類をめくる衣擦れの音だけが、部屋の静寂を規則正しく破っている。
ルミナは書斎の隅にある革張りの長椅子に座り、薬草の図鑑に目を通していた。
窓から差し込む午後の光が、古い紙のページを黄色く染め上げている。
彼女は新しい調合のアイデアを練るため、時折視線を虚空に泳がせ、指先でページの端をなぞる。
同じ空間にいながら、互いに言葉を交わすことなく過ごすこの時間は、ルミナにとって心地よいものへと変わりつつあった。
ヴィンセントの静かな呼吸音を聞いているだけで、自分は安全な場所に守られているのだという感覚が、じんわりと心に染み渡っていく。
その平穏な空気を破るように、書斎の扉が短く二度ノックされる。
「入れ」
ヴィンセントが羽ペンを置き、姿勢を正す。
扉が開き、年老いた執事が足早に部屋へと入ってくる。
執事の顔には緊張の色が浮かんでおり、その手には王家の紋章が刻印された封蝋を持つ手紙が握られている。
「旦那様。王都より、早馬の使者が参りました。王太子殿下からの急ぎの書状とのことです」
王都、そして王太子という言葉を聞いた瞬間、ルミナの肩がびくりと跳ねる。
図鑑を持つ手が震え、ページが不自然な音を立てて折れ曲がる。
胃の奥に鉛を飲み込んだような重苦しい感覚が広がり、全身からさっと血の気が引いていくのがわかる。
ヴィンセントはルミナの様子を鋭い視線で一瞥した後、執事から書状を受け取る。
彼は感情のない手つきで封蝋を割り、折りたたまれた便箋を広げる。
紙が擦れる乾いた音が、ルミナの耳には死刑宣告の合図のように恐ろしく聞こえる。
ヴィンセントの瞳が便箋の文字を追うにつれて、書斎の温度が急激に下がっていくような錯覚を覚える。
彼の眉間には深いしわが刻まれ、青い瞳には氷の刃のような鋭い怒りの色が宿っていく。
便箋を持つ彼の手の甲には青筋が浮かび、指先に込められた力で紙の端がくしゃりと歪む。
「……愚劣な」
ヴィンセントの口から漏れたのは、低く、地を這うような冷たい声だった。
彼は書状を机の上に放り投げ、深くため息をつく。
「ルミナ、聞くのも不快かもしれないが、事実として知っておくべきだ」
ヴィンセントは立ち上がり、ルミナの座る長椅子の前まで歩み寄る。
彼はルミナを見下ろすのではなく、彼女の視線に合わせるように片膝をついた。
「王都では今、水が濁り、植物が枯れ果てるという謎の災厄が猛威を振るっているらしい。自称聖女であるあの娘の祈りは全く効果を示さず、民衆の不満は頂点に達している」
その言葉に、ルミナは目を見開く。
自分が王都にいた頃、ひそかに井戸や土壌に流し込んでいた浄化の薬の供給が絶たれたことで、蓄積していた汚れが一気に噴き出したのだ。
「王太子は、自身の失態を取り繕うため、君の力が必要だと気づいたようだ。この書状は、君を王都へ強制的に連れ戻すための命令書だ」
連れ戻される。
その言葉が、ルミナの脳裏に王都での冷たい床の記憶を蘇らせる。
無実の罪を押し付けられ、誰の庇護もなくただ罵倒されたあの日々。
ルミナの呼吸が浅くなり、視界が小刻みに揺れ始める。
恐怖で声が出ず、両手で自分の肩をきつく抱きしめる。
『また、あの場所に戻らなければならないの? ようやくここで、自分の居場所を見つけられたのに』
震えるルミナの肩に、ヴィンセントの大きな手が優しく、しかし力強く添えられる。
彼の手から伝わる熱が、ルミナの身体の震えを外側から押さえ込む。
「恐れることはない。私が君を渡すはずがないだろう」
ヴィンセントの声は、先ほどの怒りを含んだ冷たさとは打って変わり、深い海のように静かで温かい。
「彼らは君の価値を理解せず、ただ都合よく利用しようとしているだけだ。そのような下品な連中の手に、私の大切な妻を返すつもりは毛頭ない」
大切な妻。
その言葉が、ルミナの胸の最も柔らかい部分を真っ直ぐに貫く。
ヴィンセントの瞳には、一切の迷いがない。
彼は王家という巨大な権力を敵に回してでも、ルミナを守り抜く覚悟を決めている。
ルミナの目から、せき止めていた涙が不意にこぼれ落ちる。
自分のために、ここまで本気で怒り、庇護を与えてくれる人がいる。
彼女はもう、彼の好意を雇用主としての計算だと言い訳することはできなかった。
ヴィンセントの手のひらの温もりが、ルミナの心に張っていた最後の薄氷を静かに溶かしていく。




