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悪役令嬢として追放された私、辺境の公爵様に溺愛されています〜趣味の魔法薬作りが本物の聖女の力だったと気づいてももう遅い〜  作者: 黒崎隼人


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第7話「雪解けの温度と見えない壁」

 東塔の調合室には、今日も青臭い薬草の香りが濃密に立ち込めている。

 高い位置にある飾り窓から差し込む朝の光が、空中に舞う微細な塵を黄金色の粒子のように輝かせている。

 ルミナは巨大な作業台の前に立ち、青銅の乳鉢に向かって背筋を伸ばしていた。

 手にした乳棒を規則正しい軌道で動かし、乾燥させた白樺の樹皮を細かく砕いていく。

 金属と硬い繊維が擦れ合う鈍い摩擦音が、静かな部屋の壁に反響する。

 彼女の指先にはわずかな力みがこもり、爪の先が白く変色している。

 砕かれた樹皮からは、土の深みを思わせる重い香りが滲み出し、室内の空気をさらに複雑なものに変えていく。

 魔力炉の火口では、淡い青色の炎が音もなく揺らめいている。

 炎の熱気は周囲の空気を歪ませ、その上に置かれたガラスのフラスコのなかで、透明な液体が微かに沸き立っている。

 ルミナは乳鉢から手を離し、額に浮かんだ薄い汗を手の甲で静かに拭った。

 指先は冷たい水で洗った直後のように冷え切っているが、薬作りに集中する彼女の体の芯には、確かな熱が宿っている。

 王都からこの北の地へ来て数週間が経過していた。

 彼女の作る浄化の薬は、領地の土壌に染み込んだ呪いの霧を確実に拭い去り、少しずつではあるが、枯れ果てていた木々に本来の緑の色彩を取り戻させつつある。

 その事実だけが、今のルミナにとって唯一の心の支えだった。

 背後にある重厚なオーク材の扉が、低い音を立てて開かれる。

 入ってきたのは、黒い外套を身にまとったヴィンセントだった。

 彼の大きな手には、銀の盆が乗せられており、その上には白磁のティーカップと、焼き色がついた小さな菓子が置かれている。

 歩みを進めるたびに、彼の硬い靴音が石の床を叩き、その音律はどこまでも均等で落ち着いている。

 ヴィンセントは作業台の端に盆を静かに置くと、ルミナの手元へと視線を向けた。


「休憩をとるようにと言ったはずだが」


 冬の夜気を思わせる低い声が、薬草の香りを切り裂くように響く。

 その響きには咎めるような色はなく、ただ純粋な心配だけが滲んでいる。

 ルミナは慌ててフラスコの下の炎を調整し、ヴィンセントのほうへと向き直る。


「申し訳ありません。この工程を終えるまでは火から目を離すことができないものですから」


 ルミナが視線を伏せて言うと、ヴィンセントは短く息を吐き出す。

 彼は銀の盆からティーカップを持ち上げ、ルミナの目の前へと差し出す。

 カップからは琥珀色の水面が顔を覗かせ、立ち昇る湯気が果実の甘い香りを運んでくる。


「冷める前に飲んでおけ。君が倒れては、浄化の計画そのものが頓挫する」


 ルミナはカップを受け取る。

 陶器越しに伝わる熱が、かじかんだ指先を優しく解きほぐしていく。

 果実茶の甘い香りが鼻腔を満たし、張り詰めていた神経が少しだけ緩むのを感じる。

 しかし、彼の口から出た言葉が、ルミナの胸の奥に冷たい影を落とす。


『そう、私が倒れたら彼が困る。私はこの領地を救うための道具なのだから』


 ヴィンセントの視線は真っ直ぐにルミナを捉えており、その氷のように青い瞳の奥には、隠しきれない柔らかな光が揺れている。

 だが、ルミナは過去の傷からその光の意味を正しく受け取ることができない。

 王太子から向けられた冷酷な言葉や、価値がないと切り捨てられた記憶が、ヴィンセントの不器用な優しさを純粋に信じることを拒絶する。

 彼女は自分自身を守るため、彼の好意をすべて雇用主としての計算であると解釈するよう心を硬く閉ざしている。

 ルミナが一口だけ茶を含むと、甘酸っぱい熱が喉を滑り落ち、冷えていた胃の腑をじんわりと温める。

 そのとき、開け放たれた扉の隙間から、巨大な白い影が音もなく滑り込んでくる。

 聖獣のブランだ。

 呪いの霧から完全に解放された彼の毛並みは、降り積もったばかりの新雪のように純白で、一筋の汚れもない。

 ブランはルミナの姿を見つけると、長い尾をゆったりと揺らしながら彼女の足元に近づき、巨大な頭をスカートの裾にすり寄せる。

 獣特有の重い体温と、日光をたっぷりと浴びた干し草のような清潔な匂いがルミナを包み込む。

 ルミナはカップを盆に戻し、片手でブランの首元を撫でる。

 深く指が沈み込むような柔らかな手触りが、彼女の心にささやかな安寧をもたらす。


「すっかり毛艶も良くなったな」


 ヴィンセントが口元に微かな笑みを浮かべ、ブランの背中を大きな手で軽く叩く。

 ブランは心地よさそうに目を細め、二人の間を行き来するように鼻先を押し付ける。

 ヴィンセントの手とルミナの手が、ブランの純白の毛並みの上で偶然に触れ合う。

 革手袋越しではない、直接の肌の接触。

 ヴィンセントの指先が持つ、乾燥した熱がルミナの皮膚に伝わる。

 ルミナは驚いて肩をすくませ、素早く手を引っ込める。

 その急な動作に、ヴィンセントの瞳が一瞬だけ悲痛な色を帯びるのを、ルミナは見逃さなかった。

 しかし、それが何を意味するのかを考える前に、彼女は視線を床の石畳へと落としてしまう。


「……薬の調合に戻ります。今日中に、もう三瓶は完成させなければなりませんから」


 ルミナの言葉に、ヴィンセントは空中で行き場を失った手を静かに下ろし、背筋を伸ばす。


「無理はするな。必要なものがあれば、すぐに言え」


 彼はそれだけを言い残し、足音を忍ばせるようにして調合室から立ち去っていく。

 重い扉が閉ざされる音が、広大な部屋に虚しく響き渡る。

 ルミナは魔力炉の炎を見つめ直すが、彼女の胸の奥には、彼の手から伝わった微かな熱だけが、小さな火種のようにいつまでも消えずに残り続けていた。

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