第11話「砕け散る王命と白銀の盾」
ヴィンセントの立ち上がった影が、燭台の炎に照らされて広間の大理石の床に長く伸びる。
彼が纏う空気は、冬の森の奥深くに存在する底なしの湖のように、凍てつき、そして静まり返っている。
怒声も上げず、剣に手をかけることもなく、ただそこに立っているだけで、ヴィンセントの存在は抗いがたい暴力となって使者の全身を打ち据えている。
使者は手にした羊皮紙を震わせ、後ずさりしそうになる足に必死に力を込めてその場に踏みとどまっている。
「……何か、反論がおありで?」
使者の声は裏返り、先ほどの威勢の良さは見る影もなくひび割れている。
ヴィンセントは使者の言葉に応えることなく、ゆっくりとした足取りで一段高い壇から降りる。
硬い靴音が一つ、また一つと石畳に響くたび、使者の肩がびくりと跳ね上がる。
「王太子は、状況を根本から履き違えているようだな」
ヴィンセントの声は低く、地鳴りのように広間の壁を伝って響き渡る。
「ルミナは私の妻だ。アシュレイ公爵家の人間であり、王太子の所有物ではない。彼女の居場所はこの北の地にあり、王都に戻る理由など何一つ存在しない」
使者は驚きと恐怖に目を見開き、震える手で羊皮紙をヴィンセントの胸元に突きつける。
「こ、これは王命であるぞ! 辺境の一領主が、王家からの命令に背くと言うのか。そのような真似をすれば、反逆とみなされ王都の騎士団がこの地に差し向けられることになるぞ!」
脅し文句を口にする使者の顔には、焦燥と恐怖が入り混じった醜い汗がにじみ出ている。
その言葉を聞いた瞬間、ルミナは息を呑み、思わず一歩前に出そうになる。
自分のせいで、この北の領地が戦火に巻き込まれることなど、絶対に避けなければならない。
しかし、彼女が声を上げるより早く、広間の奥に続く暗い回廊から、腹の底を揺さぶるような低く重い振動が伝わってくる。
空気がビリビリと震え、使者の足元が不自然に揺れる。
暗がりのなかから姿を現したのは、巨大な白い獣、聖獣ブランだった。
かつて呪いの霧に蝕まれていた面影は完全に消え去り、その巨躯を覆う純白の毛並みは、外の雪原よりも眩しく輝いている。
ブランは音もなく広間の中央へと進み出ると、ルミナを庇うように彼女の斜め前に立ち塞がる。
黄金色に燃えるような鋭い瞳が使者を真っ直ぐに捉え、その巨大な顎の奥から、威嚇の低い唸り声が漏れ出す。
ブランの体から放たれる熱気と、乾燥した冬の草の匂いが、使者の安価な香水の匂いを完全に吹き飛ばす。
圧倒的な質量を持つ獣を前にして、使者の膝はついに限界を迎え、石の床に無様に崩れ落ちた。
「ひぃっ……!」
使者は尻餅をついたまま、両手で床を擦りながら後ずさりしていく。
ヴィンセントは冷ややかな視線を床を這う使者に向け、冷酷な事実を突きつける。
「王都の災厄は、自称聖女の偽りの祈りと、それを盲信した愚かな王太子の自業自得だ。本物の聖女を泥棒扱いして追放し、土地の加護を自ら捨て去ったのだからな」
本物の聖女。
ヴィンセントの口から出たその言葉に、ルミナは目を見開いて彼を見つめる。
自分がただ魔法薬を作っていただけだと思っていた力が、実は国を浄化する聖女の力そのものであったという事実を、ヴィンセントはすべて見抜いていたのだ。
「王太子に伝えろ。ルミナの力は、彼女を本当に大切にするこの土地と、私のためにのみ使われる。奪い取りたければ、騎士団でも何でも差し向けてみるがいい。この北の厳冬と、聖獣の牙が、一人残らず雪の底に沈めてやる」
ヴィンセントの最後通告は、いかなる交渉の余地も残さない、完全なる拒絶だった。
使者は羊皮紙を床に落としたことにも気づかず、恐怖で顔を引き攣らせながら立ち上がると、転がるようにして広間の扉へと逃げ出していく。
重厚なオーク材の扉が、外で待機していた兵士たちの手によって乱暴に閉ざされる。
木と木が激しくぶつかり合う音が広間に反響し、やがて完全な静寂が戻ってくる。
ルミナは胸の奥で荒れ狂っていた動悸が、少しずつ落ち着いていくのを感じる。
彼女の視線の先には、自分を何があっても守り抜くと宣言した、ヴィンセントの揺るぎない広い背中がある。
王都の権力にも、騎士団の脅威にも屈することなく、彼はルミナという存在を一つの国を敵に回してでも選び取ってくれた。
その事実が、ルミナの心の奥底に固く張り付いていた冷たい氷を、根本から激しく砕き割っていく。
冷気を孕んだ広間のなかで、ルミナの瞳からは、せき止めることのできない熱い涙が次々と頬を滑り落ちていた。




