79 アレン・カーティスの述懐1
傷が痛む。
あの得体の知れない怪物に襲われて、命からがら逃げて来たが無傷とはいかなかった。
幾度も幾度も襲われる内、応急手当では間に合わない程の傷を負ってしまい歩くのも覚束ない。
それでも何とかミサオの家まで辿り着く事が出来たが……彼女の姿は無かった。
もう、これ以上動けそうにない……。
何故、こんな事になってしまったのだろうか?
俺が、グリーンフォレストを静かに研究が出来る場所だとミサオに勧めたから?
俺が、サイディス・カンパニーの本性を知らなかったから?
俺が、奴らに捕まってしまったから?
俺が―――俺が―――――。
………考えても考えても、全てが自分のせいであると思えてならない。
自分のせいで大勢の人と共に自分の大切な人を死に追いやってしまったかもしれないという事実は、体の痛み以上に俺を責め苛んでいた。
……サイディスの研究所での一件の後、俺とミサオは離れ離れになってしまった。
『ブルー』があんな事になってしまった上に、ミサオは銃で撃たれ負傷している。
傷の具合は決して楽観視して良い状態ではなく、すぐに手当てしなくてはならなかったのだ。
だが、『ブルー』の暴走に巻き込まれ、暴走した植物の津波に押し流された俺は、その場から研究所の外まで弾き出されてしまった。
暫く気を失っていた俺が目を覚ました時にはミサオの安否は分からず、周囲は突然現われた異形の怪物によって地獄へと変えられていた。
暴走する『ブルー』は俺では止められない。
何よりミサオの事が気掛かりだった。
もしもミサオが無事なら、『ブルー』を止めてこの状況を終息させる為に行動しようとする筈だからだ。
恐らく怪我をしていようと何だろうと、この状況を引き起こしたのは自分だと考えて自らの命を顧みずに動こうとするだろう。
何故なら………それが、桜木操という人間だからだ。
俺が彼女の事を知ったのは、大学の噂話が偶々耳に入ったからだった。
曰く、特例中の特例で十代で博士号を取得した。
曰く、あらゆる分野で天才的な才能を発揮している。
曰く、大学の有名な研究室からその才能を買われて招聘され、既に幾つもの功績を残している………等々だ。
耳に入って来る『噂話』はどれもこれもフィクションで良く聞くような荒唐無稽な内容ばかり。
そんな奴いる訳が無いと話半分で聞いていた。
だから、偶々大学の構内で拾って届けた落とし物が、その噂の『天才少女』の物だったと知った時は心底驚いた。
彼女―――ミサオが、噂で聞いたよりも普通の女の子だった事も。
けど、噂は本当だった。
ミサオは本当に何でも出来た。
万能の天才っていうのは彼女みたいな人間の事を言うのだろう。
医学・薬学・生物学・工学・化学・物理学・植物学・天文学…………。
とにかく、ありとあらゆる分野に関してその道の専門家すら凌駕する才覚を発揮していたのだ。
年端も行かない少女が周囲の大人すら理解出来ない研究を黙々と行い、実績を次々積み上げて行く光景は衝撃的だった。
誰もが知っている彼の天才、レオナルド・ダ・ヴィンチを前にした人々はこんな気分だったのかもしれない。
しかし、ある意味で当時の俺にとってはそうした人々以上に衝撃だった。
だから……彼女の事をもっと知りたいと思う様になったのは当然の事とも言えた。
当時の俺は既に「自称冒険家」として活動していた。
しかし、どう取り繕ってみても俺の活動は周囲から見れば「金持ちのボンボン」の道楽であり、親の金で放蕩の限りを尽くすどうしようもないヤツだった。
一応弁明させてもらえるなら、冒険家としてはそれなりに功績は残している。
最初の活動で運よく沈没船から財宝を発見出来たりと運にも恵まれ、活動資金に関しては自分で工面出来る位だった。
とはいえ、それも親の金を元手にしたものだった為、胸を張って言える事ではない。
家業を継ぐのが嫌で大学に入ったは良いが、そこでも勉学に身が入らず自称冒険家などと名乗って外国を飛び回っているのだから、世間的には問題児扱いだった。
それでも、自分に家業を継げるほどの才能は無いと自覚していたし、父親との関係も良好とは言い難かった為、反抗の意味もあって自分勝手に生きていたのだ。
そんな中で出会ったミサオは………俺とは対照的な女性だった。
他愛もないきっかけで知り合った俺とミサオは全く正反対の性格だったが、何故か話が合い意気投合する事が出来た。
研究に明け暮れるミサオは多忙だったが、それでもお互いに時間を作ってはどこかに出かけたり、操の研究についての話をしたりした。
その内容は正直言って俺の頭じゃ二割も理解出来なかったけど………その代わり、操の事が段々と分かって来た。
そして同時に………このままじゃ駄目だと気が付いた。
ミサオと知り合った当初、俺が最初に思ったのは無表情な娘だな、という事だった。
会話の中でニコリともしないどころか、ほんの僅かにも表情が変わらない彼女を俺は物静かな性格なんだと最初は思っていた。
日本人の女の子の知り合いは居ないし、そういう風に見える人種なんだろうと勝手に思っていたのだが、実際には違ったんだ。
本当のミサオは明るく包容力のある女性だった。
俺も友人からはうるさい位に明るいなんて言われるが、彼女はそんな俺すらたじろぐ程に行動力がある。
けど、知り合った当初の彼女は本当に………全くの無表情だった。
時折、幼い女の子を指して容姿を褒める際に「お人形さんみたい」と言う事があるそうだが、彼女の場合本当に人形の様に表情が変わらなかった。
だが彼女と一緒に時間を過ごす内、無表情なのは生来のものではなく、いつの間にかそうなってしまっただけだという事に気が付いた。
それは彼女が、ある日ほんの僅かではあるが俺に微笑みを返してくれたからだ。
当時、全く無自覚だったが、俺は既に彼女に夢中だった。
それまでは冒険家としてどうやって功績を上げようかという事ばかり考えていたのに、毎日ミサオと何を話そうかという事だけを考える始末だったのだ。
そんな時に彼女が笑みを返してくれた事で………俺は完全に彼女の虜になってしまった。
そして―――異常に気が付いたのだ。
会話の中でも彼女は特に無感情だったり機械的だったりする事はなく、ごく普通の優しさを備えた女性だった。
にも拘らず、何故無表情で無感情に見えるのか?
それは、後にミサオが話してくれた彼女の生い立ちに起因する事だった。
そして………彼女が天才と呼ばれるまでに研究に没頭している理由でもあった。
ミサオは幼い頃に両親を亡くしている。
それも二人共、治療法が無いとされる別々の種類の難病に侵されて。
相次いで家族を亡くし、親類も居なかったミサオは天涯孤独の身となってしまった。
今でも時折、優しかった両親の夢を見る、と悲しそうな表情で語ったミサオの姿は今も忘れられない。
この時から操は、世界から難病、取り分け不治の病と言われる類の病を根絶したいという想いを抱く様になったのだそうだ。
しかし、両親も親類も無く、施設に預けられる事になったミサオにはそうした夢を叶える為の土台が無かった。
だから、まずは自分一人で生きて行ける力を身に付けようと考えて行動に移った。
それが………勉強する事、だった。
もう一度言うが、ミサオは間違いなく天才と言われる類の人間だ。
だから、如何に彼女が幼くとも、彼女が己の才能の全てを『難病の根絶』を成す事に注ぎ込めばどうなるか。
周囲の子供から、或いは大人からも異様に見られただろう。
施設での日々は孤独だったが、毎日を勉強に用いる事が出来たので悪い事ばかりではなかったと彼女は言うが、泣いたり笑ったりする事も無く、知識だけを貪り続ける事が子供にとって良い事だとは俺には思えなかった。
―――そんな彼女を見出したのがジェイムズ・クロフォード教授だった。
クロフォード教授とはミサオを通して何度かあった事があり、その際に当時のミサオの事を聞いた事がある。
彼がミサオに出会った経緯は詳しく聞いていないが、彼もまたミサオの才能に驚愕すると同時にその生き方を危惧した人間の一人だった。
言ってしまえばミサオは『自分』すら捨て、難病の根絶という唯一の目的を達成する為に自分の能力の全てを使っていたのだ。
それはつまり、私生活もすべて研究に費やすという事であり、それは少し話を聞いただけの当時の俺ですら彼女が人間らしい生き方をしていないと気付けた程だった。
初めて操の部屋へ招かれた際には、口にはしなかったものの生活感が全く無い殺風景な室内を見て牢屋のようだとすら感じた。
ミサオと出会い、俺と同じ様な事を感じたクロフォード教授は、勿論ミサオの才能を活かすという意味もあるが、何よりミサオに健全な生き方をさせる為にも彼女を支援する事にしたのだそうだ。
そうしてクロフォード教授の支援もあり、ミサオは元々持っていた驚異的な才覚を遺憾無く発揮出来る環境を得た。
その結果が件の噂の数々だった訳だが………それでも彼女の生き方は変わらなかった。
名のある研究室に所属し、そこで次々と成果を上げるミサオだったが、彼女はその成果を自分のものとして発表しようとしなかった。
何故ならその成果の数々は、彼女の求める難病の克服という目的に役立つものではなかったからだ。
研究の副産物でしかないものを称賛され、その副産物についての発表やら対応やらに煩わされるのは不本意だと彼女は言っていた。
唯一つの願いの為に、富も名誉も人生さえもかなぐり捨てて進み続けるミサオ。
俺はそんな彼女の事を心配しつつ、同時に自分の事を情けなく思っていた。
自分の持てる能力の全てを使って目標へと邁進し続けるミサオに比べ、俺はと言えば世の為になるような事は何も成していない、家が金持ちなだけの放蕩息子だ。
自分の力で活動しているとは言っても、それは単に運が良かっただけだという事は俺自身が一番良く知っている。
ミサオの様に立派な志がある訳でもなく、ただ親への反抗心から『冒険家』を名乗って当て付けがましく活動しているのだ。
だから、本来なら俺なんかがミサオの心配をするなんておこがましい事だ。
………だけど、いや、だからこそ、ミサオが笑ったのを見た時、俺はせめてミサオを笑顔にしてあげたいと思ったんだ。
両親の命を奪った病を根絶するべく、これまでの人生の殆どをミサオは戦って来た。
いつしか弱音を吐く事もやめ、感情を殺して戦い続ける内、本来なら体験している筈の人間としての喜びも忘れてしまっていた。
如何に天才的な才能があるとしても、そんなのは………悲し過ぎる。
だから俺は、何度もミサオに会いに行った。
どうにかして笑顔を取り戻して欲しいと思って。
……今にして思えばかなり鬱陶しい奴だったと思う。
何せ大した用も無いのに、ほぼ毎日会いに行ってたんだから。
下手をすれば研究の邪魔と判断されて、俺も彼女に切り捨てられていたかもしれない。
でも、もしもそれで彼女が笑顔を取り戻してくれるのならそれでも構わなかった。
その為なら俺自身は見返りは求めず、どんな目に遭っても良いとすら思っていたんだ。
そうして幾度もミサオと会う内、ミサオも徐々に心を開いてくれるようになって来た。
最初は明らかに『変な奴』を見る目だったけど、話をしている内に少しずつ笑顔を見せてくれるようになった。
会う度に以前よりも自然な笑顔を見せてくれるようになって行く彼女に、最初に決心していた見返りは求めないという決意をあっさり吹き飛ばされてしまった。
我ながらチョロい、とあの時も思ったものだ。
それでも、操と過ごす時間は楽しかった。
会って話をするだけではなく、研究を休んで二人で出かける事も増えて来た。
やがて、そうして日々を過ごす内――――俺は、ミサオとそういう関係になった。
間違いなくあの時が俺の人生で最高に幸福な瞬間だった。
別に女の子と付き合うのが初めてって訳じゃなかったけど、あの時が初めて本気で相手に気持ちを伝えた瞬間だったと今なら分かる。
そして、ミサオもそれを受け入れてくれた。
ただ、研究を止める事は出来ないから正式な返事は待って欲しいと申し訳なさそうに言われたが、勿論それは分かっていたので二つ返事で了承した。
寧ろ、ミサオが当たり前の様に俺との事をそこまで考えてくれていた事、俺からの告白に顔を赤らめながら嬉しそうに応えてくれた事が俺は何よりも嬉しかった。
以降、俺は自称冒険家としての活動も行いつつ、ミサオの研究のサポートをするようになった。
サポートと言っても彼女の研究の細かい内容に関してはさっぱりなので関わる事は出来ない。
そもそも、ミサオの恩師であるクロフォード教授ですら「理解が及ばない」なんて言っている研究に、俺如きが関与出来る訳がないのだ。
だから、俺は自称冒険家として海外を飛び回る過程で、彼女の研究に役立ちそうな情報や物を探す事にした。
研究に没頭するミサオは言ってしまえば筋金入りの出不精である為、外の世界の様々な研究の新説・異説を集めて彼女に提供する事は彼女にとって大いに刺激になる。
ミサオも俺が持ち帰る様々な国の様々な研究や論文を喜び、それが切っ掛けで研究が大きく進んだ事もあり、その度にとても感謝された。
俺は俺なりの形でミサオの力になれている。
そう思うと………誇らしかった。
世の中の為になる事は出来ていなくとも、ミサオの……愛する人の為に生きる事が出来ている事が、俺は幸せだった。
そんなある日、俺は外国の商社に勤める友人からある話を耳にした。
その友人は新たな商圏の獲得の為、様々な国の地元の人々と対話をする事で商機となる様な話を探るべく、日々国から国へと飛び回っていた。
色々な国の地元住民と商売についての話をしながら、その土地独特の生活や風習を知る事が海外赴任の楽しみなのだと昔から話していたのだ。
そんな彼に、ミサオの事と俺が彼女の為にしている事を話したところ、「遊び人が真人間になったのか!」と笑われてしまった。
事実ではある為反論出来なかったのだが、俺を揶揄いつつも俺の将来を心配してくれていたというのも理解出来た。
少し照れ臭かったけど……友人というものは有り難いものだと思ったのを覚えている。
そんな彼が、俺の役に立つかは分からないとしながらも、赴任先でつい最近聞いたという興味深い話を教えてくれたのだ。
その話は、ある国の田舎町の酒場で知り合ったという老人から聞いた話との事だった。
その老人は若い頃、俺と同じ様な探検家だったそうで、世界のどこかにあるかもしれない財宝を発見して一旗揚げようと無謀な旅に出ていたのだそうだ。
若さゆえの万能感と言うかなんと言うか……流石の俺でも裸一貫で旅に出て、当てもないのに財宝を探そうとは思わない。
だが若かりし頃の彼は自分になら出来ると根拠なく思い込み、実際に幾つもの国々を旅して周ったのだという。
何の伝手も無い彼が世界を股にかけて旅をするには犯罪すれすれの行為も行ったらしく、話の7割はそんな彼の武勇伝だった。
しかし、現状田舎の酒場で飲んだくれているという事からも分かる通り、彼は旅の果てに財宝を見つける事は出来なかったらしい。
それでも世界を旅した経験は彼にとってはかけがえのない物であり、旅から帰った後故郷で結婚し、今では孫もいるそうだ。
財宝は手に入れられなかったが得る物はあった、だから後悔は無い………老人は目を細めてそう言ったそうだ。
だが、と前置きして彼は溜息を吐き、世界を旅した事自体に後悔は無いが、旅の中で唯一悔いている事があるのだと彼は言った。
友人がそれが何かと問うと、老人は懐から年季の入った手帳を取り出し、手帳の間から色褪せてボロボロになった一枚の写真を取り出して見せた。
その写真に写っていたのは………花だった。
カラー写真ではない為色までは分からなかったが、しっかりと花開き、生命力に溢れた花の姿はモノクロ写真であっても美しさを感じさせるものだった。
話を聞いた後、その写真を写した画像を俺も友人に見せて貰ったが、画像越しでも花の神秘的な美しさが伝わって来た。
そんな美しい花の写真を指して後悔しているとはどういう事か、と友人が訪ねると……老人は先程よりも大きな溜息を吐いて言った。
『こいつはな……『氷に咲く花』なんだよ』
世界中を旅したという老人の言葉に偽りは無いようで、なんと彼は南極大陸を徒歩で横断したのだという。
しかし、世界初の無支援での南極大陸横断が記録されたのは近年の事であり、当然それを成し遂げたのは友人と話をしていた老人ではない。
詳しく聞いてみると、どうやらそこに彼の言う「後悔」の正体が隠されているようだった。
当時、若く学も無かった老人が世界を股にかけて旅したのは「何処かに隠された財宝を見つける事」が目的だった。
それ故、彼は「財宝」を見つけられずに旅を終える事になった訳だが、そんな彼の破天荒な「旅」こそが彼に大いなる名誉を与えるものだったと気付く事が出来なかったのだ。
南極横断然りだが、老人の話が事実なら彼は人跡未踏の地を幾つも踏破している事になる。
それを証明して世間に発表していれば………彼の名は歴史に残った事だろう。
財宝を見つける事しか考えていなかった若かりし頃の彼は、故郷に戻り結婚するまでそれに気づかなかったのだそうだ。
故郷で結婚した後、幼なじみだった奥さんに指摘されて漸くその事実に思い至ったのだという。
要するに、財宝は手に入らなかったが名誉は掴んでいたのだ。
……気付かなかっただけで。
老人はそれを激しく後悔していた………いや、今も後悔しているのだった。
良い話だと思って聞いていたのに、一気に俗っぽい話になって来た事に友人は呆れる事しきりだったそうだが………逃した魚の大きさを嘆いて悶える老人が立ち直った後に続けた話に一気に興味を引かれた。
写真に写っていた花もまた、老人の『逃した魚』の一つなのだという。
単独無支援による南極横断を成し遂げた老人だが、南極横断自体そんな甘いものではない。
ノウハウも無い若造が死なずに生きて踏破出来たのは、単純に運が良かっただけだろう。
実際、老人は南極横断中に不注意から足を滑らせ、氷の床に口を開けたクレバスに落下してしまったのだという。
単独で南極横断中にクレバスに落下などしたら間違いなく命は無い。
落下時の衝撃で重傷を負うか、怪我の程度が軽かったとしても身動き出来なくなって衰弱死するかだ。
しかし、奇跡的な事に老人は高所から落下したにも拘らず怪我は多少の打撲程度で済んだらしい。
更に、氷の隙間に挟まって身動きが取れなくなるという事も無く、クレバスの底にある氷で出来た地面の上に落下していたのだ。
そして、自分の運の良さに驚きつつ、クレバスから脱出しなくては飢え死にしてしまうのは同じだと考えた彼はクレバス内を歩いて探索する事にした。
食料はまだ何とかなりそうである為、クレバス内で何日か過ごす事も覚悟していたそうだ。
しかし、そんな彼の前が突然開けた。
クレバスの深さはかなり深かった。
しかし、それ以上に氷と氷の間に出来た隙間は蜘蛛の巣状の迷路の様に横に広がっていた。
いつの間にか隙間ではなく通路の様な広さになったクレバス内を進んで行った老人は、その先で大きく開けた空間に出たのだ。
人が入って来た痕跡は無い。
完全に自然に出来た氷の洞窟とでも言うべき場所なのは間違いない。
しかし、理屈ではそう理解していても、彼の目の前にはそうとは思えない光景が広がっていた。
それは、花畑だった。
無数に咲き乱れる、青く薄らと輝く美しい花が、氷で出来た壁や床、天井を仄かに照らしていたのだ。
周囲を氷に囲まれ、老人が照らす明かりしか光源が無い筈の洞窟内の景色が、無数の花々が放つ青い光に照らされて浮かび上がる。
この世のものとは思えないあまりにも幻想的な光景に、彼は時間を忘れて見入ってしまったという。
時間が経ち、やがて正気に戻った老人は、その花を土産として持ち帰れないかと考えたらしい。
だが、花など育てた事が無い彼は持ち帰るのは無理だと判断して、荷物の中に押し込めたままになっていたカメラで記念に写真を撮った。
友人に見せてくれたのはその時撮った写真だったのだ。
この『青く輝く花』についても後々考えれば明らかに過去発見例のない新種であり、持ち帰れば一躍時の人だっただろう。
だが、当時の彼にとっては「財宝」では無かった為、大して価値のある物だとは思わなかったのだった。
そうして、過去に戻れるなら当時の自分をブン殴ってもっと勉強しろと説教してやりたい、と言う老人を宥める羽目になってしまった友人は、翌日酷い二日酔いに苛まれる事になった。
しかし、幸いにも老人から聞いた話は忘れておらず、興味を引かれる話だった為休暇で帰国したタイミングで俺に話を教えてくれた。
実際、話を聞いた俺もかなり興味を引かれていた。
南極の奥地のクレバスの底に咲く、青く輝く花。
本当に存在するのなら間違いなく新種の花だ。
ミサオは人生の大半を研究に注いでいるが、唯一の趣味と言えるのが花の栽培だった。
忙しく研究を続ける合間にも花の世話をする事だけは忘れない。
そんな彼女に鉢植えの花を何度かプレゼントした事があるが、いつもの物静かな様子とは打って変わってとても嬉しそうな顔を見せてくれたものだ。
研究の役に立つかどうかは分からないが、花が好きな彼女であれば未知の花に興味を持つかもしれない。
それに個人的にも人跡未踏の地に存在するという、『氷の花園』に冒険家としての血が騒いでいた。
困難ではあるが、ミサオにこの写真に写っている青い花をプレゼントしたら喜ぶかもしれない。
そんな打算的な事も考え、俺は軽い気持ちで老人の話にあった『青い花』を求め、南極へ旅立つ事にしたのだった。
当然と言えば当然だが、南極とは軽い気持ちで赴く様な場所ではない。
友人経由で聞いた老人の話から、『青い花』がある『氷の花園』の場所を特定した俺は、最新鋭の装備に身を固めて極寒の大地を踏んだ。
そして後悔した。
あそこは人間の生きられる場所じゃない。
冒険家を名乗っている癖にこんな弱音を吐くのは情けないと思うが、こればかりは仕方が無い。
勿論、南極を冒険するに当たって必要な訓練は受けた。
ツテを使って単独での南極横断の経験があるインストラクターにも付いて貰って、徹底的にトレーニングに励んだ。
数か月に及ぶ訓練に耐えられたのは、冒険家としての功名心もあったかもしれないが……何よりミサオの為だった。
しかしそれでも一面真っ白な世界に一人立ち、何もかもが凍り付く死の氷原の空気を吸うと、恐怖心が先に立つ。
圧倒的な孤独感と戦いつつ、目的の『氷の花園』まで辿り着いて帰って来るまでの間、俺は自分が何を思いどんな事をしていたのか、全く覚えていなかった。
頭にあったのは生きて帰る事。
氷の花園で『青い花』を実際に発見しても、それを採取して持ち帰る等と言う事はとてもじゃないが考えられなかった。
南極へ来るまでの間は、花を採取する際に花を傷付けない様に注意する点等を細かく確認していた筈だが、目的地に辿り着いた時にはもうそんな事に意識を割く余裕は無かった。
……採取出来ないのなら、せめて精巧な写真を撮影して帰ろうと、花園の傍でぼんやり考えていた事だけは覚えている。
その後、何とか南極の奥地から帰り着いた俺は、半死半生の状態でどうにかミサオの元に戻って来た。
誰も見た事の無い『青い花』を格好良くプレゼントするつもりが、完全に自分にとってのトラウマとなってしまった。
そんな事実を心底情けなく思いつつ、肉体的精神的に限界に達してベッドで死に掛けている俺を心配するミサオに、唯一の成果である青い花の写真を見せた。
せめて、未知の花の写真を見て研究のモチベーションが上がれば、と思って。
ミサオと恋人同士になって以降、実は彼女がかなり活動的な性格であるという事を俺は知る事になった。
よくよく考えてみれば当たり前とも言える話で、彼女はその活力の全てを研究に費やしていただけだったのだ。
故に実際の彼女は普段は温厚で物静かだが、極めて行動的な女性だ。
だが、まさか南極で俺が撮影して来た『青い花』の画像データを見せた途端、興奮した様子でこの花を採取しに行くと言い出すとは思わなかった。
いつもの落ち着きは何処へやら、俺が撮影した写真に写った花の事や、友人から聞いた例の老人の武勇伝を事細かに聞かれながら、俺は大いに困惑していたと思う。
そうして一体何事かと思っていた俺に、我に返ったミサオが顔を赤らめながら説明してくれた。
細かい部分は専門的過ぎてよく分からなかったが………要するに、ミサオの目から見てこの青い花はミサオの長年の望みを叶える事に繋がる可能性があるというのだ。
何を見てそう思ったのかは俺にはさっぱり分からなかったが、少なくとも彼女は確信を以てそう判断しているようだった。
元々彼女の研究の役に立てば、との考えからこの青い花を求めて南極へ赴いたのだから、興味を持ってくれた事自体は喜ぶべき事だ。
だが、花の在り処は南極なのだ。
冒険家を名乗っている俺でも覚悟を以て行かなくてはならない氷に閉ざされた秘境なのだ。
研究に明け暮れていたミサオが、そんな過酷な環境を越えて『氷の花園』に辿り着けるとは到底思えない。
彼女にも南極の地がどの様な場所か、どれ程過酷な環境でどの様な準備が必要かを説明したのだが……一歩も引いてくれなかった。
遂には逆に説得され、発端となった話を聞かせてくれた友人を紹介させられる事になってしまった。
友人もミサオによる殆ど尋問の様な聞き取り調査の対象にされて戦々恐々としていたが、聞かれた事は全て答えてくれたようだ。
とはいえ、話の元である老人の名前や住所などは流石に友人も聞いていなかった為、又聞きの情報しか無かったのだが……。
それでもミサオは生き生きとした様子で友人から話を聞いていた。
そんなミサオを見る内に、彼女がそれ程までに執着する程の何かがあの花にあるのかと考えて、俺もほんの少しだけワクワクしていたのも確かだ。
助けを求める視線を送って来る友人の事は綺麗に視界から排除し、俺はミサオの為にもう一度南極の奥地へと足を踏み入れる計画を具体的に考え始めていた。
………本当はもう二度と行きたくない場所だったんだけどな。
何度も言うが、南極という場所は極めて過酷な環境の土地だ。
そして、南極に至るまでの道のりも過酷だ。
素人が足を踏み入れるような事をすれば命を失ってもおかしくない場所なのだ。
俄然行動力を発揮し出したミサオもそこは理解しているようで、本当に南極へ行くのであればしっかりと訓練を受けなければいけない、という俺の言葉は素直に聞いてくれた。
装備の事もある為、諸々の準備に再び数か月の時間を掛ける事になったが、命を失うリスクを考えれば入念な準備をするのは当然の事だ。
意外だったのはミサオが俺の手配した訓練プログラムにかなり乗り気だった事だろうか。
前回、俺が一人で南極へ赴いた際について貰ったインストラクターに再度訓練を頼んだのだが、ミサオは元軍人であるそのインストラクターの軍隊式訓練メニューも軽々熟していた。
俺はともかく、ミサオが付いて来れるのかと心配していたのだが……寧ろ、楽しそうにすら見えたのは気のせいだろうか。
どちらにせよ、訓練を含めた準備自体は順調に進み、数か月後、ミサオは遂に、そして俺は再度南極へと旅立った。
結果から言うと、当初俺が抱いていた、ミサオは南極横断などという過酷な旅について来れるのか、という心配は全くの杞憂だった。
……と言うよりも寧ろ、終始俺よりも元気だった様に見えた。
当然だが、彼女は南極など初めて訪れる場所である為、氷に閉ざされた何も無い世界に圧倒されているようではあった。
しかしそんな中でも流石は研究者と言うべきか、ミサオは周囲の環境を興味深そうに調査していた。
勿論目的を忘れた訳ではなく、彼女曰く必要な調査らしい。
俺の目には、物珍しさから近寄って来たペンギンと戯れているようにしか見えなかったのだが……。
そうして俺の人生のトラウマの一つになってしまった南極の大地―――正確には氷原だが―――を、俺とミサオは進んで行った。
今にして思えば、不思議と一人で南極を訪れた時と比べて心に余裕があった気がする。
二度目という事で多少余裕が出来たのか、或いは一人ではなくミサオという同行者がいるからか。
どちらにしろ、俺は前回のトラウマを刺激される事無く、ミサオと共に氷の花園を目指して一面の銀世界を慎重に進んで行った。
そして、俺はミサオと共に二度目の来訪となる氷の花園の元へと辿り着く。
そこに広がっている光景は時間が止まっているかの如く前回と何も変わっておらず、俺がその場に付けた足跡すら何一つとして変わっていなかった。
以前目にした時と同じ様に無数に咲き誇った『青い花』達が、仄かに光を放ちながら静かに俺達を出迎えてくれていた。
暫し目の前の光景に見入っていた俺とミサオだったが、当初の目的を思い出し、青い花の採取作業に取り掛かる事にした。
ミサオが地面―――正確には大地の代わりに周囲を覆っている氷の床だが―――に咲いている花々を調べようとするが、途端にその表情が変わった。
更に周囲に咲く花々を見渡すと、怪訝そうな顔を浮かべたのだ。
『これは、花じゃないかもしれない』
その時の俺は彼女が言っている意味が分からなかったが、今にして思えばあの時点でミサオはあの花……『ブルーフィリア』がただの花ではない事に気付いていたのかもしれない。
そうしている内、よく分かっていない顔をしていた俺を余所にミサオは青い花の採取作業に入っていた。
驚いたのはミサオが荷物の中に小型のフリーザーを入れて来ていた事だ。
通りで彼女の荷物を持った時に重いと思った。
見た事も無い形式の物だったので聞いてみた所、このために自作したという返事が返って来た。
一緒に訓練を受けながらそんな物まで作っていたのかと呆れる思いだったが、ミサオの事だからとそれ以上追及はしなかった。
ミサオは最初に調べていた高さ二十センチほどの大きさの青い花を地面の氷ごと採取する事にしたらしい。
道具を使って花の根を傷付けない様に氷を切り出し、地面から切り離した状態でフリーザーに厳重に封をして保管した。
他の花は採取しなくて良いのかとミサオに聞いたのだが、『万が一を考えて、この一輪だけにしておく』との事だった。
採取した花がダメになってしまう事を考えれば複数の花を採取するべきではと思ったが、ミサオがその方が良いと判断しているのなら俺がとやかく言う事ではない。
何にせよ、これで念願だった『青い花』を手に入れる事が出来たのだ。
ミサオが嬉しそうな表情をしているのを見て、俺も報われた様な心持になっていた。
帰りの行程の事を考えるとまだまだ憂鬱ではあったが、これで先ずは一段落だ。
そう考えながら俺はミサオと共に氷の花園を後にした。
あの時はこれでミサオの研究が進めば良いとだけ考えていた。
だが、もしも今、あの時に戻れるとしたら――――――俺はどうするだろうか?
変わらずミサオの為に行動するだろうか?
或いは――――――あの『花』を持ち出すのを止めようとするだろうか?
例え、力付くでも。
……今となっては既に手遅れだ。
それでもやはり考えてしまう。
あの時あの花を持ち帰りさえしなければ。
花の話をミサオに伝えずにいれば。
俺が……ミサオと出会わなければ―――。
青い花―――『ブルーフィリア』を巡り惨劇が起きたのは、南極から俺とミサオが帰国してから2年後の事だった。




