6月3日 日曜日 底なし沼と青天井2
別に落としたいわけじゃない、と彼は言う。
「落ちるかどうかわからないと言っているだけだ」
「何が違うんですか?」
どっちにしろ落ちないだろうに。
腰を乗せた石はちょうど木陰になっていて、足元に目を落としても自分の影は見えない。
「杞憂、というだろう」
「ありえないことをむやみに心配する、って意味でしたっけ」
国語の資料集のダイジェスト版記述を思い出しつつ答える。
ありえないこと。例えば空が落ちてくるような。
ああ、でも元の話は、と彼は語り出す準備のように短く目を伏せた。
「杞の国に、天が崩れるのを寝食を忘れるほどに心配した男がいた。別の男がそれを見かねて、適当な理屈をつけて崩れないと説明してやった」
「それで終わりですか?」
彼の要約は情緒が感じられないほど短いものが多いので、確認のように尋ねる。
適当な理屈、というのは引っ掛かるが、憂いが払われたならよかったのだろう。
「いや、まだ男の心配は収まらない」
続くのか。
心配性だな、その人。まあそこまで極端じゃないと後世には残らないか。実在の人物かはわからないけれど。
「天は崩れなくても、地は崩れるかもしれない、と。相手は天と同じような理屈で男を安心させ、めでたく解決となるわけだ」
釈然としない思いが湧き上がり、彼が話を終えると同時に声を上げた。
「でも、地が崩れるのは……」
起こりうる。それこそ想像するだけで憂いに囚われるくらいに。
私に皆まで言わせず、そうだ、と彼は頷く。
「憂うにも安心するにも、大した根拠はない。そういう態度に対する批判がこの挿話の後に続く。論旨はこっちだな」
そうか、心配性の男の人の話がメインじゃなかったのか。
それで、今日の待ち合わせだが、と話が飛んで、首を傾げる。
「俺が約束を守れないことも、天が崩れるくらいにはありえる」
天が崩れるのと自分が約束を守れないのとを同じ次元で語れるってなかなかすごいな。
でも待ち合わせは、相手が来ることを大した根拠もなく信じないと成り立たないものだろう。だいたいは相手も来てくれるし。
だから理保、と彼は呼ぶ。
「携帯電話、今持ってるか?」
「え、はい」
彼の言いたいことをつかめないまま、バッグから取り出す。
「空が落ちてきても大丈夫なように、連絡先を教えておく」
「そんな大変なことになったら連絡どころじゃないでしょう」
なんなんだ、この人。喩えが壮大すぎる。
まあでも確かに、日頃外出し慣れていない私に、相手の連絡先も知らない待ち合わせは無謀だったかもしれない。
あれ、でも。
「今日のところは無事会えたことですし」
結果オーライだが、こうして無事待ち合わせは果たされたんだし、連絡先とかいまさらじゃないか。
「次はないつもりか?」
次、って、え、次回?
あるのか。あるかもな。……とりあえず目の前のことを片付けてから検討しよう。
というわけで連絡先を交換した。
……あれ、交換? いつの間にそんな話に? まあいいか。備えあれば憂いなしってことだな、たぶん。
登録を終えた携帯電話を満足げにしまってから、彼は言う。
「もちろん空が落ちてこなくても連絡してくれて構わない」
「……それさっきまでの話の意味がなくなるじゃないですか」
空が落ちるとか落ちないとかわからないとか。
そうでもない、と彼はゆるゆると笑う。
「八百屋お七は知ってるか」
「火付けでしたっけ」
「ああ。想う相手会いたさに、火事を起こした」
結局江戸の半分以上を焼く大火を起こし命を落とした、と彼は続けた。
はた迷惑な、としか感じられないのは、私が恋の狂気を知らないからだろうか。
それでも。
何の口実も、何の条件も必要なく、会いたいから会えるというのは、とても幸せなことなのだろう、とは思う。
彼はふっと息をついて、体を後ろに倒すように空を見上げる。
「空を落とせば想う相手に会えるとしたら、きっと空を落とそうとするだろう」
釣天井。
不意にまた、その言葉が浮かぶ。先ほどとは異なる実感を伴って。
彼の視線を辿って首を上に向ける。
足元の影と同期してさわりと揺れる木の枝越しに、空が見える。
空はどこか平面的で、世界はとても不確かだ。
それでも当たり前のように、今は空より彼の方が近い。
それで安心できるかというと、別の問題なのが困ったところだけれど。
まあ、ここは。
彼に目を戻す。
「……ぜひ連絡させてください」
それはもう、空が落ちてくる前に。




