第8話 真夜中の水攻めと頻尿のリンク
午前二時。
高島平の街が寝静まっても、伊集院神悟の戦いは続いていた。
リビングのソファで、彼はまるで修行僧のような形相で、2リットルのペットボトルを抱えていた。中身はただの水道水だ。
「……飲め。飲むんだ、俺」
ネットの怪しい情報『水を大量に飲めばアルコール数値が下がる』を信じ込み、神悟はすでに三本目のボトルを空にしようとしていた。
腹はタプタプで、胃袋が破裂しそうだ。
それでも、明日の朝の「ピピッ(測定音)」という処刑宣告に比べればマシだ。
ゴキュ、ゴキュ、ゴキュ……。
白目を剥きながら水を流し込む。これは水分補給ではない。体内洗浄という名の悪あがきだ。
同時刻、谷底の団地。
早乙女千夏は、夫のイビキの隣で泥のように眠っていた……はずだった。
「……っ!?」
ガバッ!
千夏は布団を跳ね除けて飛び起きた。
強烈な尿意だ。
膀胱がパンパンに膨れ上がり、今にも決壊しそうな感覚に襲われたのだ。
「う、嘘でしょ……さっき行ったばっかりなのに……」
千夏はトイレに駆け込んだ。
これで今夜、四回目だ。
寝る前に水分なんて摂っていない。夕飯の味噌汁も半分こぼしたから、ほとんど飲んでいないはずだ。
なのに、体の中から湧き水のように水分が溢れてくる。
ジャーッ。
トイレの水を流し、千夏はげっそりとした顔で便座に座り込んだ。
「……何かの病気? 腎臓?」
不安になる。だが、違う。
自分の腹が「タプン、タプン」と鳴っているのが聞こえるのだ。飲んでもいない水が、胃袋の中で暴れている。
(……また、あいつか?)
千夏の脳裏に、あの震える男の顔がよぎる。
あいつが今、どこかで溺れるほど水を飲んでいるんじゃないか?
「ふざけんなよ……。なんであんたの水飲み健康法に、私の膀胱が付き合わなきゃなんないのよ!」
千夏は壁をドンと叩いた。
その衝撃は、Wi-Fiに乗って神悟へ。
「ぶふっ!!」
神悟は飲んでいた水を盛大に吹き出した。
突然、左の脇腹に鋭い痛みが走ったのだ。まるで誰かに思い切り殴られたような衝撃。
「……い、痛ぇ……! なんだ今のは……飲み過ぎて内臓が破裂したか!?」
神悟はパニックになり、濡れた床を拭くのも忘れてお腹をさすった。
崖の上で水を飲み続ける男。
谷底でトイレと寝室を往復させられる女。
そして、ようやく眠りに落ちた二人を待っていたのは、共有された悪夢だった。
夢の中で、神悟は巨大なアルコールチェッカーの前に立たされていた。
機械の判定ランプが、毒々しい赤色に光り輝いている。
『判定: 人間失格』
機械が喋った。声はなぜか、あのスーパーで見た「半額肉おばさん(二階堂麗子)」の声だった。
「あらあ、伊集院さん。数値出ちゃってますわよ? クビですわね、オホホホ!」
一方、千夏も同じ夢を見ていた。
自分が見知らぬ運送会社の事務所で、パイプ椅子に縛り付けられている。
目の前には巨大なチェッカー。
なぜか自分が息を吹き込まなければならない。
「ふーっ! ふーっ!」
必死に吹くが、ランプは赤く点滅する。
『判定: 貧困確定』
機械が無慈悲に告げる。
「……ひぃっ!」
「……やめろぉ!」
午前四時。
二人は同時に叫び声を上げて目を覚ました。
窓の外は、まだ暗い。
神悟の顔面は蒼白で、千夏の目の下には消えないクマが刻まれていた。
いよいよ、運命の朝が来る。
コンプライアンスの刃は、二人の首元まで迫っていた。
続く




