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第7話 無菌室の検問と震える味噌汁


 午後九時過ぎ。伊集院神悟は、自分の家であるはずの新築戸建ての前に立ち尽くしていた。


 西台の崖の上にそびえる、白いサイディングボードで覆われたモダンな家。三十五年の住宅ローンという名の鎖で繋がれた、夢のマイホーム。


 だが、今の神悟にとって、そこは安らぎの城ではない。明日の朝、会社で待ち受ける「アルコール検問」までの、短い仮釈放を楽しむための独房だ。


 神悟は玄関の前で、何度もハァーッと息を吐き、自分の口臭を確認した。


(……ダメだ。ミントの奥に、まだあいつ(アルコール)がいる)




 震える指で鍵を開け、そっとドアノブを回す。


「……ただいま」


 蚊の鳴くような声で呟き、足音を立てないように中へ入る。


 玄関ホールは、目が痛くなるほど白かった。白い大理石調のタイル、白い壁紙。そこへ、アルコールと恐怖に汚染されたオッサンが一匹、迷い込んだ構図だ。


 靴を脱ごうとした瞬間、廊下の奥から「看守」が現れた。


 妻の絵里子(えりこ)だ。


 彼女は無言のまま、神悟を見据えた。その手には、まるで警察官が拳銃を構えるように、消臭スプレーが握られている。


「……あの、ただいま」


「お風呂場へ直行して。リビングは通らないでね」


 シュッ、シュッ。


 絵里子は神悟に向けてではなく、神悟が今まさに通り過ぎた「空間」に向けて、念入りにスプレーを噴射した。


 まるで、空間そのものを除菌するかのように。


 神悟は背筋が凍った。


(家でも検問かよ……)


 会社のチェッカーも怖いが、妻の嗅覚センサーはもっと怖い。神悟は「はい」と小さく返事をし、逃げるように脱衣所へ向かった。





 一方、谷底の団地。


 早乙女千夏は、夕食の準備という名の「苦行」の真っ最中だった。


 メニューは、半額シールの貼られた豆腐と、しなびたネギを入れた味噌汁。そして、昨日炊いてカピカピになったご飯で作ったチャーハンだ。


 千夏は、お椀に熱々の味噌汁を注ごうとお玉を握った。


 その時だ。


 ガタガタガタッ!


 突然、右手が激しく痙攣した。


「……っ!?」


 自分の意思ではない。まるで右腕だけが別の生き物に乗っ取られたかのように、小刻みに、そして激しく上下に揺れ始めたのだ。


 お玉の中の味噌汁が波打ち、熱湯が千夏の手の甲に跳ねる。


「あつっ!」


 思わずお玉を取り落としそうになる。


 何これ。なんなのこれ。


 これはただの手の震えじゃない。「恐怖」だ。


 誰かが何かに怯え、パニックになっている振動が、そのまま自分の腕に伝わってきている。


(あいつだ……! あのクソ震え男だ!)


 直感でわかった。あのコンビニに来るアル中男が、今どこかで何かにビビって震えているのだ。




 リビングから、テレビを見ていた夫が、不機嫌そうな声を上げた。


「おい千夏ー、飯まだー? ゲームの区切りついちゃったんだけど」


 その間延びした、緊張感のかけらもない声を聞いた瞬間、千夏の中で何かがプツンと切れた。


 こっちは原因不明の痙攣と火傷、そして見知らぬ男の恐怖心と戦っているのだ。それをなんだ、飯まだだと?


 千夏は震える右手を無理やり左手で押さえつけ、食卓へ向かった。


 お椀の中身は、震動で半分くらいこぼれてしまっている。


「……はい、よ」


 ドン! と乱暴にお椀を置く。


 夫はスマホから目を離さず、箸を伸ばしかけて、止まった。


「あれ? 味噌汁少なくね? つーか、お前なんか手が震えてない? 酒でも飲んだ?」


 ニヤニヤと笑いながら言う夫。


 その「酒」という単語が、千夏の(そして神悟から送られてきた)地雷を踏み抜いた。


「……うるさい。酒なんて一滴も飲んでない」


 千夏はドスを利かせた声で吐き捨てた。


 飲んでるのは私じゃない。私の脳内に勝手に住み着いた、どこかの見知らぬオッサンだ。


 しかも、そのオッサンは今、「酒を飲んだことがバレる恐怖」で震えているらしい。


(ざまぁみろ。何があったか知らないけど、一生震えてろ)




 千夏は台所に戻り、シンクの水流に震える手を突っ込んだ。


 冷たい水が、他人の恐怖を少しだけ洗い流してくれる気がした。


 崖の上で、冷水シャワーを浴びて震えを誤魔化す神悟。


 谷底で、水道水に手をさらして震えを止める千夏。


 二人の「震え」は、水温を通じてもリンクしていた。


 神悟がシャワーのノブをひねり、お湯に変えた瞬間。


 千夏の指先に、ありえない「温もり」が伝わった。


 冷たい水に触れているはずなのに、指先だけがポカポカと温かい。それは、誰かに優しく手を握られたような感覚に似ていた。


「……は? きっしょ……」


 千夏は身震いし、慌てて手を引っ込めた。


 その温もりは、優しさなんかじゃない。あの男が入っている風呂の温度だ。


 最も不潔で、最も生理的に無理な「共有」が、コンプライアンスの夜に二人を蝕んでいく。




続く

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