第6話 コンプライアンスという名の死刑宣告
店を出た神悟は、逃げるように路地裏の公園へと滑り込んだ。
雨が降り始めているが、そんなことはどうでもいい。今は一刻も早く、この手のひらの中にある「精神安定剤(ストロング缶)」を摂取しなければならない。
ベンチに座るのももどかしく、立ったままプルタブを開ける。
プシュッ。
一気に流し込む。炭酸の痛みと、人工的な果実の甘みが、恐怖で収縮した胃袋に染み渡る。
「……ふぅ、うぅ……」
一度大きく息を吐く。だが、震えは止まらない。
なぜなら、今日の夕方、轟運送の事務所で起きた「事件」が、あまりにも衝撃的すぎたからだ。
それは、定時の一時間前のことだった。
あの筋肉ダルマの権田所長が、事務所の中央で高らかに宣言したのだ。
「いいですか、皆さん! 本社からのお達しです! 昨今のコンプライアンス強化に伴い、明日からドライバーだけじゃなく、内勤者全員のアルコールチェックを義務付けます!!」
その瞬間、神悟の心臓は止まった。いや、正確にはヒュンッと縮み上がり、血の代わりに冷や汗を全身に噴射した。
(……は? な、なんだって?)
「出社時と退社時、必ずチェッカーに息を吹き込んで下さいね! 0.01でも数値が出たら即アウト、始末書じゃ済まないよ! 厳正に処分しますので!」
所長の声が、神悟には死神の宣告に聞こえた。
神悟は顔面蒼白で、自分のデスクの下に隠してある「緊急用ウイスキーの小瓶」の存在を確認した。
アウトだ。どう考えてもアウトだ。
神悟の体は、血液の半分がアルコールで構成されていると言っても過言ではない。
「前日の酒が残っている」レベルではないのだ。「常に継ぎ足している」のだから。
(ど、どうする……? 明日の朝? 無理だ、抜けるわけがない)
神悟は必死にスマホで検索した。
『アルコール 抜く方法 即効』
『アルコールチェッカー 誤魔化す 裏技』
『呼気 カレーの匂いで 反応しない?』
検索結果に並ぶのは「大量の水を飲む」「サウナに入る」といった、気休めにもならない健康法ばかり。
中には「マッシュルームを食べると消える」という都市伝説レベルの情報もあったが、今の神悟は藁にもすがる思いだ。
(マッシュルーム……帰りにあるだけ買い占めるか? いや、そんな大量のキノコを食ったら、酒の前に腹を壊して死ぬ)
公園のベンチで、神悟は頭を抱えた。
雨に濡れた中年男が、ストロング缶を握りしめてブツブツと呟いている。
「……終わった。俺の社会人ライフが、あの白いプラスチックの機械一つで終わる……」
あの機械は、ただの測定器じゃない。神悟にとっては、息を吹きかけた瞬間に社会的な死をもたらす「断頭台」だ。
明日からは、シラフという名の地獄を生きるか、チェッカーをごまかして綱渡りをするか。
どちらにせよ、地獄。
一方、その頃。
高島平の団地、早乙女家の食卓。
千夏は、息子の残した冷たいナポリタンを食べていた。
すると突然、喉の奥がカッと熱くなり、強烈な「ミント」の味が口の中に広がった。
「……うぇっ!? 辛っ!」
千夏は思わず箸を止めた。
ナポリタンのはずなのに、口の中がまるで「強力ミントタブレット」を一瓶丸ごと噛み砕いたかのようにスースーする。
涙目になりながら水を飲むが、刺激は消えない。
(なんなのこれ……? 歯磨き粉食ってるみたい……)
それは、崖の下の公園で、神悟が「ブレスケア」的なタブレットを、致死量に近いほど大量に噛み砕いている味だった。
神悟は必死なのだ。明日の検査に向けて、少しでも「清涼感」でアルコールを相殺しようという、無駄すぎる抵抗の味。
千夏は口元を押さえ、不快感に顔を歪めた。
「……誰よ。こんな時間に、歯磨き粉定食でも食ってる馬鹿は」
神悟の「社会的抹殺への恐怖」と、無駄な「口臭ケアの努力」。
その滑稽な必死さが、千夏の味覚を理不尽に侵略していた。
続く




