第5話 シンクロニシティの胎動
夕暮れ時。西台の崖の下にある街は、上から降りてくる巨大な影によって、どこよりも早く夜の帳に包まれる。
太陽はまだ沈みきっていないはずなのに、この低地だけは、冷たい灰色の闇が支配し始めていた。
神悟は、轟運送の営業所から駅へと続くアスファルトの道を、泥のような足取りで歩いていた。
日中、無理やり体を動かしていたアルコールの魔法はとっくに消え失せ、代わりに数倍に膨れ上がった疲労と虚脱感が全身に重くのしかかっている。
ネクタイは無様に緩み、白いカッターシャツは一日分の汗と埃を吸い込んで、象の肌のようにくすんでいた。
駅へ向かう人々の流れに逆らうように歩きながら、神悟は自分の存在がこの街の景色から浮き上がっているような錯覚に陥る。
ふと、笹目通り沿いで不自然に輝く看板に目が留まった。
「イエローマート」
朝、自分が震える手で「燃料」を買い込んだ場所だ。
吸い寄せられるように、神悟は店へと向かった。
理由は自分でも痛いほどわかっている。もう一度、あの液体を胃に流し込まなければ、崖の上の「家」という名の戦場まで登りきる気力が、一滴も残っていないのだ。
妻の冷めた視線、ローンの督促状、子供たちの無垢すぎる声。それらに立ち向かうための武装が、今の彼には必要だった。
同じ頃、千夏はレジの交代時間を迎えようとしていた。
パート上がりに、閉店間際の棚に残った安売りのパンと、せめてもの罪滅ぼしに息子のための安いプリンを買う。
それが彼女の虚しいルーティンだ。レジ袋の有料化すら惜しんで、ボロボロのエコバッグに商品を詰め込む。
自分の買い物を持ってレジの列に並ぶ千夏の、ちょうど数人後ろ。
そこに、あの「震える指の男」が、再び現れた。
神悟は、無意識に自分の前に並ぶ女の背中を見つめていた。
酷く、折れてしまいそうなほどに疲れた背中だ。
使い古され、持ち手が擦り切れたエコバッグを握る手。そこには、朝に自分がレジで見かけたのと同じ、安っぽいキャラクターの絆創膏を貼った親指が覗いていた。
パステルカラーの「くま」が、夕暮れの店内の照明の下で、場違いな明るさを放っている。
(……この人も、さっきまでここで働いてたのか)
神悟の脳裏に、朝の冷たい舌打ちが蘇る。
しかし、今は不思議と嫌悪感はなかった。ただ、自分と同じ重力に縛られ、地面に這いつくばって生きている者の気配を感じただけだ。
その時だ。
店の外の交差点で、一台の大型トラックが信号無視の車を避けるため、猛烈な勢いでブレーキを踏んだ。
キィィィィィィィィッ!!
朝、神悟が聞いた自転車のブレーキ音を、何百倍にも増幅したような、耳を劈く凄まじい金切り声。空気が震え、店内のガラス戸が小さくガタガタと鳴った。
その音に、二人は同時に、弾かれたように肩を大きく震わせた。
神悟は朝の自分の惨めさを呪い、千夏は朝の坂道の地獄を呪った。
その音は、二人の脆い精神の境界線を容易く踏み越え、隠していた絶望を白日の下に引きずり出した。
振り返った千夏と、俯いていた神悟の視線が、一瞬だけ、火花を散らすように空気の中で衝突した。
ただの客と店員。
崖の上で墜落を待つ者と、崖の下で這い上がろうとする者。
二人の目は、お互いの中に自分と同じ「死んだ魚の目」を見つけた。重力に抗い続ける女と、重力に身を委ねた男。
本来ならば決して交わるはずのなかった二つの絶望が、イエローの看板の下で、静かに、しかし確実に共鳴を始めた。
それが、これから始まる巨大な連鎖の、最初の鼓動だということに、まだ二人は気づいていない。
「――次の方、どうぞー」
店長の間延びした声が、凍りついた時間を溶かす。
千夏はハッと我に返って前を向き、震える手で小銭をトレーに置いた。神悟はその背中のすぐ後ろで、逃げ場のない列に縛られたまま、カゴの柄を強く握りしめていた。
続く




