第4話 黒い鏡の中の共犯者
休憩室の隅、パイプ椅子の冷たい感触に身を任せ、千夏はスマホの画面を睨みつけていた。
蛍光灯の青白い光が、換気扇の回る音だけが響く狭い部屋を虚しく照らしている。ここは、現実から少しだけ隔離された、唯一の避難所だ。
だが同時に、自分の惨めさを再確認するための独房でもあった。
ふと指を止めると、スリープモードに入った画面は「黒い鏡」となって千夏の顔を冷酷に映し出した。
無造作にひっつめた髪からこぼれる後れ毛、カサついた唇、そして何より――光を失った、死んだ魚のような濁った目。
(……誰だよ、これ)
かつて自分が抱いていたはずの、ささやかな夢や希望の欠片すらそこにはない。
映っているのは、生活という名の底なし沼を延々と歩かされている、ただの「労働力」という名の肉塊だ。
昔の自分が今の自分を見たら、きっと悲鳴を上げて逃げ出すだろう。
逃げるように、千夏は再び画面を叩いた。
SNSのタイムラインをスクロールすれば、そこには眩しすぎるほどの別世界が広がっている。
陽光が差し込むテラス席のランチ、無造作に置かれた新作のブランドバッグ、非の打ち所がない幸せそうな家族写真。
画面の中の人々は、重力なんてこの世に存在しないかのように、羽が生えたような軽やかさで笑っている。
彼女たちにとって、坂道はただの景色のアクセントに過ぎない。電動アシストすら必要ないほど、人生そのものが軽やかに流れているように見える。
千夏は、自分の親指に巻きつけられた「くまの絆創膏」に目を落とした。 家事とパートで荒れ果て、血が滲んだ指先に張り付く、薄汚れたパステルカラーの「くま」。
皮膚が引っ張られて不気味に顔を歪めているそのキャラクターは、まるで自分の代わりに苦痛を叫んでいるかのようだった。
この安っぽい絆創膏が、今の自分の身の丈なのだ。
画面の向こう側の世界と、今の自分を繋ぐ唯一の接点は、この掌サイズの「黒い鏡」だけ。
この鏡を閉じれば、後に残るのは冷えたコンビニ弁当の残骸と、終わりのない家事という名の義務だけ。
「……ハッ。何見てんだろ、私。馬鹿みたい」
自嘲気味に呟き、画面を閉じる。
見れば見るほど、自分の惨めさが浮き彫りになるだけなのに、指が勝手に動いてしまう。
依存しているのだ。自分より幸せな誰かへの激しい嫉妬と、自分と同じように泥水を啜りながら生きている「誰か」への、根暗で執拗な連帯感に。
他人の不幸を願うわけではないが、自分と同じように不幸な人間が存在することを確認して、ようやく「自分だけじゃない」と呼吸ができる。
ふと、朝のレジに来た、あの震える手をした男の顔が脳裏をよぎった。
あの男も、きっとどこかの暗い部屋で、この「黒い鏡」の中に映る死に体の自分を眺めているのだろうか。
自分と同じように、何かに縋り、何かに絶望しながら。
社会からこぼれ落ち、酒という麻酔で痛みを誤魔化しながら。
そう思うと、微かだが、鉛のように重かった胸が軽くなった気がした。
自分だけがこの地獄の底にいるわけじゃない。
この街のあちこちに、同じように絶望を噛み締め、声を殺して泣いている「共犯者」たちがいる。
誰も助けてはくれない。誰も気づいてはくれない。
でも、あの男の「震え」と私の「指の痛み」は、どこかで繋がっているような気がした。
千夏は勢いよく立ち上がり、絆創膏の端を親指でギュッと押し付けた。 鋭い痛みが走り、意識を現実に引き戻す。
それでいい。この痛みだけが、自分がまだ死んでいないことを、かろうじて教えてくれる唯一の証拠なのだから。
続く




