第3話 重力と一円の戦争
「――ママ、遅いー! 五味ちゃんのママ、行っちゃったよー!」
背中のチャイルドシートから、五歳の息子の無邪気な声が鼓膜に突き刺さる。
「……うるさい、黙って乗ってて」
千夏は奥歯を噛み締め、錆びついたママチャリのペダルに全体重を乗せた。
高島平の駅周辺は平坦だが、少し離れると微妙な勾配がある。たかが数度の坂道が、米袋と息子、そして自身の体重を支える千夏の太ももには、垂直にそびえ立つ断崖絶壁のように立ちはだかる。
キュル、キュルルルル……。
油の切れたチェーンが悲鳴を上げる。昨夜、注油しようと思って忘れていたことを思い出した。
いや、正確には「油を買う金」すらケチって、台所のサラダ油で代用しようか迷った挙句、結局何もしなかったのだ。
今の自分には、自転車のメンテナンスに割く時間も精神的余裕も残っていない。
その悲鳴をかき消すように、横を涼しい顔をした母親が颯爽と追い抜いていく。
ウイイイイイン――。
電動アシスト自転車のモーター音だ。
千夏はその軽やかな駆動音を聞くたびに、言いようのない殺意を覚える。
あれはただの自転車じゃない。「私はあなたとは住む世界が違う」という、無言のマウントの塊だ。
汗一つかかず、膝を汚すこともなく優雅に坂を登っていく後ろ姿。その背中には「余裕」という二文字が、高級な子供服のブランドロゴと一緒にべったりと張り付いている。
(……こっちは一円でも安いもやしを探して、隣町まで走ってんだよ)
昨日の夕飯も、その前の日の夕飯も、もやしで傘増しした野菜炒めだった。
肉を欲しがる息子には「これは魔法の肉だよ」と適当な嘘をついて、細かく切った油揚げを食べさせた。自分はといえば、息子の食べ残したふやけた野菜を流し込むだけ。
千夏は心の中でドス黒い毒を吐き散らしながら、鉛のように重いペダルを回し続けた。
電動自転車の値段は十万円以上。今の我が家の家計では、逆立ちしたって買えない代物だ。
たかだか十万。されど十万。
その金額の差が、この坂道では「天国」と「地獄」ほどの残酷な格差となって現れる。
不意に、ハンドルに下げたパンパンのレジ袋が前輪に当たりそうになり、自転車が大きくふらついた。
「わあぁっ! 人に当たっちゃう!」
息子の叫び声。千夏は必死にハンドルを抑え込み、地面に足を叩きつけた。
コンクリートに叩きつけられそうな恐怖よりも先に、袋の中の卵が割れていないかどうかが脳裏を支配する。
(……一パック九十八円。タイムセールの行列に三十分並んで手に入れた卵……。これを割ったら、今日の私は何のために生きてるかわからなくなる)
「……ハァ、ハァ……クソッ、死ねよ。重力。死ねよ、坂道」
息が上がる。肺が焼けるように熱く、喉の奥が鉄の味がした。
重力という名の現実が、容赦なく千夏を地面へと引きずり下ろそうとする。
それでも足を止めるわけにはいかない。
止まれば、倒れる。倒れれば、二度と起き上がれない気がした。
この生活と同じだ。
必死に、なりふり構わずペダルを回し続けなければ、あっという間に貧困という名の谷底へ真っ逆さまだ。
ようやく坂を登りきり、保育園への角を曲がる頃には、千夏の太ももは痙攣し、安物のTシャツは汗で肌に不快に張り付いていた。
登り切った達成感なんて欠片もない。あるのは、ただのひどい消耗と、これから始まる「パート」という名の第二の地獄への絶望だけだ。
朝からすでに満身創痍。
だが、本当の戦いはこれからだ。
パート先での理不尽な客の要求。陰湿なマウントを取り合うママ友たちの薄っぺらな会話。そして、家に帰れば待っている、あの役立たずの「健介」という名の粗大ゴミの世話。
千夏は自転車を停めると、乱れた前髪を乱暴にかき上げた。
その瞳の奥には、すべてを焼き尽くそうとする諦めと怒りが、ドス黒い炎のように揺らめいていた。
続く




