第2話 惰性の坂道と震える伝票
キイイイイイッ。
錆びついたブレーキが、早朝の住宅街に不快な金切り声を上げた。
西台の崖の上から、高島平の工業地帯へと続く急な坂道。神悟はペダルを漕ぐことなく、ただ重力に身を任せて下っていく。
ハンドルを握る手には、じっとりと冷たい脂汗が滲んでいた。
風が冷たい。だが、ワイシャツの下の背中は嫌な熱を持って濡れている。
――楽だ。
ぼんやりとした頭で、神悟は思う。
下るのは、いつだって楽だ。ペダルを漕ぐ必要もない。ただブレーキを緩めれば、勝手に底の方へ、低い方へと落ちていける。まるで自分の人生そのものだ。
新築の建売住宅。身の丈に合わないローン。妻の冷ややかな視線。
それらすべてを崖の上に置き去りにして、彼は毎朝、こうしてドブ川の流れる低地へと転がり落ちていく。
行き着く先は、笹目通り沿いにある「轟運送」の営業所だ。
だが、その前に寄らなければならない場所がある。今の神悟にとって、会社よりも重要な補給基地。
「イエローマート」だ。
自動ドアが開くと同時に、気の抜けた入店音が鳴る。
神悟は逃げるように酒類コーナーへ向かい、ストロング系チューハイのロング缶と、口臭ケアのタブレットを鷲掴みにした。
レジに向かう。そこに立っていたのは、いつもの女だった。
名札には「早乙女」とある。
無愛想で、いつも何かに苛立っているような目をした女。神悟はこの女が苦手だった。その目が、まるで自分の薄汚い内臓まで見透かしているように感じるからだ。
「……お願いします」
商品をカウンターに置く。
指先の震えが止まらない。小銭入れから百円玉を取り出そうとするが、指が言うことを聞かず、ジャラリとトレーの上にぶちまけてしまった。
女の眉が、ピクリと動く。
「……チッ」
舌打ちが聞こえた気がした。いや、間違いなく鳴らした。
だが、文句を言う気力もない。神悟は視線を泳がせながら、震える手で足りない十円玉を摘み上げようと必死になる。
(見るな。俺の手を見るな)
女の視線が、震える指先に突き刺さる。それは「哀れみ」ですらない。「汚物」を見る目だ。
「……お会計、三百四十二円です」
事務的な声。神悟はようやく小銭を揃え、逃げるように押しやった。
レシート――伝票が、機械から吐き出される。
女はそれを乱暴に引きちぎると、神悟の方へ突き出した。
受け取ろうと伸ばした神悟の手と、女の指が一瞬だけ触れそうになる。 その瞬間、女はまるで毒虫でも避けるように、パッと手を引いた。
ヒラヒラと、行き場を失ったレシートが宙を舞い、カウンターの上に落ちる。
その紙切れさえも、神悟の目には小刻みに震えているように見えた。
「……袋、いりません」
神悟は缶とタブレットをひったくり、落ちたレシートを無視して店を飛び出した。
店の裏手の駐輪場。
プルタブを開け、震える喉にアルコールを流し込む。強烈な炭酸と化学的な甘さが、空っぽの胃袋を焼き尽くす。
「……ふぅ……」
一気に半分飲み干すと、ようやく指の震えが止まった。
世界が少しだけ、まともな輪郭を取り戻す。
空になった缶をゴミ箱に叩き込み、タブレットを三粒、口に放り込む。 ネクタイを締め直し、鏡のない窓ガラスに映る自分に向かって、無理やりに口角を上げた。
「よし。……おはようございます」
完璧だ。どこからどう見ても、真面目な配送会社の係長だ。
神悟は再び自転車に跨り、ペダルを強く踏み込んだ。
続く




