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第1話 泥濘(ぬかるみ)のモーニングコール



 午前六時。世界が動き出すよりも少し前、高島平の街は白い霧に沈んでいた。


 荒川から流れ込む湿った空気が、低地に広がる巨大な団地群を覆い隠し、まるで底のない沼地のように見せている。


 その沼を見下ろす高台、西台の崖の上に張り付くように建てられたクリーム色の狭小住宅。


 五十四歳の伊集院神悟は、洗面所の鏡の前で、胃の奥からこみ上げる酸っぱいものを必死に押し殺していた。


「……う、ぐ……」


 嗚咽が漏れる。口の中が鉄と腐った果実の味がした。昨晩流し込んだ安酒の残骸だ。


 鏡に映っているのは、土気色の肌に脂汗を浮かべた中年男。目の下にはクマがこびりつき、頬は不健康にむくんでいる。


「……神、悟……だと?」


 乾いた唇で、自分の名前を呟く。神の悟(さとり)。


 親はどんな希望を持って、この崇高すぎる名前をつけたのだろうか。


 鏡の中にいるのは神などではない。アルコールという燃料がなければ、指一本動かすことすら億劫な、ただの肉の塊だ。


 蛇口をひねり、冷たい水を顔に叩きつける。水滴を拭おうとタオルに伸ばした指先が、小刻みに震えていた。


――チッ、もう切れやがったか。


 脳がアルコールを欲して悲鳴を上げている。


 この震えを止めるには、迎え酒が必要だ。だが、これから「会社員」という仮面を被って出社しなければならない。


 壁一枚隔てたリビングからは、妻と子供たちが朝食をとる音が聞こえる。






 一方「イエローマート」


 焦れば焦るほど、脂汗が噴き出る。


 女店員の冷たい視線が、頭頂部に突き刺さるのを感じる。


(早くしろよ、アル中)


 声に出していないはずなのに、そんな幻聴が聞こえた気がした。



 千夏は、カウンターに肘をつきそうになるのを堪えて、無表情で男を見つめていた。


 プルプルと震える指。爪の間に詰まった垢。安っぽいスーツの袖口は切れている。



――あーあ。いい年したオッサンが、三百円払うのに何分かかってんだよ。


 その震えはなんだ? 寒さか? 恐怖か? 違う、ただの自業自得だ。



 私が百円のプリンを我慢して、自転車で坂道を登っている間、こいつは酒に溺れて現実から逃げているだけだ。


 無性に腹が立った。


 こいつの震えと、私の指の痛み。同じ苦しみみたいに見えるかもしれないが、質が違う。


 こっちは「生きてる」痛みだ。お前のは「死にかけてる」震えだ。


「……はい、ちょうど」


 ようやく男が小銭を出し終えた。


 千夏はそれをトレーから回収し、レシートも渡さず、商品だけを無造作に押しやった。


「ありがとうございましたー」


 語尾が伸びた、心のこもっていない挨拶。




 千夏は自宅の冷蔵庫の上に置いてあった絆創膏の箱を掴んだ。


 中身はもう空に近い。最後の一枚。子供用に買った、安っぽいキャラクター絆創膏だ。


 パステルカラーの背景に、ファンシーな「くまのぬいぐるみ」が描かれている。


 彼女はそれを、血の滲む親指にきつく巻きつけた。


 ゴツゴツと節くれだった、色気のかけらもない女の指。そこに巻きつけられたファンシーな「くま」は、皮膚に引っ張られて横にびろりと伸び、苦しそうに顔を歪ませていた。


 その歪んだ笑顔が、今の自分そのものに見えて、千夏は鼻で笑った。


「……似合わねえな、クソが」


 奥の部屋から、五歳の息子のむずかる声が聞こえる。


 千夏は深く息を吐き出し、重たい体を起こした。戦いのゴングは、もう鳴っている。




 崖の上から坂を下る男。谷底から這い出そうとする女。


 二つの絶望は、まだ交わらない。


 彼らが吸い寄せられるように向かう場所――「イエローマート」の看板だけが、朝霧の中で黄色く、不気味に点滅していた。




 続く


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