↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
10/43

第9話 奇跡の0.00と冤罪の二日酔い


 午前七時。決戦の朝。


 轟運送の事務所には、ピリついた空気が張り詰めていた。


 入口に設置された白い祭壇――アルコールチェック専用デスクの前には、ドライバーや内勤者たちが列を作っている。


 次々と聞こえる「ピッ、正常です」という機械音声。それは生存確認のファンファーレだ。


 列の最後尾で、伊集院神悟は死刑台に向かう囚人のように震えていた。


(……頼む。昨日の水攻め、効いてくれ……!)


 顔色は悪い。冷や汗も止まらない。だが、奇妙なことに――体調は悪くなかった。


 いや、むしろここ数年で一番「スッキリ」していると言ってもいい。


 いつもなら鉛のように重い頭が軽い。胃のムカつきもない。視界もクリアだ。


 まるで、体内の毒素が魔法のように消え失せたかのような爽快感。


(これが……水の力か?)


 神悟は自分の生命力を過信した。


「おい伊集院! 次、お前だぞ!」


 権田所長が睨みを利かせる。


 神悟は覚悟を決めた。ストローを咥え、肺の中の空気をすべて吐き出すつもりで吹き込む。


 ふーーーーーーっ!!


 長い。必死すぎて酸欠になりそうだ。


 ピピッ。


 判定音が鳴る。神悟は恐る恐る液晶画面を覗き込んだ。


 『測定値: 0.00 mg/l』


「……は?」


 神悟は目を疑った。ゼロ? コンマ一ミリも出ていない?


 あれだけ毎日浴びるように飲んでいる俺の血が、清流のように綺麗だと?


「よし、伊集院、セーフだ。とっとと仕事にかかれ」


 所長が興味なさそうに顎をしゃくる。


 神悟は震える手でガッツポーズをした。


(勝った……! 俺は勝ったんだ! 科学に! アルコールに!)


 神悟は知らない。その「勝利」が、誰の犠牲の上に成り立っているのかを。




 同時刻。イエローマートのバックヤード。


 早乙女千夏は、段ボールの山に突っ伏して死にかけていた。


「……うぅ……気持ち悪い……」


 世界が回っている。


 ガンガンと頭の中で工事現場のような騒音が響き、胃袋は裏返しになりそうなほど痙攣している。


 典型的な、そして重度の二日酔いだ。


(なんで……? 私、昨日一滴も飲んでないのに……)


 千夏は涙目で呻いた。


 昨夜は頻尿で眠れず、明け方にようやくウトウトしたと思ったら、目覚めた瞬間にこの地獄だ。


 口の中が苦い。身体中から、あの嫌なアルコール臭が染み出している気がする。


「おーい早乙女さん、顔色ヤバいよ? 飲み過ぎ?」


 ヘラヘラした店長が、ニヤニヤしながら覗き込んでくる。


 その顔を見た瞬間、千夏の殺意と吐き気が同時にピークに達した。


「……ちげぇよ……」


 千夏は掠れた声で毒づいた。


 違う。これは私の二日酔いじゃない。


 あの「震える男」だ。あいつが本来味わうべき苦しみが、なぜか全部こっちに転送されてきているんだ。


 神悟の肝臓が処理しきれなかったアセトアルデヒド(毒素)は、Wi-Fiに乗って千夏の肝臓へ。


 神悟が得た「スッキリした目覚め」は、千夏から搾取した健康なエネルギーだ。


 これは等価交換ですらない。一方的な廃棄物処理の押し付けだ。




「……うぷっ」


 千夏は口元を押さえ、トイレへダッシュした。


 便器に顔を突っ込みながら、彼女は心の中で絶叫した。


(許さない……! 絶対に突き止めてやる……! 私の健康な朝を返せ、このアル中泥棒!!)




 事務所で、神悟は鼻歌交じりにパソコンを叩いていた。


「いやー、やっぱり水ですね! 健康一番!」


 隣の席の同僚に、ウザいくらい明るく話しかけている。その活力のすべてが、今まさにトイレで吐いている主婦からの盗品だとも知らずに。




 しかし、運命(バグ)は、神悟にタダで勝利を与えたわけではなかった。


 午前十時。



 神悟が伝票整理をしていると、突如として強烈な「空腹感」に襲われた。


 グゥゥゥゥゥゥ……!


 腹の虫が、事務所中に響き渡るような大音量で鳴いたのだ。


「……あ?」


 朝飯は食ったはずだ。なのに、飢餓状態のように腹が減っている。


 そして、脳裏に浮かんだのは「半額の菓子パン」と「廃棄寸前のおにぎり」の映像だった。


 千夏がトイレから戻り、空っぽの胃袋でフラフラになりながら品出しをしている、その切実な「ひもじさ」が、時間差で神悟を襲撃し始めたのだ。


「伊集院、さっきから腹の音うるせえぞ!」


 所長に怒鳴られる。


 神悟は真っ赤になって腹を押さえた。


 今度は、千夏の「貧困の空腹」を背負わされる番だ。




 毒素を押し付けた男と、空腹を押し付け返す女。


 見えないパイプで繋がれた二人の内臓は、今日も仲良く不幸を循環させている。




続く

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。