第9話 奇跡の0.00と冤罪の二日酔い
午前七時。決戦の朝。
轟運送の事務所には、ピリついた空気が張り詰めていた。
入口に設置された白い祭壇――アルコールチェック専用デスクの前には、ドライバーや内勤者たちが列を作っている。
次々と聞こえる「ピッ、正常です」という機械音声。それは生存確認のファンファーレだ。
列の最後尾で、伊集院神悟は死刑台に向かう囚人のように震えていた。
(……頼む。昨日の水攻め、効いてくれ……!)
顔色は悪い。冷や汗も止まらない。だが、奇妙なことに――体調は悪くなかった。
いや、むしろここ数年で一番「スッキリ」していると言ってもいい。
いつもなら鉛のように重い頭が軽い。胃のムカつきもない。視界もクリアだ。
まるで、体内の毒素が魔法のように消え失せたかのような爽快感。
(これが……水の力か?)
神悟は自分の生命力を過信した。
「おい伊集院! 次、お前だぞ!」
権田所長が睨みを利かせる。
神悟は覚悟を決めた。ストローを咥え、肺の中の空気をすべて吐き出すつもりで吹き込む。
ふーーーーーーっ!!
長い。必死すぎて酸欠になりそうだ。
ピピッ。
判定音が鳴る。神悟は恐る恐る液晶画面を覗き込んだ。
『測定値: 0.00 mg/l』
「……は?」
神悟は目を疑った。ゼロ? コンマ一ミリも出ていない?
あれだけ毎日浴びるように飲んでいる俺の血が、清流のように綺麗だと?
「よし、伊集院、セーフだ。とっとと仕事にかかれ」
所長が興味なさそうに顎をしゃくる。
神悟は震える手でガッツポーズをした。
(勝った……! 俺は勝ったんだ! 科学に! アルコールに!)
神悟は知らない。その「勝利」が、誰の犠牲の上に成り立っているのかを。
同時刻。イエローマートのバックヤード。
早乙女千夏は、段ボールの山に突っ伏して死にかけていた。
「……うぅ……気持ち悪い……」
世界が回っている。
ガンガンと頭の中で工事現場のような騒音が響き、胃袋は裏返しになりそうなほど痙攣している。
典型的な、そして重度の二日酔いだ。
(なんで……? 私、昨日一滴も飲んでないのに……)
千夏は涙目で呻いた。
昨夜は頻尿で眠れず、明け方にようやくウトウトしたと思ったら、目覚めた瞬間にこの地獄だ。
口の中が苦い。身体中から、あの嫌なアルコール臭が染み出している気がする。
「おーい早乙女さん、顔色ヤバいよ? 飲み過ぎ?」
ヘラヘラした店長が、ニヤニヤしながら覗き込んでくる。
その顔を見た瞬間、千夏の殺意と吐き気が同時にピークに達した。
「……ちげぇよ……」
千夏は掠れた声で毒づいた。
違う。これは私の二日酔いじゃない。
あの「震える男」だ。あいつが本来味わうべき苦しみが、なぜか全部こっちに転送されてきているんだ。
神悟の肝臓が処理しきれなかったアセトアルデヒド(毒素)は、Wi-Fiに乗って千夏の肝臓へ。
神悟が得た「スッキリした目覚め」は、千夏から搾取した健康なエネルギーだ。
これは等価交換ですらない。一方的な廃棄物処理の押し付けだ。
「……うぷっ」
千夏は口元を押さえ、トイレへダッシュした。
便器に顔を突っ込みながら、彼女は心の中で絶叫した。
(許さない……! 絶対に突き止めてやる……! 私の健康な朝を返せ、このアル中泥棒!!)
事務所で、神悟は鼻歌交じりにパソコンを叩いていた。
「いやー、やっぱり水ですね! 健康一番!」
隣の席の同僚に、ウザいくらい明るく話しかけている。その活力のすべてが、今まさにトイレで吐いている主婦からの盗品だとも知らずに。
しかし、運命は、神悟にタダで勝利を与えたわけではなかった。
午前十時。
神悟が伝票整理をしていると、突如として強烈な「空腹感」に襲われた。
グゥゥゥゥゥゥ……!
腹の虫が、事務所中に響き渡るような大音量で鳴いたのだ。
「……あ?」
朝飯は食ったはずだ。なのに、飢餓状態のように腹が減っている。
そして、脳裏に浮かんだのは「半額の菓子パン」と「廃棄寸前のおにぎり」の映像だった。
千夏がトイレから戻り、空っぽの胃袋でフラフラになりながら品出しをしている、その切実な「ひもじさ」が、時間差で神悟を襲撃し始めたのだ。
「伊集院、さっきから腹の音うるせえぞ!」
所長に怒鳴られる。
神悟は真っ赤になって腹を押さえた。
今度は、千夏の「貧困の空腹」を背負わされる番だ。
毒素を押し付けた男と、空腹を押し付け返す女。
見えないパイプで繋がれた二人の内臓は、今日も仲良く不幸を循環させている。
続く




