第10話 半額シールの殺意と、営業所の暴発
午後一時。轟運送の事務所。
伊集院神悟のデスク周りは、ピリピリとした緊張感に支配されていた。
「おい、伊集院! さっきから腹の虫がうるせえんだよ! 電話の向こうにまで聞こえてるぞ!」
所長の権田が、デスクをバンと叩いて怒鳴り散らす。首の太さが神悟の太ももくらいある、元トラックドライバーの巨漢だ。
「……も、申し訳、ありません。どうも、胃の調子が……」
神悟は小さくなって謝った。
朝の「奇跡のアルコール・ゼロ」と引き換えに、神悟は今、地獄のような飢餓感に襲われていた。
グゥゥゥゥ……。
胃袋が内側から雑巾絞りされているように痛い。これはただの空腹じゃない。「ひもじさ」だ。何日もまともなタンパク質を摂っていない身体が、栄養を求めて悲鳴を上げている。
(クソッ……あいつだ。あのコンビニ女の空腹が、俺を食い殺そうとしてるんだ)
同時刻。高島平のスーパー「イエローマート」。
早乙女千夏は、神悟から転送された二日酔いの頭痛と戦いながら、精肉売り場の前に立っていた。
彼女の視線の先には、運命の獲物があった。消費期限今日までの「豚こま切れ肉」。黄色と赤の毒々しい『半額』シールが貼られている。グラム四十八円。底値だ。
千夏が震える手を伸ばした、その時だった。
「あらあ、早乙女さんじゃない? 奇遇ねえ」
背後からかけられた声に、千夏は凍りついた。
振り返ると、そこにいたのは「天敵」――同じ保育園のママ友、二階堂麗子だった。
麗子のカートには、霜降りの牛肉と、デパートでしか見ないような高級ドレッシングが入っている。彼女は千夏の手にある「半額豚こま」を見て、優越感に満ちた笑みを浮かべた。
「へえ……豚こま、半額なんだ。いいわねえ、早乙女さんは。そういう細かい節約がお上手で。私なんてズボラだから、ついつい良いお肉買っちゃって……見習わなきゃ」
悪意のないふりをした、純然たる悪意。「貧乏人はゴミを漁れて羨ましいわ」というマウントだ。
普段なら愛想笑いで流す場面だ。だが、今日の千夏は違った。体内には神悟から送られてきた「怒りの燃料」が満タンで、脳のブレーキが壊れていたのだ。
千夏の視界が真っ赤に染まる。
(死ね。死ねよ。その霜降り肉で喉詰まらせて死ね、このメス豚が)
声に出せば社会的に終わる。だから千夏は、そのドス黒い殺意を腹の底に溜め込み、ギリギリと歯を食いしばった。
その瞬間。千夏が飲み込んだ巨大な「殺意のデータ」は、行き先を求めてWi-Fiに乗り、二キロ離れた営業所の神悟へと誤送信された。
事務所。
「聞いてんのか伊集院! 腹減っただの言い訳してねえで、シャキッとしろ! この給料泥棒が!」
権田所長の罵倒が続く。
空腹で意識が朦朧としていた神悟の目に、脂ぎった権田の顔が、巨大な肉の塊に見えた。
いつもなら「はい、すいません」とやり過ごす場面だ。
だが、神悟の口は、脳の指令を無視して勝手に動いた。
「……うっせえんだよ、豚」
ピタリ。
事務所の空気が凍りついた。電話のベル音だけが響く。
権田が目を丸くして動きを止めた。
「……あ? 今、なんつった?」
神悟自身も戦慄していた。(え? 俺、所長に向かって豚って言ったのか!?)
だが、口の動きは止まらない。千夏の怒りが、目の前の「霜降り肉のような所長」に見事に誤変換されて出力されていく。
「空腹」×「二日酔いのイラつき」×「マウントへの殺意」。最悪の掛け算が、神悟をベルセルク(狂戦士)に変えた。
神悟はゆっくりと顔を上げた。その目は、生活に追い詰められた主婦の、ヒステリックで凶暴な眼光だった。
「テメェはいいよな、高い肉食って、ふんぞり返って吠えてるだけで……こっちはな、一円単位で頭下げて、泥水すすって生きてんだよ……! 半額シールごときで、マウント取ってんじゃねえぞクソ豚が!!」
神悟の絶叫がこだました。
全員がポカーンとしている。権田所長も、あまりの剣幕と会話の脈絡のなさに(半額シール?)、怒るのを忘れて呆然としている。
イエローマートの千夏は、ふっと肩が軽くなるのを感じていた。
「……あれ? なんかスッキリした」
あれほど煮えたぎっていた怒りが、嘘のように消えている。代わりに急激な「申
訳なさ」が胸に込み上げてきたが、彼女はそれを更年期のせいにして無視した。
事務所では、我に返った神悟が、真っ青な顔でガタガタと震え始めていた。
「……あ、あの、所長……い、今の、は……」
権田の顔色が、赤から紫、そしてドス黒い色へと変わっていく。
神悟の社会的な死は、確定した。
続く




