第11話 始末書の満面スマイルと、号泣のバーコード
午後二時。轟運送の所長室は、通夜のような静けさに包まれていた。
パイプ椅子に座らされた伊集院神悟(54歳)は、老眼鏡をかけた震える手で、真っ白なコピー用紙に向かっていた。
『始末書』。
定年まであと六年。この歳で書くその文書は、サラリーマンとしての死亡診断書に等しい。
目の前には、腕を組んだ権田所長(42歳)が、鬼のような形相で仁王立ちしている。
一回り年下の上司。かつては神悟が仕事を教えたこともあったが、今や立場は逆転し、完全な「お荷物社員」扱いだ。
「……書けたか、伊集院さんよぉ」
嫌味たっぷりに呼ばれる。
「は、はい……いま、署名を……あ、手が、震えて……」
神悟の手は震えていた。これは恐怖と、老い先短い絶望だ。
ここでクビになったらどうなる? 五十四歳で再就職? 無理だ。腰痛持ちなど、どこも雇ってくれない。
家のローンは八十歳まで残っている。 完済する頃には、自分はこの世にいないかもしれない。妻になんて説明する?
想像するだけで、緩んだ涙腺が決壊しそうになる。初老の男が、鼻水をすすりながら鉛筆を走らせる。惨めすぎて、消えてなくなりたい。
(泣くな、俺。いい歳して泣いたら血圧が上がる……)
神悟は入れ歯になりかけの奥歯を食いしばり、必死に涙を堪えた。
だが、その我慢した大量の「涙のデータ」は、行き場を失い、またしてもWi-Fiに乗ってしまった。
送信先は、もちろんイエローマートだ。
同時刻。イエローマートのレジカウンター。
早乙女千夏は、女子高生客のレジ打ちをしていた。
その時だ。
ツーーッ。
何の前触れもなく、千夏の左目から熱い雫がこぼれ落ちた。
「……え?」
悲しくない。痛くもない。なのに、涙が止まらない。古びたダムが決壊したように、ドロリとした粘液があふれ出してくる。
「……う、うっ……ぐすっ」
嗚咽が漏れた。
自分の意思とは関係なく、顔がクシャクシャに歪んでいく。まるで、リストラ部屋に追い込まれた中年男のような、汚らしくて情けない泣き顔に。
「え、やだ、店員さん泣いてる?」
「マジ? 情緒ヤバくない?」
女子高生たちがドン引きしている。
(違うの! 私じゃないの! なんで涙が出てくんのよ!)
止めようとすればするほど、神悟の「年金が減る」「退職金が出ない」という切実すぎる絶望が流れ込み、涙の量は増えていく。
「い、いらっしゃいませぇ……ひっ、ぐぅ……あ、ありがとうござい……うおぉぉん!」
千夏は号泣しながらレジを打った。バーコードリーダーを持つ手が激しく震え、「ピッ」という音が心電図の停止音のように虚しく響く。
女子高生たちは恐怖に顔を見合わせ、商品をひったくるようにして逃げていった。
一方、所長室の神悟。
彼は始末書を書き終え、所長に提出しようと「よっこらしょ」と立ち上がった。
心の中は土砂降りだ。顔は涙でグチャグチャになっているはずだ。
そう思って顔を上げた瞬間――。
ニパッ
神悟の顔面に、満面の笑みが張り付いた。
深いほうれい線を歪め、目尻のシワをくしゃくしゃにした、マニュアル通りの完璧な「営業スマイル」だ。
千夏が長年のパート生活で培った「鉄壁の愛想笑い」が、号泣する千夏の代わりに、絶望する神悟の老け顔に転送されてしまったのだ。
権田所長が固まった。
目の前の年上の部下は、反省の色を示すどころか、まるで孫が生まれたかのような、キラキラとした笑顔を向けてきている。
「……伊集院さん、お前。その歳でボケたか?」
違う! 誤解だ! 俺は今、人生で一番反省している!
だが、口から出た言葉は、千夏のレジ接客マクロに支配されていた。
「ありがとうございましたー!! またお越しくださいませー!!」
元気いっぱいの、よく通るガラガラ声。
ブチッ。
権田所長の頭の中で、敬老精神が吹き飛ぶ音がした。
「き、貴様ァァァ!! ふざけるなァァァ!!」
所長が激昂して立ち上がる。
神悟は笑顔のまま、腰を直角に曲げてお辞儀をした。
「お箸はお付けしますかー!?」
恐怖で引きつっているはずの顔が、筋肉レベルで「笑顔」に固定されている。
神悟はシワだらけの笑顔のまま、所長の巨大な拳が振り上げられるのを、老眼のかすみ目の中でスローモーションで見ていた。
イエローマートでは、千夏がレジの中でうずくまっていた。
「……ううっ、なんでよぉ……私、なんも悲しくないのにぃ……加齢臭がするぅ……」
悲劇の涙はレジへ飛び、喜劇の笑顔は処刑台へ飛ぶ。
死にぞこないたちの感情の交差点は、今日も大事故を垂れ流している。
続く




