第12話 所長の鉄拳と、主婦の謎の吹っ飛び
ドゴォッ!!
轟運送の所長室に、昭和のアニメみたいな鈍い打撃音が響き渡った。
権田所長の右フックが、笑顔で直立不動の伊集院神悟(54)の左頬に、綺麗にクリーンヒットした音だ。
元トラックドライバーの丸太のような腕から繰り出された一撃。
本来なら、初老の男の顎なんて粉砕されて、入れ歯が天井に突き刺さってもおかしくない。
「ぶべらっ!」
神悟は奇妙な声を上げ、パイプ椅子ごと派手に吹っ飛んだ。
床をごろごろと転がり、壁に激突して止まる。
シーン……。静まり返る事務所。
だが、神悟の脳内会議はパニックどころか、不思議な「凪」の状態だった。
(……ん? んんん? あれぇ?)
神悟は床に寝転がったまま、パチクリと瞬きをした。
(殴られたよね? 今、完全に「ドゴォ」って言ったよね? なのに……痛くない。痛みが、ない。ゼロ。無痛。……え、僕、死んだ? ここ天国?)
神悟はゆっくりと上半身を起こした。
左頬は赤く腫れ上がり、口の端から血をツーッと流している。見た目は重傷だ。
しかし、その表情は――ニッコニコだった。
営業スマイルが、物理的衝撃でさらに歪み、もはや「福笑いの失敗作」みたいな不気味な笑顔になっている。
「……あ、ありがとうございましたー!!」
反射的に、また口が勝手に接客用語を叫ぶ。
裏返ったような、どこか素っ頓狂な大声だ。
「ひっ……!」
権田所長が小さく悲鳴を上げ、後ずさりした。
殴っても笑顔。血を流しても笑顔。
こいつは人間じゃない。ゾンビだ。いや、妖怪「笑いジジイ」だ。
神悟は自分の頬をペタペタと触った。
「あれー? 所長、これ、痛くないんですけど。麻酔効きすぎちゃったかな? ……あ、これどういうシステム? 殴ると回復するシステム? ドMの極み?」
「……き、気持ち悪いんだよテメェ!!」
権田は恐怖に耐えきれず、叫んだ。
「もういい! 帰れ! 明日まで謹慎だ! 二度とその不気味なツラ見せんじゃねえ!」
一方、その頃。
イエローマートのレジカウンター。
千夏は、号泣しながらもなんとか業務に戻ろうとしていた。
「……ひっ、ぐすっ……すいません、ちょっと情緒が……更年期じゃないんですけど……」
鼻をすすりながら、カゴの中の納豆を手に取ろうとした。
その瞬間だった。
ズドォォォォン!!
目に見えない巨大なハンマーで殴られたような衝撃が、千夏の左頬を襲った。
「っだぁぁぁい!!」
千夏は野太い叫び声を上げ、レジカウンターから真横に吹っ飛んだ。
ワイヤーアクションのように綺麗に宙を舞い、タバコの陳列棚に突っ込む。
ガラガラガッシャーン!
タバコの箱が、雪崩のように彼女の上に降り注ぐ。
「きゃあああ! 早乙女さん!?」
店内は騒然となった。
千夏が立っていた場所には誰もいない。ただ、彼女がいきなり一人で、見えない敵にぶん殴られて吹っ飛んだのだ。
「……い、いったぁ……マジかよ……」
千夏はタバコの箱に埋もれながら、ジーンと痺れる左頬を押さえた。
激痛だ。奥歯がグラつくほどの衝撃。口の中が鉄の味で満たされている。
(な、なんなのよ……!? 誰!? 透明人間!?)
千夏は涙目で周囲を見渡した。誰もいない。
だが、この痛みは紛れもなく「ゴリラみたいな男の本気パンチ」の痛みだ。
その時、千夏の脳裏に、あの「営業スマイルの老け顔男」がフラッシュバックした。
さっきまで、自分の代わりに不気味な笑顔を浮かべていた(ような気がする)あのオッサン。
「……あいつか」
千夏は低い声で唸った。ドスの利いた、ハスキーな低音ボイスだ。
「あいつが今、どこかで殴られやがったんだ。んで、その『痛み』だけを、私の顔面に転送してきやがったんだ……!」
「さ、早乙女さん! 大丈夫!? 顔、すごい腫れてるよ!?」
店長が駆け寄ってくる。
千夏はタバコの箱を払いのけ、鬼のような形相で立ち上がった。
「……大丈夫です。ちょっと、床が滑って……コークスクリューしちゃっただけなんで」
「ええ……?」
千夏は心の中で、カチリと何かのスイッチを入れた。
――許さない。
私の涙を搾取し、私の顔面をサンドバッグ代わりにした、あの名も知らぬクソジジイ。
絶対に探し出して、この痛み(きっちり一発分)を倍にして返してやる。
轟運送のビルの下。
追い出された神悟は、腫れ上がった顔(ただし無痛)で、空を見上げていた。
「……んー、なんかスッキリしたな。これが『毒出し』ってやつ? デトックス? ……あ、血出てるわ」
ヘラヘラと笑う神悟。痛みというストレスを、誰かが肩代わりしてくれたおかげで、体調はすこぶる良い。
謹慎処分のサラリーマン(54)と、謎の負傷をしたパート主婦(35)。
二人は共に「早退」となり、真昼の街へと放り出された。
行き先は一つしかない。
互いの傷を舐め合い、互いを呪い合うための聖地。
高島平の公園だ。
続く




