第13話 湿布臭い54歳と、やさぐれメンソール
午後四時。高島平の公園。
錆びついたブランコの横にあるベンチに、その「物体」は座っていた。
伊集院神悟、54歳。
定年間近、役職なし、家庭での居場所なし。
いわゆる「窓際族」の完成形である彼は今、殴られた左頬と、慢性痛の腰に巨大な湿布を貼り、死んだ魚のような目で鳩を見つめていた。
「……クルックー。お前はいいなあ、空飛べて。俺なんて、地面を這うどころか、もう半分埋まってるよ。腰がね、もう『動くな』って言ってるの。労働組合結成してるの、僕の脊髄で」
ブツブツと独り言を漏らす。その口調は、自信を喪失した初老の男特有の、ねちっこくて情けないものだ。
加齢臭と湿布の匂いが混ざった、哀愁という名の芳香を漂わせている。
そこへ、一人の女が現れた。
早乙女千夏、35歳。
黒のスキニーパンツに、少し大きめのパーカー。手にはコンビニで買ったロング缶のチューハイ。
彼女はベンチの反対側にドカッと座ると、プシュッと音を立てて缶を開けた。
「……ふぅー」
千夏が長く電子タバコの煙を吐き出す。
その煙が、風に乗って神悟の方へ流れた。
「んっ、げほっ! ……あー、いや、いいんだ。僕の肺なんてね、もう耐用年数過ぎてますから。どうぞ汚して。フィルター交換もしてないし」
神悟が謎の気遣いを見せて身を縮める。
千夏は無視した。というか、この薄汚いオッサンに関わりたくなかった。
(なんだこのジジイ……昼間から公園で独り言とか、終わってんな)
だが、決定的な瞬間が訪れた。
神悟が「んぐぐ……よっこい、しょぉ……!」と、老体に鞭打って体勢を変えた瞬間。
千夏の腰に、ピキィッ! という鋭い電流が走ったのだ。
「……いっ、たぁ……!」
千夏は思わず腰を押さえた。
なんだこれ。ギックリ腰? まだ三十代だぞ?
しかも、この痛み……隣のオッサンが「よっこいしょ」したタイミングと、完全にリンクしている。
千夏はゆっくりと顔を向けた。
ジロリ。
爬虫類のような冷たい視線が、神悟を射抜く。
「……あ、あの、何でしょう? 僕の顔に何かついてます? まあ、湿布ついてますけども。これ剥がしたらもっと酷いことになってるんで、見ない方が……R-18指定なんで……」
神悟がしどろもどろに言い訳をする。目が泳ぎまくっている。
千夏は低い声で言った。
「おい、ジジイ」
「は、はい! ……ジジイですけども! あと六年で還暦ですけども!」
「あんた今、腰痛いか?」
神悟は目を丸くした(あの大げさなびっくり顔で)。
「えっ、なんで分かるの? エスパー? ……いや実はね、もう慢性的なヘルニアでね、さっき会社で殴られた拍子にグキッといっちゃって……軟骨がね、飛び出ちゃって……」
ビンゴだ。
千夏の中で、すべての線が繋がった。
朝の震え。昼の空腹。二日酔い。謎の顔面殴打。
そして今の、老人のような腰痛。
すべての元凶は、この目の前にいる、湿布臭くて加齢臭のする、冴えない初老の男だったのだ。
千夏は飲みかけのロング缶をベンチに叩き置いた。
ガンッ!
「……テメェかよ」
「へ?」
「私の青春と健康を奪ってる疫病神は……テメェだったのかよ!!」
千夏が立ち上がる。
神悟もビビって立ち上がろうとするが、腰が痛くて「あだだだ!」と中腰で固まる。
「ひっ、な、何!? カツアゲ!? 僕、小遣い三万だよ!? 妻に管理されてるよ!?」
「うるせえ! 黙れヘルニア!」
千夏が神悟の胸ぐらを掴む。
身長差はあるが、気迫の差で千夏が圧倒している。
「いいか、よく聞けクソ親父。あんたのそのポンコツな身体のガタが、全部こっちに飛んできてんだよ! あんたが腰痛めると、私の腰が痛むの! あんたが頻尿だと、私がトイレに行きたくなるの!」
神悟はパチクリと瞬きをした。
「……は? ……頻尿? ……あー、まあ、最近キレが悪くてね……夜中も四回くらい起きちゃうし……」
「それを私が食らってんだよ!! 昨日の夜中、四回トイレ行ったわ!!」
公園に怒号が響く。
鳩が一斉に飛び立つ中、54歳の窓際おじさんと、30代のやさぐれ主婦は、最悪の形で「接続」を確認した。
千夏は絶望した顔で天を仰いだ。
「嘘でしょ……シンクロ相手が、同世代のイケメンとかじゃなくて……こんな介護手前のジジイだなんて……」
「ちょ、言い過ぎじゃない!? 介護はまだ! ……いや、予備軍ではあるけども!」
続く




