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第14話 不平等条約と、幻のケツ痒み


 「……てことは、だ」


 早乙女千夏は、空になったロング缶を握り潰しながら、目の前の物体を睨みつけた。


 「あんたが禁酒すれば、私の二日酔いはなくなる。あんたが健康的な生活を送れば、私の謎の不調も治る。……そういうことだな?」


 伊集院神悟は、鳩のフンを避けるように身をよじりながら、ヘラヘラと笑った。


 「んー、理論上は? そうなる計算というか、方程式というか? でもね、お姉さん。この年齢のサラリーマンからアルコールを引いたらね、残るのは『尿酸値』と『後悔』だけなんですよ。これ、テストに出ますよ」


 「うるせえよ。テストに出すなそんなゴミ問題」


 千夏は舌打ちをした。


 「いいか、今からルールを決める。条約だ。破ったら……殺す」




 千夏はスマホを取り出し、メモアプリを立ち上げた。


 『対・クソジジイ 身体共有に関する協定』


 「第一条。クソジジイは、平日夜九時以降の飲食を禁ずる」


 「えっ、厳しくない!? 九時って、僕まだ会社で『すみません』って言ってる時間だよ? ストレスのピークだよ?」


 「知るか。あんたが深夜にラーメンとか食うと、翌朝私の顔がむくむんだよ」


 「第二条。……その加齢臭をなんとかすること」


 「無理ー!!」


 神悟が裏返った声で叫ぶ。


 「それは無理! 細胞レベルの話だから! 僕の細胞がもう『酸化したい』って言っちゃってるから! 止められないの、このビッグウェーブは!」


 「あーもう、うるせえな!」


 千夏がイラつきながら貧乏ゆすりを始める。


 すると、神悟の足も勝手にガクガクと震え始めた。


 「あ、揺れてる。僕の足が、意思に反してバイブレーションしてる。……君さ、もうちょっとカルシウム摂りなよ。君がイラつくと、僕の胃酸が逆流して食道が焼けるのよ」


 「は? なんで私が指図されなきゃなんないのよ」


 「お互い様でしょ! こっちは君の生理痛まで共有させられてんだぞ! 先月なんて、会議中にお腹痛すぎて『うぅぅ……』ってうずくまって、救急車呼ばれかけたんだからな!」


 「……チッ。ざまぁみろ」


 千夏がロング缶を振り上げた、その時だった。


 ボリボリ。


 神悟が無意識に、スラックスの上から自分のお尻を掻いた。


 それも、結構激しく。


 「……んっ!!」


 千夏がビクッと反応し、変な声を上げた。


 「……おい。ジジイ。今、どこ掻いた」


 「え? いや、ちょっとお尻が……乾燥肌でね、この季節は粉吹いちゃって……あとちょっと、アレの気があって……」


 「アレってなんだよ」


 「……痔。切れとかイボとか、その日の気分で日替わりランチなんだけど」


 神悟はボリボリボリボリと、遠慮なく尻を掻きむしる。


 54歳の熟成された痒みだ。


 「や、やめろ……!!」


 千夏が顔を真っ赤にして叫んだ。


 「あんたが尻掻くと……私の尻も痒くなるんだよ!!」


 「えっ」


 神悟の手が止まる。


 「……マジ?」


 「マジだよ!! さっきからお尻の穴の付近がムズムズしてんだよ!! どうしてくれんだよ!!」


 「うわぁ……ごめん。でも、痒いのって我慢すると余計に……あー、ダメだ、ここ痒い。右の、この、割れ目の上が……」


 ボリボリボリボリ!!


 神悟の指が高速で動く。恍惚の表情だ。


 「ひぃぃぃっ! やめろっつってんだろクソジジイ!!」


 千夏はベンチの上で悶絶した。


 痒い。死ぬほど痒い。しかも場所が場所だ。


 うら若き(?)女性が、公園のベンチで尻を掻きむしるわけにはいかない。社会的な死だ。


 「と、止めろ……その手を……へし折るぞ……!」


 「無理無理! これは生理現象だから! くぅ〜、ここ! ここが一番痒い!」


 「あぁぁぁん! そこやめろぉぉ!!」


 千夏の絶叫が公園に響き渡る。




 通りがかった親子連れが、恐怖のあまり走って逃げていく。


 「ママ、あのお姉さん、お尻抑えて叫んでる……」


 「見ちゃいけません!」


 限界に達した千夏は、残っていたチューハイの底の汁を、神悟の顔面にぶちまけた。


 バシャッ!!


 「ぶふぉっ!?」


 神悟がむせる。冷たいアルコール臭い液体が顔を滴る。


 と同時に、千夏の顔面にも、見えない水流が直撃したような「ヒヤッ」とした感覚が走った。


 「……つめたっ!」


 千夏は自分の顔を拭った。濡れてはいない。感覚だけだ。


 チューハイまみれで濡れ鼠になったオッサンと、何も濡れてないのに「冷たい!」と叫んで顔を拭く女。


 地獄絵図である。


 「……もう嫌だ、この身体……」


 千夏はベンチに突っ伏して泣いた。


 神悟は濡れた眼鏡を拭きながら、ボソッと言った。


 「……奇遇だね。僕もだよ。でもねお姉さん、これだけは言わせて」


 神悟は真顔で言った。


 「僕のお尻は、まだ痒い」


 「殺すぞ!!!」


 交渉決裂。


 二人のシンクロ生活は、最低最悪のスタートを切った。




続く

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