第15話 濡れ鼠と、沈黙の裁判官
「……殺すぞ」
早乙女千夏の低い声が、夕暮れの公園に落ちた。
怒鳴り声ではない。底の底から湧き出た、冷たく乾いた殺意だ。
ベンチの向かいでは、伊集院神悟が、頭から滴り落ちるチューハイでビショ濡れになりながら、身を小さくしていた。
スーツが肌に張り付く。夕方の風が冷たい。
だが、それ以上に寒いのは、自分の惨めさだ。
「……あの、お姉さん。これ、ベタベタするんだけど。僕の加齢臭とグレープフルーツが混ざって、なんか腐った果実みたいな匂いが……」
「黙れ。腐って土に還れ」
千夏は無表情で、幻の飛沫がかかった顔を拭っていた。
最悪だ。
仕事は早退。顔は腫れている。服は感覚的に濡れている。そして目の前には、薄汚い濡れ鼠のオッサン。
これが私の人生か。どこで間違えた? 生まれた時か?
千夏が重い腰を上げようとした、その時だった。
ジャリッ。
自転車のタイヤが、砂利を踏む音がした。
「……あら?」
千夏の心臓が、ドクンと大きく跳ねた。
その声は、千夏がこの団地で最も警戒している人物――笹本の声だった。
PTA役員。自治会役員。そして、歩く防犯カメラ。
千夏はゆっくりと首を回した。
そこには、スーパーの袋をカゴに満載した笹本が、能面のような表情で立っていた。
サングラス越しの視線が、千夏と神悟を交互に見ている。
濡れたオッサン。転がる空き缶。腫れた千夏の顔。
沈黙。
永遠にも感じる数秒間。
(まずい……)
千夏の背中を冷たい汗が伝う。
不倫? 借金の取り立て? それとも路上での喧嘩?
どんなタグを付けられても、明日には団地中に拡散される。
神悟も事態を察知した。
この奥様の目は笑っていない。僕のような「異物」を排除しようとする、地域社会の監視者の目だ。
言い訳をしなきゃ。何か言わなきゃ。
でも、喉が張り付いて声が出ない。
焦りが、脇汗となって噴き出す。
「っ……」
千夏の額から、タラリと脂汗が流れた。
動悸が激しくなる。
何もやましいことはしていないのに、まるで犯罪者のように心拍数が上がっていく。
「早乙女さん」
笹本が、静かに口を開いた。
「……大変そうね」
その言葉には、好奇心よりも深い「軽蔑」が含まれていた。
彼女は神悟を見て、次に千夏を見て、フッと鼻で笑ったのだ。
ああ、なるほどね。そういうレベルの低い人たちなのね、と見下すような笑い。
「いえ、あの、これは……」
千夏が震える声で何か言おうとする。
だが、笹本はもう興味を失ったように、ペダルに足をかけた。
「関わらないでおくわ。……お子さん、待ってるでしょう? 早く帰ってあげなさいね」
それだけ言い残し、笹本は静かに去っていった。
怒鳴られるわけでも、問い詰められるわけでもない。
ただ、「汚いものを見た」というように処理された。
その静かな拒絶が、ギャグのような言い訳よりも深く、二人のプライドを抉った。
「……はぁ、はぁ……」
神悟が過呼吸気味に息を吐く。
今の緊張で、胃がキリキリと痛む。
「……おい」
千夏がポツリと言った。
その目には、悔し涙が滲んでいた。
「あんたがビビるから……こっちまで動悸が止まんねえんだよ」
「ご、ごめん……でも、怖かったんだよ。あの目は、会社で所長が僕を見る時の目と同じだ……」
神悟は、チューハイで濡れてバリバリになった髪をかきむしった。
54歳にもなって、公園で年下の女に安酒をぶっかけられ、見ず知らずの奥様に汚物を見る目で見られる。
底辺だ。ここが人生の底だ。
「……連絡先、出しな」
千夏がスマホを取り出した。
「え?」
「このままじゃ終われない。……私の名誉と、あんたのその加齢臭をなんとかするための、作戦会議だ」
夕暮れの公園。
カラスが鳴く中、二人は震える手で「ふるふる」をした。
情けなくて、酒臭くて、どうしようもないシンクロが、ここに結成された。
続く




