第16話 激辛麻婆と、冷えたサバの味
午後七時半。
伊集院神悟は、濡れたスーツのまま自宅の玄関をまたいだ。
安物のチューハイが乾き始め、全身から甘ったるくて酸っぱい、とんでもない悪臭を放っている。
「……た、ただいまぁ」
恐る恐る声を出す。返事はない。
リビングのドアを開けると、妻の美津子(51歳)がテレビを見ていた。こちらを一瞥もしない。
「……うわっ、臭っ」
美津子が眉をひそめ、大げさに手で鼻を仰いだ。
「なによその匂い。……あんた、また公園でワンカップ飲んでひっくり返ったの? いい加減にしてよ」
「あ、いや、ちが……これは飲んでないんだ。事故というか、通り魔にかけられたというか……」
「はぁ? 通り魔が酒かけるわけ? 嘘つくならもうちょっとマシな嘘つきなさいよ。アル中の言い訳なんて聞きたくないのよ」
「…………」
神悟は黙り込んだ。反論できない。
普段からこっそり飲んではバレている「前科」があるからだ。
本当の事故なのに、誰にも信じてもらえない。これが、信用を失ったアル中親父の末路だ。
「さっさと風呂入って。汚い」
吐き捨てられた言葉を背に、神悟は風呂場へ逃げ込んだ。
一方、同時刻。
早乙女千夏(34歳)は、戦場のような台所に立っていた。
「ママ! お腹すいた!」
「おい、俺のビール冷えてねえぞ」
小学生の息子と、帰宅したばかりの夫が同時に声をかけてくる。
「うるさいな! 今やってんでしょ!」
千夏はフライパンを乱暴に振りながら叫んだ。
頭が痛い。さっきの公園での一件で、神経がすり減っている。
なのに、目の前にあるのは「日常」という名の重労働だ。
午後八時。
それぞれの夕食が始まった。
神悟の食卓には、ラップのかかった冷めた焼き魚と、昨日の残りの煮物が置かれていた。
妻と娘は既に食事を済ませ、それぞれの部屋に引き上げている。
広いリビングで一人、ポツンと食べる孤食。
酒は禁止されている。本当は今すぐ飲んで忘れたいのに、目の前には水しかない。
「……いただきます」
神悟は冷たくて硬いサバを口に入れた。
パサパサしている。脂が酸化した独特の臭みが鼻に抜ける。
不味い。アルコールで荒れた胃に、冷たい魚が重くのしかかる。
その瞬間だった。
カッ!!
神悟の口の中が、突然「爆発」した。
「……っ!? ぶふぉっ!!」
神悟は箸を取り落とした。 辛い。痛い。熱い!
ただの冷めたサバのはずなのに、口の中が火傷しそうなほどヒリヒリと燃えている。
「あががが! 胃が! 胃がぁぁ!!」
神悟はのたうち回った。
アルコールで弱りきった胃粘膜に、正体不明の激辛成分が直撃したのだ。
――イエローマートで購入した「四川風激辛麻婆豆腐の素(大辛)」。
それを今、千夏がストレス発散のためにガツガツとかき込んでいたのだ。
「……ふぅー、っくぅー! 辛っ! でもウマっ!」
千夏は汗をかきながら、激辛麻婆をビールで流し込んでいた。
ムカつくことばかりの日常には、この暴力的な刺激が必要だ。
彼女は知らない。その刺激が、遠く離れた胃潰瘍予備軍のオッサンを殺しかけていることを。
そして、逆もまた然り。
「……ん?」
麻婆豆腐を食べていた千夏の手が止まった。
口の中に、奇妙な違和感が広がる。
激辛の奥から、ねっとりとした「生臭さ」と「パサパサ感」が湧き上がってきたのだ。
「……うぇっ」
千夏は口元を押さえた。
なにこれ。古い魚? 冷蔵庫の奥で干からびたサバみたいな、哀しい味がする。
麻婆豆腐の味じゃない。これは……もっと「貧相」な味だ。
まるで、誰からも愛されていない食卓の味がする。
「……まさか」
千夏はスマホを睨んだ。
さっき登録したばかりの『伊集院』の名前。
千夏は震える指でメッセージを打った。
『おいジジイ。今、何食ってる』
数秒後。
神悟のスマホが鳴った。
彼は口の中と胃の激痛に耐えながら、涙目で画面を見た。
『サバです……冷めた、昨日のサバです……』
千夏はスマホをテーブルに叩きつけた。
『不味いんだよ!! 味が暗いんだよ!! もっとマシなもん食えや!!』
神悟は泣きながら返信した。
『君こそ何食べてるの!? 口の中が火事なんだけど!? 僕、胃が荒れてるんだよ!?』
リビングで一人、冷めたサバと激辛の幻痛に耐えるアル中おじさん。
家族に囲まれながら、貧相なサバの味に吐き気を催すやさぐれ主婦。
プライベートなんてない。
食事の味さえも、「あいつ」に侵食されている。
二人はスマホを握りしめ、それぞれの食卓で絶望を噛み締めた。
続く




