第17話 熱湯コマーシャルと、地獄のナイロンタオル
午後九時。
伊集院神悟(54歳)は、唯一の安息の地である浴室にいた。
服を脱ぎ捨て、鏡に映るだらしない腹を見る。メタボだ。重力に完全敗北した皮膚が、悲しげに垂れ下がっている。
「……ふぅ。よし、入ろう。今日の禊を済ませよう」
神悟は浴槽に足をかけた。
彼にはこだわりがある。
それは、「湯温46度」という、ほぼ熱湯に近い激アツ風呂に入ることだ。
年寄りは熱いのが好きだ。皮膚感覚が麻痺しているからではない。こうでもしないと、冷え切った心が温まらないからだ。
ザブゥゥゥン……!!
「あ゛あ゛あ゛あ゛〜〜〜……」
神悟は断末魔のような声を上げて、肩まで浸かった。
全身の毛穴という毛穴が開き、血管がドクドクと脈打つ。
「極楽……これぞ日本のサラリーマンの死に場所……」
その時。
遠く離れた場所で、悲劇は起きた。
同時刻。早乙女家。
千夏は、シャワーを浴びようと浴室に入ったところだった。
まだ服も脱いでいない。パジャマを用意しようとした、その瞬間。
ジュッ!!!!
千夏の全身を、見えない「熱湯」が包み込んだ。
「ぎゃああああああ!!!」
千夏は浴室で絶叫した。
熱い! というか痛い! 皮膚が溶ける!
ダチョウ倶楽部も裸足で逃げ出すレベルの熱波が、いきなり全身を襲ったのだ。
「な、なに!? 火事!? 私燃えてる!?」
千夏はパニックになって自分の体を見た。燃えていない。服も着ている。
だが、感覚だけは完全に「釜茹での刑」だ。
「……ハッ!」
千夏は気づいた。この殺人的な熱さ。
あのジジイだ。あのクソジジイが今、熱湯風呂に入りやがったんだ。
「ふざけんな……!死ぬわボケェ!!」
千夏は怒りで震えた。
このままではのぼせる。いや、茹で上がる。
やられたら、やり返す。それが高島平の流儀だ。
千夏はシャワーの蛇口を捻った。
温度設定は、「水(Cold)」。
ザァァァァァッ!!
千夏は服を着たまま、頭から冷水を浴びた。
真冬の水道水。その水温は、ほぼ氷水に近い。
一方、神悟。
「あ〜、いい湯だなぁ〜」と鼻歌を歌いかけた瞬間。
ヒュンッ!!!
「ひいぃぃっ!?」
神悟は湯船の中で跳び上がった。
寒い! 冷たい! 痛い!
体は熱湯に浸かっているのに、感覚だけが「極寒の滝行」に放り込まれたのだ。
「な、なにこれ!? 寒い! でも熱い! 体温調節機能がバグった!?」
神悟はパニックになり、湯船から出ようとしたり、また戻ったりと、一人で熱湯コマーシャルみたいな動きを繰り返した。
だが、地獄はこれからだった。
千夏は冷水を浴びながら、鬼の形相で「あるもの」を手にした。
彼女の愛用する、ボディスクラブ(塩入り)だ。
本来は優しくマッサージするものだが、今の千夏には武器に見えた。
「……肌、弱そうだったな。あのジジイ」
千夏は自分の腕に、粗塩入りのスクラブを塗りたくり、親の仇のようにゴシゴシと擦り始めた。
ギャァァァッ!!
神悟の二の腕に、激痛が走った。
「いったぁぁ!! 何!? ヤスリ!? 誰か僕の腕をヤスリで削ってる!?」
神悟は涙目で浴室を見回した。誰もいない。
だが、二の腕の皮がベロンと剥がれるような痛みが止まらない。
「お、お返しだ……!」
神悟は震える手で、愛用の「男の硬めナイロンタオル(超ハード)」を手に取った。
コンクリートでも磨けそうな、ガサガサの青いタオルだ。
「僕の乾燥肌を舐めるなよ……!」
神悟はナイロンタオルに石鹸もつけず、乾いたままの背中に回し、全力で摩擦を開始した。
ジョリッ! ジョリジョリジョリッ!!
「あだだだだだ!!!」
早乙女家の浴室で、千夏がのけぞった。
背中が! 背中の皮が千切れる!
「な、なんなのよあのジジイ! 金タワシでも使ってんのか!?」
千夏のきめ細かい背中の皮膚に、オッサンのナイロンタオルの感触がダイレクトに伝わる。
もはや拷問だ。
「やめろぉぉぉ! 私の背中はデリケートなんだよぉぉ!」
千夏は叫びながら、さらに冷水をかぶる。
「ひぃぃぃ! 寒い! 心臓止まる!」
神悟は叫びながら、さらに熱湯に肩まで浸かる。
熱湯と冷水。
塩スクラブとナイロンタオル。
二つの浴室で、全裸の男女が一人で叫び、のたうち回り、自分自身を痛めつけ合う。
「パパ? 大丈夫? ……なんか、叫んでるけど」
「パパ? 開けていい?」
それぞれの脱衣所の外で、家族が不審そうに声をかける。
「入ってくるなァァァ!!!」
二人の声が、奇跡のハモリを見せて重なった。
十分後。
風呂上がりの二人は、共に真っ赤な顔(のぼせた神悟と、冷えて擦りすぎた千夏)で、スマホを睨みつけていた。
千夏からの送信
『次、40度以上に設定したら殺す。あとその大根おろしみたいなタオル燃やせ』
神悟からの返信
『冷水やめてください心臓止まります。あと腕をヤスリで削るのやめて。塩? 塩塗ったの? ナメクジなの?』
清潔になるはずのバスタイムで、二人は満身創痍になっていた。
続く




