第18話 激走ママチャリと、殺意のポリエステル
翌朝、午前七時半。
高島平の団地街を、冷たい空っ風が吹き抜ける。
伊集院神悟は、愛車の錆びついたママチャリを必死に漕いでいた。
だが、今日の通勤は、ただの運動ではない。
「拷問」だ。
「……あ、あぐっ……! か、風が……!」
神悟はハンドルを握りながら、白目を剥きそうになっていた。
ヒュゴオオオオ!!
真冬の冷たい強風が、安物のスーツの生地を通り抜け、中のワイシャツをバタバタとはためかせる。
そのたびに、昨夜の「塩スクラブ・ゴシゴシ洗い」で一皮剥けたデリケートな肌が、紙やすりのようなワイシャツに擦り付けられるのだ。
「ひぎぃっ!!」
神悟は変な悲鳴を上げた。
さらに不運なことに、高島平の歩道は微妙に凸凹している。
ガタン! ガタン!
タイヤが段差を拾うたびに、振動がハンドルから二の腕に伝わり、ヒリヒリする皮膚を内側からシェイクする。
(痛い、痛いよぉ……。なんで自転車ってこんなに振動するの? 誰か道路舗装して! あとヒートテック、もっと優しく包んで……!)
神悟が心の中で行政とヒートテックにクレームを入れていると、後ろから電動自転車に乗った若いママさんが「チリンチリーン!」と猛スピードで抜かしていった。
その風圧で、またワイシャツが擦れる。
「あだぁっ!!」
神悟は悶絶し、赤信号で止まると同時に、ガードレールに突っ伏した。
――そして、その痛みは当然、Wi-Fiに乗って飛んでいく。
同時刻。イエローマートの更衣室。
早乙女千夏は、パートの制服に着替えている最中だった。
彼女もまた、地獄を見ていた。
「……っ、くぅぅ……!」
千夏はロッカーに手をついて耐えていた。
背中だ。
昨夜、神悟が「男の硬めナイロンタオル」で親の仇のように擦り倒した背中が、真っ赤にミミズ腫れを起こしている(感覚的に)。
そこへ、神悟が自転車で段差を乗り越えた時の「ガガガッ!」という振動と摩擦が転送されてきた。
「……いったぁぁ!!」
千夏は叫びながら、反射的にロッカーを蹴り上げた。
ドガン!!
更衣室に爆音が響く。
「な、なによ早乙女さん、朝から……」
同僚のパート主婦が引いている。
千夏は鬼の形相で振り返った。
「……ポリエステルよ」
「はい?」
「この店の制服のポリエステルが……私の背中を食いちぎろうとしてんのよ……!」
「はあ……?」
千夏は制服を睨みつけた。
安物の化学繊維。通気性は悪いし、肌触りはガサガサ。今の千夏の背中にとっては、「おろし金」を着ているのと同じだ。
しかも、謎の振動(自転車)まで加わって、背中がバイブレーション機能付きで削られている。
千夏は震える手でスマホを取り出した。
もう限界だ。
このままでは、ストレスと皮膚炎で死ぬ。
『おいジジイ。昼休み、イエローマートの屋上に来い』
信号待ちの神悟も、必死の形相でスマホを取り出した。
かじかんだ手が震え、誤字脱字だらけの返信を打つ。
『了解です……停戦だ……これ以上はお互いの表皮が持たない……平和条約を結ぼう……』
午前十二時。
イエローマートが入っている商業ビルの、誰もいない屋上。
そこに、二人の戦士が現れた。
神悟はワイシャツの袖をまくり、腕に大量の絆創膏を貼っている。
千夏は制服の下にタオルを挟み、背中をかばうように猫背になっている。
「……よう」
千夏がドスの利いた声で言った。手にはコンビニのおにぎり。
「生きてたか、敏感肌」
「……君のおかげでね。皮一枚で繋がってるよ」
神悟は、手にしたウィダーインゼリー(胃が荒れているので固形物が無理)をちゅーちゅーと吸いながら、力なく笑った。
冬の空っ風が吹く。
二人はフェンス越しに並んだ。
お互いを見ない。見ると腹が立つからだ。
「条約を結ぶ」
千夏が単刀直入に言った。
「私たちが生き残るための、最低限のルールだ。……文句あるか」
「ありません」
神悟は即答した。
「全面降伏です。もう僕の身体はボロボロだ。君の生理痛と、スクラブと、激辛麻婆のトリプルコンボで、寿命が十年縮んだ気がする」
「こっちだって、あんたの加齢臭と、腰痛と、ナイロンタオルのせいで、美容皮膚科に行かなきゃなんないのよ」
千夏はノートの切れ端を取り出した。
そこには、殴り書きで『高島平・身体不可侵条約』と書かれていた。
「第一条。風呂場での『硬いタオル』および『塩』の使用禁止」
「異議なし! 全面的に賛成です!」
神悟は食い気味に同意した。
「じゃあ、これで……」
千夏がノートを閉じようとした時、神悟が血相を変えてノートを押さえた。
「ま、待って! もう一つ! これだけは入れてくれ!」
「あ? なによ」
「第二条! 激辛料理の禁止! ……あれは食事じゃない、内臓へのテロ行為だ! 僕の胃が溶けてなくなる!」
神悟の必死の訴えに、千夏は露骨に嫌な顔をした。
「はぁ? あれが美味いんじゃない。……チッ、わかったわよ。じゃあ『休日の前日のみ解禁』で妥協してやる」
「……ぐぬぬ、本当は全面禁止がいいけど……命拾いはしたか」
「その代わり」
千夏がニヤリと笑った。
「あんたの『ワンカップ』も制限かけさせてもらうからな。臭いし、味が安っぽいんだよ」
「なっ……! あれは僕のガソリンだぞ! 唯一の楽しみを!」
「うるさい。こっちだって激辛我慢するんだから、あんたも安い酒で誤魔化すな。……飲むなら、もっとマシな酒にしな」
「……鬼だ。君は鬼だ」
屋上で繰り広げられる、低レベルな首脳会談。
だが、この時の二人はまだ知らなかった。
この条約が、その日の夕方に起こる「会社での大事件」によって、あっけなく破られることになるのを。
続く




