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第19話 鬼部長の咆哮と、豆腐メンタルの崩壊


 午後六時。


 早乙女千夏は、自宅の食卓で、湯気の立つ鍋を見つめていた。


 中身は、湯豆腐だ。


 薬味はなし。ポン酢のみ。


「……優しい」


 千夏は豆腐を口に運び、うっとりと目を閉じた。


 刺激がない。痛くない。


 昼間の条約通り、お互いの内臓をいたわる「超・減刺激メニュー」。


 これなら、あのジジイの胃が荒れることもないし、私の背中が粟立つこともない。


 平和だ。シンクロなんて、無視して暮らせばいいのだ。


 だが、その平和は、唐突な電子音によって破られた。




 『伊集院! ちょっと来い!』


 千夏の脳内に、聞いたことのない野太い怒鳴り声が響いた。


 幻聴ではない。神悟の鼓膜が拾った音が、そのまま転送されてきたのだ。


「……あ?」


 千夏が箸を止めるのと同時に、胃のあたりがギュルッと嫌な音を立てて収縮した。




 ――同時刻。轟(とどろき)運送、高島平営業所。


 「は、はいっ! 今行きます!」


 伊集院神悟は、弾かれたように席を立った。


 声の主は、営業所長の権田だ。


 通称・ジャイアン。ただし、映画版の優しいジャイアンではなく、のび太をバットで殴るタイプの初期のジャイアンだ。


 神悟が小走りで所長席に向かうと、権田は受話器をデスクに叩きつけた直後だった。


「おい伊集院。お前、先週配送した『亀山商事』の荷物、どうなってんだ」


「えっ……か、亀山商事ですか? 予定通り、金曜日に……」


「届いてねえって電話が来てんだよ!!」


 ドガン!!


 権田がデスクを蹴り上げた。


 その衝撃音で、神悟の心臓が「ひっ」と縮み上がる。


「先方の社長がカンカンだ。『大事なサンプルが届かないせいで商談が流れた、どうしてくれる』ってな。……おい、お前伝票確認したか? 配送完了メール見たか? ああ!?」


「あ、あの、それは、確認したつもりで……」


「つもり!? つもりで仕事してんのかテメェは!! この給料泥棒が!!」


 罵倒の雨あられ。


 唾が飛ぶ距離で怒鳴られ続け、神悟の「豆腐メンタル」は一瞬で崩壊した。


 思考停止。動悸。冷や汗。


 そして何より――「胃痛」だ。


 ストレス性の胃酸過多が、ナイアガラの滝のように胃壁を溶かし始めた。




 ズキィィィィン!!


「ぐっ……!!」


 早乙女家の食卓で、千夏が腹を押さえてうずくまった。


「い、痛ぁ……! 何これ、胃が……雑巾絞りされてるみたい……!」


 優しいはずの湯豆腐が、胃の中で鉛のように重くなる。


 千夏は脂汗を流しながらスマホを掴んだ。


 『おい! 何があった! 胃が千切れそうだぞ!』




 神悟はスマホを見る余裕すらなかった。


 権田所長が、さらに追い打ちをかけていたからだ。


「いいか、今すぐ亀山商事に行ってこい。土下座でも何でもして、許してもらうまで帰ってくるな」


「えっ……い、今からですか? 先方の社長は……」


「超・武闘派で有名な人だ。お前みたいなナヨナヨしたのが一番嫌いなタイプだな」




 権田はニヤリと笑った。


「もし契約切られたら……わかってるよな? お前の退職金で補填できる額じゃねえぞ」


「ひっ……」


 神悟の顔から血の気が引いた。


 クビ。借金。路頭に迷う。  


 最悪の想像が頭を駆け巡り、足の震えが止まらない。


(無理だ……僕なんかが行っても、火に油を注ぐだけだ……殺される……)


 神悟は恐怖で過呼吸になりかけていた。




 その時。


 ブブブッ。


 ポケットのスマホが震えた。  


 千夏からだ。


『おいジジイ! 応答しろ! こっちまで吐きそうだ!』


 神悟は震える手で、デスクの下で隠れるように返信した。


『助けて……これから、ヤクザみたいな社長のところに謝罪に行かされる……』  


『足が震えて動かない……怖い……逃げたい……』




 千夏は、送られてきた文面と、伝わってくる「本物の恐怖」に絶句した。


 いつものふざけたビビリ方じゃない。  


 これは、大人が社会的に抹殺される寸前の、魂の震えだ。


「……チッ」


 千夏は舌打ちをした。  


 平和条約なんて言ってる場合じゃない。  


 このままじゃ、このジジイはプレッシャーで胃に穴が開いて死ぬ。  


 そうなれば、私も道連れだ。


「……あーもう! しょうがねえな!」


 千夏は立ち上がった。  


 冷蔵庫を開ける。  


 そこには、条約で「禁止」したはずの、とっておきの「劇薬」が冷えていた。


 『おいジジイ。私の感覚(チャンネル)に合わせろ』


 千夏は送信ボタンを押すと同時に、その瓶の蓋をねじ切った。




続く


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