第20話 テキーラ・サンライズと、覚醒する土下座
午後六時十分。
早乙女千夏は、キッチンで小さな瓶を握りしめていた。
『クエルボ・ゴールド』。
アルコール度数40度のテキーラだ。
かつて、ヤンチャしていた頃に愛飲していた「着火剤」。
「……ジジイ、死ぬなよ」
千夏は祈るように呟くと、瓶を煽った。
ショットグラスなんて使わない。ラッパ飲みだ。
ゴキュッ、ゴキュッ、ゴキュッ……!
食道が焼けるような熱さが走り、胃袋で爆発する。
視界が少し揺れる。
これだ。この「無敵感」だ。
――同時刻。亀山商事、応接室。
伊集院神悟は、震えていた。
目の前には、亀山社長(60代・スキンヘッド・強面)が、般若のような顔で座っている。
「で? 言い訳はそれだけか?」
亀山社長の低い声が響く。
「配送ミスひとつで、ウチがどれだけ損したと思ってんだ。……あぁん?」
「ひっ、す、すいません……あの、それは……」
神悟は萎縮して、言葉が出てこない。
胃が痛い。帰りたい。もう土下座して逃げ出したい。
その時だった。
ドクン!!
神悟の心臓が大きく跳ねた。
直後、喉の奥から「カァァッ!」と熱いものがせり上がってきた。
(え? なにこれ? ……酒?)
飲んでいないのに、口の中にテキーラの芳醇な香りと、あの懐かしい「酩酊感」が爆発的に広がったのだ。
一瞬で、血流が加速する。
冷え切っていた手足がポカポカし始め、恐怖でガチガチだった脳みそが、ふわっと緩んでいく。
『行けジジイ! エンジンは暖まったぞ!』
脳内に、千夏の檄が飛ぶ。
神悟の目つきが変わった。
さっきまでの「怯えた小動物」の目は消え、代わりに据わった「アル中の目」が現れた。
シラフの神悟はただの弱虫だが、酔った神悟は――「無敵」だ。
「……おい、聞いてんのかコラ」
亀山社長が机を叩く。
神悟はゆっくりと顔を上げた。
そして、ニヤリと笑った。
「……社長。あんた、声がデカいよ」
「はぁ!?」
亀山社長が目を剥いた。同席していた轟運送の若手社員も凍りつく。
神悟はふらりと立ち上がると、社長の目の前まで歩み寄った。
千鳥足ではない。まるでダンスを踊るような、軽やかなステップだ。
「ミスったのは悪かった。謝る。ごめんね!」
神悟はパパン! と手を合わせた。軽い。軽すぎる。
「でもさぁ、社長。あんたも商売人ならわかるでしょ? 過ぎたことをグチグチ言っても、金は戻ってこないのよ。大事なのは『これからどうするか』じゃないの?」
「て、てめぇ……! 何様のつもりだ!?」
社長が立ち上がり、神悟の胸ぐらを掴もうとする。
だが、神悟はその手をヒョイとかわし、逆に社長の肩をガシッと抱いた。
「怒ると血圧上がるよ? ……俺さ、いい店知ってるんだ。高島平の裏路地にある、焼き鳥屋。そこのレバーが絶品でさぁ」
神悟はうっとりとした顔で語り始めた。
「ミスった埋め合わせは、体で返すよ。今から飲みに行こうよ。俺の奢りでさ。……あんた、寂しい顔してるもん。本当は誰かと飲みたかったんでしょ?」
亀山社長が固まった。
図星だった。
強面すぎて誰も誘ってくれない孤独な社長。
その心の隙間に、アルコール度数40度の神悟がスルリと入り込んだのだ。
「……てめぇ、名はなんて言う」
「伊集院。……しがない、死にぞこないさ」
数秒の沈黙。
亀山社長の口元が、わずかに緩んだ。
「……レバーが不味かったら、東京湾に沈めるぞ」
「任せとけって! タレが最高なんだから!」
神悟は振り返りもせず、呆然とする部下にピースサインを送った。
――数時間後。
自宅のリビングで、千夏は空になったテキーラの瓶を転がしていた。
頭がガンガンする。
『……あ〜、飲みすぎた……気持ち悪い…』
神悟からのメッセージが届く。
『契約、継続だってさ。……ありがとう、相棒。君のガソリン、効きすぎだよ』
千夏はふふっと笑い、そのままフローリングに大の字になった。
「いい加減にしろ……調子に乗るなよ、クソジジイ」
最悪の夜が、最高の夜に変わった瞬間だった。
続く




