第46話 絶対零度の交渉術で神悟は外道との最終決戦に挑む。
午後八時。
大衆食堂の裏手にある薄暗い廃材置き場。むき出しの鉄骨とベニヤ板が転がる空き地に、神悟は一人で立っていた。
ザッ、ザッ……。
砂利を踏みしめる荒々しい足音とともに、健介が暗闇から姿を現した。
手には、どこで拾ったのか短い鉄パイプを握りしめている。
「よう、ジジイ。てめえ一人かよ」
健介は周囲を警戒するように見回し、神悟が持っている紙袋をねめつけた。
「千夏とガキはどうした。金はきっちり百万入ってんだろうな」
「ええ。ここに」
神悟は紙袋を足元に置き、背広の内ポケットから一枚の紙を取り出した。
「ただし、条件があります。この離婚届と、今後一切、千夏さんと拓也くんに接近しないという念書にサインをしてください。サインと引き換えに、この百万円は慰謝料としてあなたに譲ります」
「あぁ!?」
健介は顔を真っ赤にして凄んだ。
「ふざけんな! 元はと言えば俺の金だ! なんで俺がそんなモン書かなきゃなんねえんだよ!」
「書かなければ、紙袋ごと燃やします。ライターのオイルをたっぷり染み込ませてありますから」
神悟は百円ライターを取り出し、カチッと火をつけた。
健介の顔が引きつる。百万円が燃やされるかもしれないという焦り。
「て、てめえ……本気で言ってんのか!」
表面上、神悟の態度は氷のように冷たく、完璧な交渉人に見えた。
だが、その裏側で――。
――ビジネスホテルの客室。
ベッドに座っていた千夏は、突然、胸をかきむしりたくなるような「猛烈な恐怖」に襲われ、床にうずくまっていた。
「……っ、ハァッ、ハァッ……!」
足の震えが止まらない。心臓が早鐘のように打ち、冷や汗が全身から噴き出す。
それは、神悟の感情だった。
神悟は、本当は恐怖で死にそうだったのだ。
鉄パイプを持った凶暴な男を前にして、足の震えを必死に殺し、三十年間のクレーム対応で身につけた「感情を殺す術」だけで、ギリギリのハッタリをかましているだけだった。
(……あの馬鹿ジジイ……! どんだけ無理してんだよ!)
千夏はギリッと歯を食いしばった。
さらに、神悟の奥底にある「ある感情」が流れ込んできた瞬間、千夏は血の気が引くのを感じた。
神悟は、交渉を成立させるつもりなど最初からなかったのだ。
念書にサインをさせるのはただの挑発。
神悟の本当の狙いは、健介を激昂させ、自分を徹底的に痛めつけさせること。
物理的な暴力と、金を奪われるという絶望。
自分がすべての泥を被って「圧倒的な地獄」に落ちることで、千夏との絶望の濃度をずらし、不具合を終わらせるつもりなのだ。
(ふざけるな……! 誰がそんな自己犠牲、頼んだ!)
ドンッ!
その時、千夏の体に「鈍い痛み」が走った。
廃材置き場で、激昂した健介が神悟の腹を蹴り上げたのだ。
「ぐっ……!」
ホテルで千夏が呻き声を上げる。痛い。
だが、それ以上に、神悟が一人で壊れていくのを黙って見ていることなど、絶対にできなかった。
「……拓也、ごめんな。ちょっとだけ、母ちゃん行ってくる」
千夏は眠る拓也に毛布をかけ、部屋のドアを勢いよく開けた。
一刻も早く、あの馬鹿な不器用男をぶん殴って目を覚まさせるために。
続く




