第44話 どちらかが深い地獄に落ちるという残酷な選択を迫られる。
ファミリーレストランの喧騒の中、神悟と千夏のテーブルだけが冷たい静寂に包まれていた。
隣の席で拓也がデザートのアイスクリームに夢中になっているのを確認し、神悟が重い口を開く。
「……絶望の濃度をずらして、この不具合を終わらせる。理屈は簡単です。どちらかが圧倒的な幸福を手に入れるか、あるいは……」
「どちらかが、今よりさらに深い地獄に落ちるか、だろ」
千夏が、冷めたコーヒーを見つめたまま神悟の言葉を奪った。
「ええ。そして、帰る家すら失った僕たちが、今すぐ圧倒的な幸福を手にするなんて不可能です」
神悟は自嘲気味に笑い、そして、まっすぐに千夏を見た。
「だから、僕が地獄に行きます」
「……は?」
「僕の絶望の濃度を、君よりもさらに深く重いものにするんです。そうすれば、アカシックレコードは僕たちを別々の存在として再認識し、繋がりは切れる」
神悟の目には、迷いがなかった。
「君には拓也くんがいる。これから二人で生きていくための百万円もある。でも僕には、もう守るものも帰る場所もない。僕がすべての泥を被って、さらに深い底辺に落ちれば済む話です」
ドンッ!
鈍い音が響いた。千夏がテーブルを強く叩いたのだ。
拓也がビクッと肩を揺らし、不思議そうに母親を見た。
千夏は「ごめんな、なんでもない」と無理に笑いかけ、再び神悟をきつく睨みつけた。
「……ふざけるなよ、ジジイ。誰がそんな悲劇の主人公みたいな真似を許すかよ」
「千夏さん、これは合理的な判断です。僕たちの自我が混ざり合って消滅する前に……」
「うるさい!」
千夏は身を乗り出し、神悟の胸ぐらを掴む勢いで顔を近づけた。
「いいか。私があの黄色い看板のイエローマートで、あんたを心の底から見下して軽蔑したのはな、あんたから『どうせ俺の人生なんてこんなもんだ』っていう、諦めきった負け犬の匂いがしたからだ!」
神悟は息を呑んだ。
千夏の瞳の奥で、怒りにも似た強い炎が揺れている。
「すべてを諦めて一人で地獄に落ちるなんて、絶対に許さない。私を助けるためにあんたが壊れたら、私の頭の中に『あんたの最悪の絶望』が流れ込んできて、結局私も狂うんだよ。一蓮托生だって言っただろ!」
「……千夏、さん」
「別の方法を探すんだよ。二人とも生き残って、この狂った繋がりを断ち切る方法をな」
千夏は乱暴に椅子に座り直し、腕を組んだ。
自分の命を捨ててでも相手を救おうとした男と、それを全力で拒絶した女。
最悪の他人同士として出会った二人の間に、いつの間にか、血よりも濃い奇妙な絆が結ばれていた。
だが、運命は彼らに考える時間を与えてはくれなかった。
その時、千夏の携帯電話が、無機質な振動音を立ててテーブルの上を滑った。
画面に表示された名前は、二度と顔を見ないと宣言したはずの男、「健介」だった。
続く




